2.夏
衣替えの季節が来て、同級生がみんな薄着になった。
みのりのワイシャツも半袖になって、生地は入学したころよりもずっと薄くなった。動きやすくて楽だなあと思うのと同時に、最近、少しだけ気にかかることがある。
男子の視線、その他である。
「あーっ、みのりのやつ、透けブラしてやんのー」
最近ことあるごとにこんなふうに突っかかってくる、みのりのひとつ前の席の、彼女とあまり背の変わらない男子。
「お前ブラなんかいるの? まな板のくせに。まな板まな板、まな板みのりー」
なんだか最近毎日同じことを言われている気がするなあ……と、みのりは内心ため息をつく。確か昨日もそうだった。一昨日だったかもしれない。言い返すのも大人げないと思ってずっと聞き流していたが、こう何度も続くとさすがに気が滅入った。
「……。あのさ、そういうの、小学校で卒業しときなよ」
真顔で答えると、男子はぐっと口をつぐんだ。
「普通に話してくれたら、こっちも普通に返すからさ」
「……別にお前と話すことなんてねーし」
そんなふうに言い捨ててそのまま前を向いてしまった。みのりは釈然としない気持ちになった。話しかけてきたのはあっちなのに、何を考えているのかまるで理解出来ない。
「あいつ、絶対みのりのこと好きだよね」
「えぇー……?」
そして友達同士では大体こんな話になる。確か昨日もそうだった。一昨日も、多分その前も。
話し相手が女子でも男子でも、同じ話題ばかり続くと気が滅入るのは一緒なんだなあ……と、みのりはふたたびため息をつく。
「そんなわけないよ。好きな相手にあんな言い方する?」
理科室での授業中で、実験の準備中で、要はほとんどの生徒が暇だった。みのりの班の男子は教師が離席したのをいいことによくわからないことをして遊んでいる。みのりは上皿天秤の左側の皿に分銅を乗せ、塩の詰まった袋の口をはさみでちょっと斜めに切り、右側の皿に少しずつ乗せていく作業をしていた。
小学校よりも高度になった授業の中で塩の別名が塩化ナトリウムであることを教わったみのりたちのクラスでは、塩を塩化ナトリウムと呼ぶのが局所的に流行した。家でそのノリを踏襲して夕食の準備中に「お母さん、塩化ナトリウム1グラム足して」と言ってみたことがある。
まさかあんなに受けるとは。
それはさておき、別に好きでもない男子に塩なんて送られてもなあ……とみのりは思うのだった。相手に好意を持っているなら、送るべきなのは、どちらかと言えば甘い砂糖――のような言葉――なのではないだろうか。
そういう趣旨のことを言うと、大人な同級生は「わかってないなぁ」と笑った。
「好きな相手だから、ちょっかい出して構ってもらいたいのよ」
男のコってそんなんらしいよ、と彼女たちは言う。どうやら子供の自分とは違って大人は塩味の方がお好みのようだった。
「なんていうか……」
みのりは想像の埒外にある男子の内面を想像し、
「ピンとこないな…………」
「みのりってたまに変な言い方するよね」
話題が変わって、消費税のせいで小銭が増えて大変だとか、先日始まったドラマにかっこいい俳優が出ているとかそんな話になった。なんとかブギというドラマのタイトルがみのりの頭に残った。お姉ちゃんなら知ってるかなあ、帰ったら聞いてみようかなと思う。
「みのり、入れすぎ、入れすぎ!」
「え?」
気が付いたら目の前に山盛りの塩があった。天秤の均衡は完全に乱れて、体格差のある二人が乗ったシーソーのように斜めに傾いでいた。
「戻して戻して」
「もったいない、いっぱいこぼれてるじゃん」
近くにいた女子が騒いだり、空いたビニール袋を持ってきてくれたりした。
《――》
そのいくつかの声に混じるように、耳の奥で何かが聞こえた。
音、であるかどうかも明瞭ではないそれは、
---
漣に似た――何かだった。
---
「ふぁ」とみのりは声を上げる。
「え、なに?」と同級生も声を上げる。
「今、誰か、何か言った?」
誰もが揃って首をかしげた。
寝ぼけてたんじゃないの、と誰かが言って、みのりってそういうところあるよね、という話になった。
聴覚の外側で教室の喧騒が大きくなり、男子のよくわからない遊びはいよいよ意味がわからなくなっていた。騒ぎを聞きつけて駆け戻ってきた教師が「こらあああああああああああああ!!」と大声で叱責し、男子の動きが凍り鬼のように綺麗に止まり、ついでに女子のさえずりも止まって全部が一気に静かになった。
窓から見えるコナラの幹に蝉が一匹止まっていた。
蛇口に溜まっていた水が雫になって落下した。
そういうところってなんだろうとみのりは思ったが、考えてもよくわからなかった。
次の日、みのりの胸は16センチ大きくなった。
「タオルかなんか詰めてる?」
と姉が聞いてきたのも無理はないが、みのりとしては首を横に振るしかない。
廊下を歩くだけでもいつもと勝手が違って、階段も少しふらつきながら下りてきた。普段から口数の少ない父親はいつも以上に所在がなさそうで、目を合わせた途端に新聞で顔を隠してしまった。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
「学校、行きたくない……」
「そうねえ……。ちょっと気になるから、お母さんと病院行こっか」
母親は電話機の横に置いてある連絡帳を見ながら、学校と病院に電話をかけはじめた。
病院に行ったが詳しいことはわからなかった。
若い眼鏡の先生で、触診のときにどこか申し訳なさそうにしていたことと、診察の間に「うん……うん……」と何度も言うのがみのりの印象に強く残った。しかし結論を聞いたところでは、何かがわかったときの「うん……」ではないようだった。
最終的には、あまり大きくなるようだったら手術を考えます、という話で締めくくられた。
「し、手術はちょっと……」
「そうですよね。怖いですよね。まあ、しばらく様子を見ましょう」
先生はとても優しそうな顔をした人だったけれど、みのりは安心することができなかった。
診察室を出て、母親と一緒に帰り道を歩く途中もずっと、手術という言葉が頭を巡り続けていた。
自分の部屋に戻るなりベッドに身体を投げ出した。
昨日まで胸が重いなんて想像もしてなかったのにな、とみのりは思う。歩いたり動いたりするたびに揺れて不安定な、巨大なバレーボールがぶら下がったようなふたつの物体は正直邪魔でしかなかった。身体をねじって仰向けになると、重力に引かれて潰れた求肥のようになった胸が両脇に流れて据わりが悪くなった。服に手を入れて位置を直す。密着した肉のあいだに篭っていた熱を逃がすと、少し気分が楽になった。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな」
わざと口に出してみる。その声は想像以上にか細く震えていて、自分でも驚いた。
《――re》
また、耳の奥で何かが聞こえた、ような気がした。
怖いなと思った。自分の知らないところで、何かが、自分の都合のよくない形に変わり始めているような気がした。
それを口に出すことはできなかった。
言葉にさえしなければ、現実にならないでいてくれる気がしたのだ。
次の日、みのりの胸は38センチ大きくなった。
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