この胸の中の銀河

広咲瞑

1.春

 身体測定は出席番号順で行われるから、星野みのりの番が来るのは真ん中より少し後ろだった。

 こんなことでもなければそうそう訪れることもない、白くて清潔でオキシドールか何かが香る保健室の隅。所在がなくて壁にかかった猫のカレンダーを見ている。1989年5月。ついこの間元号が変わって以来最初の学生を迎えた学校は新緑の季節にふさわしい活気に溢れている。家のリビングのブラウン管テレビに映った見慣れないおじさんが『平成』と書かれた紙を掲げていたのも記憶に新しい。とはいえ、みのりの印象にいちばん強く残っているのは、名前も忘れたそのおじさんのおかしな眉毛の形だったが。

「みのりって、ブラまだなんだね」

 所在がないのは他の生徒も一緒のようで、後ろから小声で話を振ってくる。当の彼女はシンプルな白地にかわいらしいリボンがあしらわれたブラジャーをつけている。他の生徒も十人十色の華やかさで、さながら少女たちを主役に据えたファッションショーの様相だ。ひとりだけ際だって背の低いみのりとしては、アンダーシャツ一枚の自分が恥ずかしく思えた。

 勇気を出して、自分よりずっと大人に見える彼女に尋ねてみる。

「胸があるって、どんな感じ?」

「うーん……ちょっと邪魔……かな」

 体育のとき恥ずかしいし、男子がからかってくるし、と彼女は言う。そんなふうに言えるところも、大人っぽいなあ……とみのりは思う。

 やがてみのりの番が来て、保健室の先生の前に立つ。両腕を上げてばんざいの格好をすると、先生がちょっとごめんねと言って巻き尺を胸に当ててくる。思いのほか冷たくて「ひゃっ」と声が出てしまい、小さな笑いが周りに伝播した。先生も苦笑いを浮かべて、すぐ終わるから我慢ねと言って手早く巻き尺を巡らせた。

 後で受け取った身体測定表の胸囲の欄には、63.3センチと書かれていた。

 何ともなしにため息が出た。

 もう少し大きくならないかなあ、とみのりは思った。

 

 ---

 

 それは漣に似た何かだった。

 鼓膜に触れる、音ではなく、脳内を飛び交い感覚に触れる情報の塊のように思えた。

 繰り返すパターン/透光の明滅/点字、あるいはモールス信号……

 それは、

 ――声?

 

 ---

 

 翌朝ベッドで目覚めたみのりは自分の手の中の柔らかい感触に気付く。

 なんだろうと思って指を動かしてみる。ゴムボールみたいに弾力があって、手のひらで押すとつぶれる。なんだか懐かしい手触りだなと思い、なんだっけなあと寝ぼけた頭をゆっくりゆっくり動かして、そう言えばお母さんのおっぱいがこんな感触だったなあと思い至ったところで、一気に目覚めた。

「……おっぱい?」

 右手は自分の胸にあった。

 しばし思考を巡らせたあと、左手も自分の胸に置く。

 寄せて、上げる。

「やわらかい……」

 ちょっとした感動を覚えるくらいには新鮮な感触だった。

 やおらにみのりはベッドから飛び降り自室のドアを開け放つ。二階の部屋から一階へ足音も高く階段を駆け下り家族の待つダイニングに飛び込む。トーストを焼いていた母親と新聞を読んでいた父親と手持無沙汰にしていた姉の顔が一度に自分の方を向き、

「みんなきいて!!」

 揃って怪訝な顔の家族に叫ぶ、

「おっぱいでかくなった!!」



「67.2センチですね」

 その日のうちに母親と姉に連れて来られた百貨店の下着売り場で、みのりは店員から具体的な数字を聞いた。

「すごい、わたし、一晩で4センチも大きくなってる」

「本当にすごいわねえ。成長期かしらねえ」

「そんなわけないでしょ……」

 おっとりとした母親に向かって、姉が呆れたように言う。

「先生が計測間違えたんじゃない? 現実的に考えて」

「でも昨日こんなに出てなかったよ」

「気のせいだって」

 姉は言い切る。みのりとしては納得が行かなかったが、自分でも理屈が通らない気がしたので反論を呑み込んだ。

 三人で手分けしてAAカップのブラジャーを探した。みのりは同級生たちがつけていたようなものを探したが、しっくりくるのが見つからなかった。

 店内では光GENJIの『パラダイス銀河』が流れていた。みのりは曲名を知らなかったが、同級生たちがよく口ずさんでいる曲だったから、サビのフレーズだけはよく知っていた。

 胸のリンゴってどういう意味なんだろう、などと考え事をしている間に姉が可愛らしいものを見つけてくれた。淡いライムグリーンの、精緻なレースの施されたもの。母親は「やだ、そんなのみのりには早いわよ」と言ったが、姉は「今はこれくらいがいいんだって」と言い、みのりが「うん……これがいい……」と嬉しい気持ちを押さえながら伝えると、母親も折れてくれた。

 試着室に入り、上着を脱ぎ、それまで着ていたシャツも脱ぐ。今の自分の姿を鏡で見たのは初めてだったが、胸は明らかに昨日よりも大きくなっていて、自分の身体のことなのに少しだけドキドキした。

 早速つけてみようとしたが、どうしても背中のホックを上手く留めることができない。鏡を見ながらやってもだめだった。

 困り果てて試着室のカーテンの隙間から顔を出して姉を呼び出した。姉は手際よく付けてくれた。付け方が気に入らなかったのか一度外して、みのりの後ろに回り込むと手際よく胸をカップに詰め込んで、最後に後ろのホックのところを『くっ』と下に引っ張って、うん、と満足そうに頷いた。

「いいじゃん、可愛い」

「本当? ありがとう」

「いつ誰に見せるかわからないんだから、いいのつけときなね」

「……? 誰かに見せるものじゃないでしょ? 友達とか?」

 みのりが聞くと、姉は一瞬真顔になった。その後でなんだか不思議な笑顔を浮かべて「まあそんなとこ」と答えた。

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