函館
第36話 会津降伏、そして蝦夷へ
新政府軍を明治政府軍と呼ぶようになってからわずか、とうとう会津も降伏をした。詳しい内容は分からないけれど、そこに至るまでは簡単には語れぬほど酷いものだったそうだ。新選組を率いた山口はどうなったのだろうか。生きているのかさえも分からない。これで、私の知る日本に旧幕府軍の味方はいなくなった。私たちに残された道は最後まで戦い続けるのか、それとも降伏するかのふた通りしかない。私はどちらでもいい。土方が決めることなら。
「会津が降伏した」
「そうですか」
「なんだ。妙に落ち着いているな。お前のことだから山口先生は! って、襟でも掴まれるのかと思ったよ」
「そんなこと、しませんよ」
土方はふんと鼻で笑うと私に背を向けた。私が騒いだところで何かが覆るわけではない。それに土方はこうなる事を前から分かっていたはずだ。もちろん、あのとき会津に残ると決めた山口二郎も。
「里ヶ浜に転陣する」
「はいっ」
私は知っている。山口が率いた新選組は援軍要請を受けて会津高久村の如来堂に布陣していた。そこが明治政府軍に襲撃され、隊士たちは散り散りとなった。その中でも生き延びて仙台に合流した隊士がいた。本来なら喜ぶべきことなのに、土方は希望者には罰則なしで離隊を許すと言った。特に跡継ぎとなるべく長男には餞別を握らせたようだ。中には泣きながら頭を下げ仙台を後にした者もいる。そして、米沢から同じく仙台に合流した松本良順にも江戸に帰るよう言ったのだ。優秀な医者で蘭学も学んだ方だから、味方のない先の見えない戦争には巻き込みたくなかったのだろう。
『あなたは前途有用な人である。自分は無能者、ただ国家に殉じるだけ』
先読みの力はないくせに、耳だけは良くなった自分が嫌いだ。土方は無能者ではないのに! そんな土方の姿を昔の新選組が見たら何と思っただろう。副長らしくないと、人が変わったのかと驚くにきまっている。
土方は無言のまま先頭を歩く。私も土方のあとを黙ってついて行く。ふと以前、屯所として宿陣していた
(どうか、どうか土方さんをお守りください!)
そして私たちは仙台から北東に進み、海の見える場所へ移った。暑かった夏もいつしか秋に変わり、行軍をしていることを忘れてしまいそうになるほど松島という土地はとても美しかった。それでも私たちは行軍と演習を繰り返しながら石巻まで転陣した。私たちはここで初めて異国の将校ブリュネという人間から調練を受けたのだ。指揮をとる榎本武揚は蝦夷行きの人員を制限した。いよいよ蝦夷に向う日は近い。
「おい、テツ。ここの連中に銭は払ったのか」
「どうでしょうか。私には」
「目先のことができてねえと、その先もできねえんだよ」
土方はそう言うと、うだうだとしている男たちに巾着を渡した。そして何か告げたのだろうか、男たちは先ほどとは嘘のようによく働いた。頼んでいないことまで率先してやろうとする。私たちは蝦夷に行くための荷造りと、食料などの物資を小舟に積み沖に停泊している船に運ぶ作業をしていたところだった。
「土方さん、あの男たちに何をしたのですか。まさか働かないと斬る……とか」
「おい。おまえは俺を何だと思ってやがる」
「鬼のふくっ……いたっ」
土方が私の額を指で弾いた。
(冗談なのに! 冗談なのにっ!)
「誰が鬼の副長だ。まったく……さっさと忘れちまえよ。そんな男はもういねえよ」
もう、過去は振り向かないとでも言うのだろうか。土方がどうであれ、私にはあの頃の怖い顔も嫌いではなかった。新選組のために、いちばん身を粉にしていたのは土方だったと私は思っている。
「そんな、寂しいことを言わないでください。副長を慕った者や信じた者が悲しみます」
「どうかな。きっと恨んでいる奴の方が多いだろうよ」
「土方さんっ」
私は泣きそうになった。多くの仲間が切腹し、多くの命が京の町にそして鳥羽伏見で散っていった。誰かが新選組は内部抗争しかしていないと陰口を叩いていた。でもそれを掻き消す勢いで隊を率いたのは他でもない、土方だったはずだ。嫌われ役を買って出て局長の近藤を押し上げたのは、間違いなく土方だ。そんな鬼でも沖田や原田たちは慕っていたではないか。
「なんでそこで泣く。ちょっとこっちに来い」
土方は私の腕をつかむと、誰もいない裏通りの軒下に引っ張って行った。まさか涙が出るとは自分でも思っていなかった。なぜ我慢できないのだろう。土方の事となるとこの有り様だ。
「土方さん、すみません。戻ってください。私は顔を戻したらすぐ行きますから」
「こんなところに置いて行けるかっ」
「こんなところって、土方さんが連れてきたのですよ」
「煩え」
ドンという音のあとに布が頬を擦った。目の前が真っ黒に覆われて、がしがしと後頭部が撫でられた。土方は優しすぎる。口は悪くて大雑把なふりをして、本当は繊細で優しくて情け深い男なのだ。
「く、苦しいですよ」
「文句ばかり言いやがって。まだまだガキだからな、仕方がねえのか」
「ガキではありませんよ。もう十六になりますから!」
「まだひと月あるだろうが」
「いや、もうすぐですよ」
顔を上げると、土方は口角を上げて笑っていた。切れ長の目尻が少し下がるとなんとも言いようのないくらいイイ男になる。もっと、こんな顔をさせてあげたい。
「おい、なにを呆けてやがる」
「土方さんは、やはりイイ男なのですね」
つい、頭の中のことを口にしてしまう。言ったそばからしまったと後悔をした。私はいったいなにをやっているのか。
「ほぅ……、一人前の口をきくんだな」
「すみません! 聞かなかったことにしてください。ガ、ガキの言うことだと思って流してくださっ……んん!」
両頬をつままれてそれ以上は話せなくなってしまった。以前の土方ならこんな子供じみたことはしなかったけれど、この頃は違う。人間らしいというか、時折、少年のような何かを企んだ顔をする。もしかしたら肩の荷が軽くなったのかもしれない。旧幕府派の相次ぐ降伏がそうさせたなら皮肉なものだ。
「おまえは無駄に色気を増やしやがってこのやろう。また船旅になるが、大丈夫なんだろうな」
「これの格好のどこに色気があるのですか」
「分かるやつには分かるんだよ……ちっ、顔歪めたままにしておくか」
「嫌ですよ!」
分かるやつにはとはどういうことか。胸を押さえてみたけれど、成長は進んでいないように思える。月のものも来たり来なかったりで、いっそこのまま止まればいいとさえ思っているくらいだ。
「おい、乳を触るな」
「触っていません、確かめただけです。大丈夫です。成長していません」
「……はぁ」
そうじゃねえんだと土方はブツブツ言いながら、仕事に戻るぞと私の襟首を掴んだ。猫ではないのだからやめてほしい。途中、沢忠輔とすれ違いふんっと鼻で笑われた。あの男だけは妙に腹が立って仕方がない。
「沢、どうだそっちは」
「はい。抜かりありません」
いつも自分に自信があって、何をやらせても要領がいい。土方はこの男をとてもかっている。だから余計に腹が立つ。
「テツ、足を動かせ。ほら、行くぞ」
「離してください。一人で歩けますからっ」
私は土方にいつも子供扱いされている。
そして、風が冷たくなり始めた頃、私たちは小舟に乗って折浜へと出た。そこには大きな艦船と呼ばれるものが七隻浮かんであった。大きな立派な大砲がある船だ。あの船が海での戦いを征してきたのかと思うと、心強さで体が熱くなる。
「大きい……」
「ここまで揃って並んだのは初めて見たな。幕府はとんでもない武器をもってやがった」
「頼もしいですね」
「そうだな」
多くは語らない土方とは違い、旧幕府軍の皆は興奮していた。蝦夷に渡り、再起して幕府を取り戻すのだと言いながら。
いよいよ蝦夷に向けて、私たちは出発した。
「そのまま蝦夷ですか」
「いいえ、宮古で物資を積むそうですよ。蝦夷は我々にとって未知なる場所。可能な限り物は揃えて置かなければ」
ともに海を渡ると決めた島田魁がそう言う。その隣には相馬もいる。この二人を見ているとほっとする。私の知っている新選組がここに生きているからだ。
「市村くん」
ゆっくりと沖に船首を向け始めた頃、船内から上がってきた大鳥圭介が手を振っている。確かに私の名を呼んだ気がする。
「鉄之助くん、呼ばれているよ」
「え、ええ。なぜ私なんでしょうか」
「さぁ」
私は相馬と首を傾げた。そうこうしていると、急ぎ足でやってきた大鳥が私の前で止まる。そして、愛想のいい表情で私を見下ろした。
「な、なにか……あ、土方さんなら榎本先生と」
「土方くんには用はないよ。僕は君に用があってきたんだ」
「私にっ、ですか」
「そう。君に」
頬に窪みを作り、少年のような笑みを私に向ける。そのせいでこの男が何を考えているのかが全く読めない。いったいなんの用が私にあるというのだろうか。
「ちょっと、僕の部屋まで来てくれないか」
「しかし」
「なぁに、時間は取らせないよ。あっ、もしかして土方くんの許可がないと君と接触してはいけなかったのかな。あゝそうか、ちょっと許可を取ってくるよ」
「お待ちください!」
すぐに終わる用のために、大鳥のような大物に手間を取らせては土方の顔を潰しかねない。私は慌てて呼び止めた。
「そのようなお手間をお掛けするわけにはいきません。参ります、大鳥先生のお部屋に」
「そう、ありがとう」
私は島田と相馬に少し場を外すと伝えると、島田が何か言いたげな表情を覗かせた。少し気にはなったけれど、大鳥の頼みを断る理由が私にはなかった。
「島田さん、相馬さん……のちほど」
大丈夫ですの意を込めて二人に軽く微笑み返した。私は大鳥のあとをついて行った。
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