第12話 錦の旗が上がる時
――ズザッ……ドッ
瞬時に黒装束の男の後ろに移動し、私は鞘から刀を抜いた。抜くのと同時に斜め下からその男の首を斬った。息を止めたまま一気にその動作を行ったので終わったときには、体が空気を欲していた。倒れたのは黒装束の男で土方は立っている。それだけ確認して、私は膝をついて息を整える。
(よかった……間に、あった)
「テツ!」
土方の声が頭のてっぺんでした。慌てて顔を上げると、土方の険しい顔が私を見つめる。なぜ、そんな顔をしているのだろう。走ってきた原田と山崎も言葉を失ったまま私を見ていた。
「テツ、お前っ……」
「えっ、な、なんですか」
土方は屈んで私と視線を合わせると、私の頭を引き寄せてその胸に押し付けた。視界が真っ暗になり混乱した。ただ、土方の胸はじっとり濡れており生臭さい。すぐにそれは血の臭いだと分かった。
「お前にこんなことさせちまった。原田、それを」
「ああ」
何かを引き摺る音がした。
「副長」
「鉄之助くんは、悪くないから。土方さんを助けたんだもの」
「え、あの」
「行くぞっ」
視界が開けたと思ったら、今度は土方が私の手を掴んで走り出した。まだ止まぬ大砲と鉄砲の音が迫っていたからだ。街道を走り抜けるころ、同時に日も傾き始める。私たちは林道に身を隠した。
日が傾くと、やはり寒さが戻ってきた。いや、緊張の連続で冬であることを忘れていただけだった。遥か南で育った私には耐え難い冷え込みに、気づけばガタガタと全身が震えていた。奥歯が鳴るのを初めて体験する。
「鉄之助くん、寒いですか」
椿さんが心配して私のそばに座ってくれた。さすがの私も強がりは言えず「はい、寒いです」と答えた。
「凍死するわけにはいきませんから、皆で寄り添って座ったほうがいいですね。眠らないでくださいね」
「はい」
椿さんはそう言い残し、怪我をした隊士たちを見て回る。周りを見ると、今にも息が絶えそうな者もいた。見るに耐えない光景に、私は抱えた膝に顔を埋めた。
「テツ、大丈夫か」
「副長……。はい、私は大丈夫です」
そう言うと、はぁと土方は溜息をつき、どかっと私の隣に腰を下ろした。土方は私の肩を抱き込むように引き寄せて頭を何度か撫でてきた。たったそれだに体が熱くなって、涙が溢れた。泣きたくないのに、泣いてしまう。
「すまなかった。小姓であるお前にあんなことを。まだ年端も行かないお前に、人間の首を」
「副長。私の意思で、そうしました。そうしようと決めて落としました。ですから」
「もういい」
それ以上は言わせてもらえなかった。あの時、私の顔を隠したように土方はまた私の顔を胸に押し付けた。その胸からは土方の心臓の音が乱れることなく力強く打っている。なんとなく目を閉じると、その音しか聞こえなくなり私は安らかな気持ちになれた。それに、土方は温かい。
「テツ、お前はあったけえな」
互いに温かいと思っていたことが、嬉しかった。
*
いつまでここに潜んでいるのかと不安をいだき始めた頃、偵察に出ていた監察の山崎が血相を変えて戻って来た。
「副長」
「どうした」
「薩長連合軍が、朝廷の、錦の御旗を掲げました」
土方は無言で立ち上がり林道脇へ向かった。私もそのあとを追い、そこから街道に目を向けると、薩長軍と思わしき集団が旗を上げて勢いづいていた。あれが山崎の言う朝廷の錦の御旗と言うものらしい。私にはそれが何を意味するのか直ぐには分からなかった。分かったのは私達にとって非常に不味いという空気だ。
「くそっ」
土方は爪がめり込むほど強く拳を握りしめていた。それを見てずくんと心臓が悪い痛みを覚え、錦の御旗の意味を思い出した。朝廷の錦の御旗は、天皇の命令で敵とみなした軍を討つときに、託されるもの。いわば、正義の御旗だっだ。という事は、薩長連合軍が
「賊軍……俺達が、賊軍だと! なぜだ」
あちらこちらでその御旗を見て、怒り叫ぶ者や声にならず膝を折る者が続出した。中には悲鳴のような声をあげ、林道から逃げる者まで現れる始末。土方は追いも追わせもせずに、ただ黙って突っ立ったままだ。叱咤しながら戦い、保ってきた士気が音を立てて崩れ落ちていく気がした。男たちの背中に屈辱という大きな石がのしかかる。私は声をかけることができず、その場を離れようとしたそのとき、原田がやって来た。
「土方さん、どうする」
険しい顔のまま土方が振り向いた。
「撤退する。大阪城まで、退け」
「分かった」
原田が座り込む隊士たちや幕府の兵士に向かって叫んだ。
「大阪城に向けて、撤退!」
動ける者は怪我をして走れないものを支え、或いは担ぎ林道を大阪に向けて移動を開始した。その傍らで、錦の御旗に勢いづいた薩長連合軍は、我こそが正義なりと幕府軍に向けて鉄砲を放ち、倒れた者の背中に刀を刺した。
「あいつら……っ、くそがっ」
背を向けて逃げる者も容赦なく斬られた。
「酷い……」
「まだ、伏見に残っている隊士がいるな」
まだ退こうとしない土方がそう言った。確かに新選組の主要幹部が残っている。井上源三郎、永倉新八、山口二郎ら率いる隊士がこれを知らずに戦っているかもしれない。
「誰か、伝令を頼めるものはいないか」
撤退命令を伝えるために、あの戦場を伏見まで戻るなんて。私は考えた。私なら軽巧を使えるし、攻撃を避けながら駆け抜けることは容易い。私しか、いないと。
「副長。俺が、行きます」
私が発する前に男が手を挙げた。その言葉に周りにいた者は息を呑む。山崎烝が志願したからだ。副長は山崎を失いたくないと一度は拒んだ。しかし、山崎は引かなかった。自分にしか出来ないと言って。
「私もお供します」
気づけば私もそう言っていた。山崎に何かあったら椿さんが悲しむから、それはどうしても見たくなかった。すると頭の上から恐ろしい声で土方が怒鳴る。
「ばかやろう」
「ひっ……だ、大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ。お前は分かっちゃいない。ここがどれだけ危険か、分かっちゃいねえ」
「分かっています!」
ここにいる誰よりも、私の足は速いのに。原田も気づいているはずだ。なのに、何も言ってはくれない。すると、土方は私の胸ぐらを掴んで引き寄せると「小姓が出すぎた真似をするんじゃねえ」と言い放ち、私を地面に叩きつけた。
「土方さんっ、鉄之助はまだ子供だぞ」
「子供だから知らしめてやらなきゃならねえだろ」
「そうだけどよ」
私は役に立たないと、言われたのと同じだ。叩きつけられた痛みは無かったけれど、胸の奥がとても痛かった。すると、黙っていた山崎が口を開いた。
「俺一人で行きます。俺なら、何処に隊士が居るか分かります」
「だが」
「必ず! 生きて戻ります。行かせて下さい!」
山崎の決意は硬かった。これは俺の仕事だ、誰にも務まりはしない。そんな顔をしていた。土方も分かっていたに違いない。山崎の他に任せられる人間はいない、と。
「分かった。貴殿に、新選組の撤退命令を託す。絶対に死ぬなよ。必ず生きて戻れ!」
「御意」
土方が山崎に
「山崎さんっ」
椿さんの悲痛な声が、私の胸を締め付けた。その声は山崎に届かない。そうと分かっていて叫んだのだと、未熟な私でも分かったことだったから。
「退けぇ――。新選組、撤退! 大阪城に向けて、走れっ。まだ終わらねぇぞ、諦めるなぁっ」
原田の声が止まっていた兵士たちの足を動かした。まだ終わりじゃない、こらからだ、将軍の待つ大阪城へ走れと鼓舞していた。原田は私の手を取り走る。私の方が走れば速いのに、この男気には敵わない。土方は椿さんの手を引き、庇うように走る。
(お願いします山崎さん。必ず生きて、お戻りください)
私には祈るの事しか、出来なかった。
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