第13話 軍医との別れ、そして江戸へ

 吐く息は白く動かし続けた足は、寒さのあまりに指先の感覚をなくしていた。無傷な私でこれなのだから、怪我をした者たちの苦労は計り知れない。途中で力尽きるものも多かった。大阪に入ってからは、山崎から撤退の知らせを聞いた隊士たちが次々と大阪城に登城した。再会に喜ぶのと同時に、悲しい知らせもあった。伏見奉行所を護っていた、井上源三郎が戦死したのだ。甥の泰助が言うには、撤退命令を受けたにも関わらず、仲間の逃げる道を開けるため、放棄された大砲で応戦し敵の銃弾を受けて死んだと。温厚な姿しか知らなかった私には、衝撃的な結末だった。誰よりも仲間を思い、己を犠牲にして散ったのだ。


「源さん……」


 土方が漏らしたその名に皆が涙した。井上源三郎は試衛館時代からの繋がりがある。そして、沖田総司の親戚でもあり小さい頃から親しんでいたらしい。


「総司には伝えたのか」

「いえ、まだ」


 療養を理由に先に大阪に入っていた沖田はまだ、知らないようだ。その時、伍長の島田魁が慌てた様子でやって来た。


「副長! 報告です」

「なんだ」


 島田魁はすっと土方の隣に移動すると、周りに聞こえないようにそっと耳打ちをした。すると土方の表情は一変し、鬼の形相となってしまう。


「近藤さんは!」

「間もなく来られます」


 悪い知らせが入った以外、考えられなかった。




 久しぶりに見た局長の近藤は肩が思うように上がらないのか、かばうように手で擦りながらゆっくりと腰を下ろした。私は二人から遠く離れた出口付近に控える。


「トシ、聞いただろう。慶喜公のことは」

「ああ。もう、此処にはいねえって」

「うむ。それでだ、我々もいつまでもこうしてはおれん。江戸で、体制を立て直すのだ」

「大阪を、離れると」

「幕府の艦隊軍は薩摩に圧勝したらしい。それが大阪湾に来ている。それに我々も乗せてもらうのだ」

「艦隊か……」


 どうも幕府が持っている船に乗り込んで江戸に行くと言っているようだった。確かにここにいてもなんの意味もない。既に京は薩長連合軍に落ちて、今や幕府軍は賊軍となってしまったのだから。この戦いは幕府軍の完敗となってしまった。しかし、徳川将軍が降伏したわけではないし、このまま引き下がる状況でもない。


「とにかく江戸に戻らねえとな」


 そんなふうに話がまとまり始めた頃、外が急にざわめき始めた。様子を見るように言われた私は廊下に出て驚いた。


「永倉先生っ、そ、その方は」


 火の海を掻い潜ってきた永倉や山口がそこに居た。そしてその二人の間に真っ黒な人の形をしたものがあった。それは腹からどす黒い血を滴らせ、ぐったりと下を向いたまま動かない。戦場ではこの手の者はもう手遅れと捨てて来た。それを二人の組長は大事そうに抱えて戻ってきたのだ。


「松本先生は」

「奥の広間で椿さんと怪我人の手当てを」


 そこまで言うと永倉は分かったと言って、どかどかと奥の広間へ行った。松本良順という幕府お抱えの蘭方医がここに居るのだ。椿さんを指導した、いわば師匠であもる方。


「山口先生、手伝います」

「ああ。誰も使っていない部屋を」

「はい。あの、この方は」


 胸騒ぎを抑えきれずに私が聞くと、山口は小声でその者の名を言った。


「山崎だ。監察の山崎烝だ」

「え……」


 虫の息ほどでここにいるのが山崎だったことに体が震えた。土方の撤退命令を受けて、あの戦場を伝令で駆けた山崎が帰ってきた。今にもこの世を去ってしまいそうな状態で。

 すぐに松本良順がやって来た。見た瞬間、眉間に深いシワを刻むと、ううむと唸った。それほどに酷い有様だったからだ。医学の知識のない私は何もできない。止血の術も今更であった。ただ、ただ、祈るだけの時間を過ごすしかない。


(山崎さんっ、死なないでください。お願いします! お願いします!)








 あれから何日か過ぎ、私たち新選組と生き残りの幕府軍の兵士たちは富士山丸ふじやままるという船に乗って江戸に向かう事になった。負傷した者たちは横浜で下船後、医学所へ行く。その中に沖田総司も含まれていた。


「沖田先生、これを」

「ん、ああ。まだ要らないよ」

「しかし大阪でお返しすると約束をしました。沖田先生の大事なものです」


 私は沖田の愛刀を差し出した。沖田は黙ってそれを取り、鞘から抜くと根本から先端をじいっと見つめていた。


「歯毀れしていないんだ。すごいじゃないさ。何人斬ったの、血を吸って随分とご機嫌だね」

「っ……、分かりません」


 思い出すと恐ろしかった。原田と走った街道では、向かって来る者は敵か味方か確認する暇もなく斬った。あのときは必死で、何よりも土方を護りたかった。


「覚えているのは、男の首をそれで、はね、ました」


 身を守るためにお爺から学んだ戦術は、人を殺すためのものに変わっていた。今でも覚えている、生々しい肉を斬り裂くときの音を。


「それでいいんだよ。これは戦争なんだ。君のせいじゃないし、君が殺したわけじゃないよ」

「私が、殺したのです」

「僕が、殺したのさ」

「沖田先生が」

「うん、そう」


 そして、沖田は再び刀を鞘に戻した。


「僕は暫く刀を振れない。振れるその日まで、これは君が持っていて。君と相性もいいみたいだしね」

「しかしっ」

「必ず合流するから。その時はそれよりもっと君に合った刀を持って行くよ。寝ているだけなんてつまらないだろう。その間に探しておくからさ、楽しみにしていてよ」

「沖田先生」

「いいかい。殺したのは君じゃない。それの持ち主である僕が殺したんだ。それだけは間違えないでいて」

「……はい」


 沖田の気持ちがこの時は痛いほど伝わってきた。沖田がいくさに参加できないのを、涙を呑んで受け入れたのはいつか立ち上がるため。そして、分身である愛刀の元に必ず還るという希望が込められているということを。


「さて、船がもうすぐ出るんだよね。お別れをしてこないと。僕たちを支えてくれた可愛い軍医さんにね」


 

 椿さんは大阪に残ることを選んだ。松本良順が使っていた家をそのまま貰い受けたなのだ。ここで町医者として生きていく。

 監察の山崎烝はなんとか命を取り留めた。しかし、まだ眠ったままだという。横浜の病院は設備が整っているらしいけれど、あの状態で船に乗せるのは厳しいと判断したのだ。


「テツ」


 振り返ると土方が立っていた。


「はい」

「先に行って待っていろ」

「分かりました」


 土方も椿さんと、最後の別れをするようだ。私は知っている。松本良順になんとか助けてやってくれと、声を震わせながら頭を下げていた。山崎が運び込まれた晩、土方は伝令を託したことを悔いていた。拳を何度も太腿に叩きつける音が耳から離れない。


 私は船に続く梯子の側で皆を待った。原田、永倉、沖田、山口とそれぞれ軍医であった椿さんに別れを告げて戻ってきた。私は土方が最後に椿さんと向き合っているのを遠くから見ていた。何を話しているのかは分からないけれど、一度だけ抱き寄せたのが見えた。どんな気持ちでそうしたのか分からない。たまに私にするような励ましの意なのか、それとも別の何かなのか。私にはどちらでも関係ない。ただ、私の心が切なく泣いたことだけは変わりがなかったから。




「待たせたな。乗るぞ」


 梯子を登り、甲板に立って大阪の街を眺めると、戦の名残りから遠くではまだ煙が上がっていた。


「テツ」

「はい、あっ」


 土方が顎で指した方向に笑顔で手を振る椿さんが見えた。もしも女の姿で出会えたならば、姉のように慕い何でも打ち明けたであろう。私は叫んだ。


「椿さんっ。お達者で! ありがとう、ございました」


 どうか、どうか山崎さんが回復し、末永く幸せに暮らしてほしい。心の底からそう願った。


――ブォォーン


「うひゃぁっ」

「おい、テツ。なんだその情けない声は」

「すみません。こんな大きな音が船から出るとは思わなかったもので」

「だよな」


 土方はふっと口元を緩めて再び視線を大阪の街に向けた。もう戻ることはないだろうと、そういった眼をしていた。


 

 潮風が頬を叩く。冬の厳しさはまだ終わらない。


「四、五日もしたら横浜に着くそうだ。それまではゆっくりしておけ」

「はい」


 船がゆっくりと港を離れ、船首を外海に向けた頃、永倉が船内での部屋の割当を土方に見せにきた。


「土方さん、部屋割りだそうだ。見てもらえるか」

「ああ」


 それを見た土方の顔色が一瞬だけ曇る。


「原田と鉄之助ってのはおかしいだろう。こいつは俺の小姓だ。ここだけ入れ替えておいてくれ」

「けどよ、随分と狭くなるぜ。幹部は一人部屋にしろって」

「鉄之助程度の小僧がどんだけの場所を取るってんだ。それに、いちいちこいつを呼びに部屋を探せってか。面倒で仕方がねえ」

「それもそうだな。じゃあ、変えてくる」

「おう、頼んだ」


 私はその会話を聞いてホッとした。原田は兄貴肌でいい人だけれど、なにぶん今はまずい。またあの硬いものを突き付けられたら困るから。土方と一緒なら安全だし、安心する。



 慶応四年、一月十日。私たちは大阪を出発し、江戸を目指した。

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