第10話 託された想い

 土方が私の上に乗っている。私の首元に顔を寄せたままぴくりともしない。体を捩ろうとしても、袴の裾を土方が踏んでいてどうにもならない。このままでは私の体に土方の匂いが染み込んでしまいそうだ。


「テツ、お前」

「んっ」


 首筋に土方の息がかかると、背中を虫が這うような感覚が駆け抜けた。脳を支配されそうで怖い。気をしっかりと持て、常葉っ!


「なんか、隠してねえか。この、俺に」

「か、隠すとはっ」


 土方はすっと顔を上げ、今度は正面から私を見下ろした。もう逃げられないだろう。私は観念する事を決め、目を閉じた。市村鉄之助の仮面が剥がれ落ちるのも時間の問題で、私は限界を迎えようとしていた。


「私は」

「……」



――副長、山崎です。


 その時、廊下から監察の山崎の声がした。なんとも絶妙な時機でやって来た。土方はおもむろに立ち上がり襟を正すと、私に奥の部屋に入っているように言った。





「入れ」

「失礼します」



 監察の山崎からの知らせによると、朝廷が発した王政復古の大号令に即決し兼ねた徳川慶喜に、不信を抱いた薩摩藩がもう待てないと大暴れしたらしい。これに憤慨した出羽国の庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまったと。


「そりゃまた、派手にやりやがったな。どんだけ気が短けえんだ」

「恐らく慶喜公は兵を上げるのではないかと」

「そうするしか、ないだろうな。いよいよか」

「年明けすぐかと」

「近藤さんに話してくる。引き続きその件は頼む」

「はい」


 山崎が報告を済ませ姿を消したので、私は襖を開けて土方の様子を伺った。土方は腕を組んで目を瞑り、今の話を整理しているようだった。私は気不味いような、ほっとしたような、どっちつかずな感情に戸惑った。


「近藤さんのところに行ってくる。お前はもう、休んでいい」

「副長」


 土方は立ち上がり障子に手をかけて、振り返った。そして一息おいて「テツ。さっきは悪かった」それだけ言い残して出ていってしまった。私はふぅと息をひとつ吐き胸元に手を当てた。胸の合わせが乱れている。合わせからはきちんと巻いたさらしが見えた。土方はこのさらしを見ただろうか。


(どうしよう、もう知ってしまったのか。それとも……)


 私は身なりを整えて自室に戻った。






 あれから周囲は慌ただしくなり、いよいよ戦が始まるという噂が、市中でもされるようになった。土方は忙しいようで昼間は屯所にはおらず、夜は自室で書き物をする日が続いた。局長の近藤も各藩との会合で出ずっぱりだ。そんな中、監察方から御陵衛士の残党が怪しげな動きをしていると報告が入る。伊東甲子太郎粛清の報復であろうか、近藤暗殺計画があると言う。お陰で屯所内の空気は終始張り詰めており、息が詰まりそうだった。


 そんな時、私を沖田が訪ねてきた。


「鉄之助くん、いいかな」

「はい。どうぞ」


 沖田から私の部屋を訪ねてくることは、今まで一度もなかったことだ。見れば何やら荷物を手にしている。まるで旅に出るかのような恰好だった。


「あれ、なんだか浮かない顔をしているね。そんな君に追い討ちをかけるようで悪いんだけど、頼まれて欲しいことがあってね」

「私に、ですか」

「そう。君に、これを」


 こと、と私の前に置かれたものは立派な布に包まれた刀だった。まさかと思いそれを開ける。


「沖田先生!」

「うん。僕の刀だね。これを暫く君に預けたいんだ。頼まれてくれるね」

「なぜですかっ。沖田先生が持っていればよいではないですか。無理ですよ、荷が重すぎます」

「落ち着いて、聞いて欲しい」


 沖田はあの悪戯滲みた顔ではなく、至極真剣な面持ちで私に向き合った。私はただ事ではないと膝においた手をぎゅっと握った。


「僕は今から大阪へ向かいます。一足先に行くのだけど、これを持っていると僕だと見抜かれてしまうんですよ。参加してもない粛清の報復ってやつに巻き込まれることになりそうでね」

「それは、危険です」

「でしょう。それに誰も君が持っているなんて思わない。だからそれまでお願いできなあかなと思ってさ」

「しかし」

「いざって時はこれで近藤さんや土方さんを護って欲しい。僕の代わりにね」

「沖田先生……」


 最後の言葉が本音だと理解した。迫りくる戦に、沖田は加わる事ができないのだ。とても悲しいけれど、病持ちは足手まといになるからだ。


「今夜は近藤さんの別宅に泊まるよう言われたんだけど、宿を取るよ。妾さんと二人きりは具合が悪いしね」

「ああ、それはそうですね」

「じゃあ僕は行くよ。鉄之助くん、大阪で会おう」

「はいっ。必ず大阪でお返しします」


 見送りは要らないと固く断られ、私はその場で別れを告げた。

 私は沖田が刀を振るう所を見たことがない。だからこの刀を返した暁には、思う存分に振ってもらいたい。たとえそれが命を削ることになろうとも。きっと沖田はそれを望んでいる。そう私は思っていた。




 そして翌日。

 伍長を務める島田魁しまだかいが血相を変えてやって来た。近藤の別宅が何者かに荒らされたと。恐らく、御陵衛士の残党だろうと屯所内はざわついた。沖田があのままあそこに居たら……そう思うと背筋が凍った。


「悪運の強いやつだ」


 土方はそう言ってすっと瞼を下げた。きっと、沖田の無事を知り心底安心したのだと思う。

 その晩、私は土方に沖田から預かった刀の話をした。土方は驚いてしばらく無言だったが、私にこう言った。


「肌見放さす身に着けておけ。お前は総司が認めた剣士だ。恥じぬよう振る舞え」

「承知しました」

「テツ」

「はい」

「そいつを返すまで、お前は死んじゃならねえ。分かったな」

「……はい」


 土方のその言葉を聞いて、これから起こるであろう戦が、いかに厳しいものになるのかを想像させられた。それを沖田は分かっていたのかもしれない。自分が戦えぬなら、分身であるこの刀でみなと共にありたいと。そんな大事な思いを私に託すなんて、沖田はやはり変わっている。そう思わなければ、私自身がその思いに潰されてしまいそうだった。


 そして夕刻、屯所内が一気に殺気立った。局長の近藤が銃で肩を撃たれ負傷したのだ。土方の指示で監察は犯人特定に奔り、軍医の椿さんは近藤の治療にあたった。幸い、命に別状はないそうだ。あれほど警戒をし、目立たぬようにと気をつけていたにも関わらず、近藤は馬に乗って出かけていたのだ。土方は苦虫を噛み潰したような顔で拳を柱に叩きつけていた。私はそんな土方に声をかけることができず、自室に戻ってしまった。そばに椿さんがいたからだ。私には踏み込むことのできない、見えない絆がそこにあった気がしたから。






 その晩私は、部屋で沖田から預かった刀を鞘から出してじっと見つめていた。沖田の命そのものである愛刀、加州清光は昏い灯りでも妖しく光った。これを手から離すなんて、武士ならばあり得ない行動だと思う。でも、それ以上にこの刀に託したいものがあったのだろうとも思う。


「だけど沖田先生……私にはとても」


 使いこなせる自信がなかったし、その思いに応えられる程の力があるとは思えなかった。所詮かじった程度の剣術と、中途半端なまま国を飛び出したにわかの術者だ。お爺が女には伝授しないと言った読心術と先読さきよみの力が、今まさに必要だった。なぜ私は女に生まれたのだろう。


「鉄之助」

「はいっ」


 突然、名を呼ばれ慌てて障子を開けた。部屋の前に立っているのは三番組組長の山口二郎だ。


「山口先生、なにか」

「少しいいか」


 そう言って、部屋の奥に視線をやった。話があるから入れろと言っているのか。


「どうぞ」

「すまん。邪魔をする」

「あっ」


 沖田から預かった刀がそのままなのを思い出し、咄嗟に山口の前に手を広げて立ちはだかった。


「な、なんだ」

「へ、部屋がっ。散らかっておりまして」

「……」

「ええっと……その」


 無言の山口の気に圧され、私は道を開けてしまう。案の定、山口は沖田の刀を見つけ、その前に座り込んだ。


「あの」

「荷が重すぎるな。あんたは莫迦か」

「っ、はい」

「確かにあんたは、平隊士とは比べられぬほどの腕を持っている。しかし、これは重いし長すぎるだろ」

「その、通りです。でも、受け取ってしまったのです。沖田先生の気持ちを思うと、突き返すことができませんでした」


 山口は加州清光を持ち上げて、根本から切っ先をじいっと見ていた。その姿を見て、ああ私ではなく山口二郎に頼むべきだったのにと思ってしまう。


「俺にもコレは扱えぬ」

「えっ」

「総司があんたに預けたという事は、そういうことだ。俺が、稽古をつけてやる。その刀に恥じぬよう、俺が仕込んでやる」

「本当ですかっ」

「ああ」


 少しだけ光が見えた気がした。沖田の思いと共に、この手で近藤や土方を護る事ができるかもしれない。



 知らぬ間に居心地が良くなってしまった新選組を、私は亡くしたくないのだと思う。土方が見せる、少し頬を緩めた顔を、無性に見たいと思った夜だった。

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