第9話 匂い

 沖田から、稽古をつけてあげるから中庭においでと言われた。道場は新しく入った隊士たちでごった返していたからだ。私は木刀を片手に、言われたように中庭へ来た。ここは平隊士たちが来ることはめったにない。


「沖田先生。宜しくお願いします」

「宜しく。早速だけど君の動きを見たいから適当に斬りかかってきてよ」

「適当に、ですか」

「君にこれといった流派はないよね」

「はい」


 そうなのだ。お爺が教えてくれたのは刀の振り方ではなく、身のこなし方だった。自分よりも大きな敵に向かうときの動き、そして確実にとどめを刺し、逃げるというどちらかと言えば忍びに近い戦術だった。だからこの国で言う武士の戦い方を知らない。


「おいで」


 沖田は片手で木刀を持っているが、構える様子もなく下げたま。切っ先が地面につきそうだ。完全に舐められている。私は軽巧けいこうという身を軽くして駆けて相手を錯乱したり、暗器を投げたりすることが得意だ。本音を言えば刀身が長い刀や、重みのある木刀は苦手だった。


「参りますっ」


 地を強く蹴り沖田の胸元目掛けて下から木刀を払いあげた。沖田は難なくそれを受け止め後ろに払う。でも私はこれくらいで体勢を崩したりしない。直ぐに沖田の背後に周り、木刀の切っ先で脚を払おうと地面すれすれを斬った。


「おっと、危なく両足首切断だ」

「くっ」


 沖田は私が思っていたよりも、私の動きを読んでいた。さすがとしか言いようがない。沖田は挑発するように首を回して、木刀を肩に担いでしまった。それを見て腹の底から苛立ちが湧いてきた。


「まだまだ、これからですよっ」


 ぐっと歯を食いしばり木刀の構えを変えた。逆手に握り直し剣の先を自分の後ろに向けたのだ。速さで、勝負するしかない。私は沖田をぎっと睨んだ。すると、沖田はなぜか木刀を投げて両手を天に向けてしまう。


「降参だよ」

「は、なんとっ」

「山口くんに任せた」

「えっ」


 見れば三番組組長の山口二郎が、木の幹に寄りかかって稽古を見ているではないか。なぜ、私は気付かなかったのだろうか。ここの幹部たちは気配を消すのが巧み過ぎる。そんな沖田は、ケホと咳払いを一つしてその場を山口に譲ってしまった。山口は何を思っているのか分からない表情で、私の前にやってきた。そして「真剣を使え」と言ったのだ。


「真剣を、ですか」

「まさか俺を斬ったらどうしようなどと心配をしているのか。お前に斬られるくらいなら、この場で死んだほうが為になる」

「なっ……」


 私は試されているのかもしれない。お前は土方歳三の側にいるに値する人間なのか、と。すると黙って聞いていた沖田が、私の隣に来てこれを使えと刀を渡してきた。鞘に収まった立派な刀は、加州清光という名のある刀剣だった。


「沖田先生、これっ」

「手入れはしてあるからよく斬れると思うよ。山口くんの指一本でも落とせたら喜ぶと思うね。随分と血を吸わせてないからさ」


 ずしりとした重みは木刀とは違い、硬くて冷たい。私の体温までも吸い取ってしまいそうな恐ろしさがあった。私はその刀を鞘から抜くと、恐れ多くも山口二郎に向けて構えた。山口は胸のあたりで腕を組んだままで、腰に差した自身の刀に手を掛ける様子はなかった。


「いつでもいい」


 山口の言葉を聞いて、私は間合いを確認しながらにじり寄った。山口からは殺気が感じ取られない。本当にやる気があるのだろうか。ここでこの男を殺ってもいいのか、土方はこの男を気に入っているはずだ。いや、山口が言うように私に殺されるくらいなら、この新選組で組長をしている価値はない。ならば、本気で。


――シュン……


 瞬きも許さない速さで、私は山口の喉元に刀の歯を突きつけた。横に引けば血が噴き出しその命は終わるだろう。しかし!


「ほぅ……俺に抜刀させるとは、な」

「嘘だっ」


 いつ抜いたのか、山口は自らの刀で私の攻撃を受け止めていたのだ。鼻と鼻がぶつかるほどの距離で睨み合うこと数秒。最初に口を開いたのは山口だった。とても小さな声で、私にしか聞こえない程度の低い声でこう言った。「女にしておくのが、惜しいな」と。


「っ――」


 私は驚いて後ろに飛び退いた。膝をつき、素早く鞘に刀を仕舞うと、山口に向かって頭を下げた。


「ま、参りました!」


 見抜かれていた。私が男ではなく女であることを――。


 ざりっ、と土を踏みしめる音がした。頭を上げるとそこには山口と沖田が立っていた。そうか、沖田も私が女であることを見抜いていたのかと、今更ながらに気づく。身分を隠し、ここに居るのは誠に背いた事になる。私はきっと近藤と土方の前で斬り捨てられるのだろう。私は項垂れた。


「なにか言いたいことがあるなら、聞くよ」


 沖田がそう言った。


「なぜ、分かったのですか。私の変わり身の術は完璧だったはずです」


 すると今度は山口が口を開いた。


「匂いだけは変えられぬ」

「匂い……」


 そんなはずはない。何もかも鉄之助で固めているではないか。


「君は、子供から大人になってしまったんだよ。どんなに術が優れていも子供のまま止まっていることはできやしない」

「あんたから女の匂いがする。この間までは確かに気づかなかったがな……」

「女の、匂い」


 地についた手が震えた。私がどんなに土を被ろうが、水でそれらを流そうがその匂いは消せないと言うことだ。なぜならば、その匂いを私は知らないから。


「普通の人間ならば分からん。気にするな」

「えっ。では、私はこのまま居ても」

「性別はさておき、君が鉄之助でいることはできるよね。いざ、という時に土方さんの盾になれる、小姓なんだよね」

「はいっ。私が副長のお命を、お守ります」


 私がそう言うと、山口は無言のまま踵を返して行ってしまった。見逃してくれたのだ。沖田はにこりと笑って私の腕を掴み引き起こしてくれた。私はありがとうございますと礼を述べ、借りた加州清光の刀を返した。


「ひとの事は言えないけれど、はじめくんは鼻が効くからね。特に色事にはね」

「はじめくん……ああ、山口先生の以前のお名前。色事って!」

「あははっ。やっぱり君は面白いや」


 沖田は本当に楽しそうに笑った。




 その晩、夕餉の準備の当番として山口が炊事場に入ってきた。あまり意識した事はないけれど、私の国でも左利きは珍しかった。身近ではいなかったせいもあり、山口の左で持つ庖丁ほうちょうの動きに魅入っていた。


「そんなに珍しいか……左が」

「あっ、すみません。私の身の回りには居ませんでした」

「不便だ」

「え」

「世の中は右利きで動いている。左利きと知れば妙な顔をする。だが、いくさにはいい。剣の動きを見抜かれ難いからな」

「ああ。そう、ですね」


 口下手な山口が珍しく語り始めたので、私は驚きつつも相槌を打った。


「こんな妙な人間を忌むことなく、道場に入れてくれた」

「道場とは、試衛館のことでしょうか」

「そうだ。だから間者でも刺客になるのも、厭わない」


 山口は近藤や土方たちのことを言っているのだと思った。


「五徳という、言葉を知っているか。義に過ぎれば固くなる。まさにあんたの事だ。あまり、構える必要はない。俺はあんたが女でも剣士としては同等と考えている。俺が左利きであるのと同じように、ここであんたが女であるのは悪ではない」


 言葉はとても難しかった。でも、山口は気にしすぎるなと言っているのだと思う。自分のことを例えに出して。


「はい。そうします」

「女に戻るときは声をかけるといい。俺が大人の女にしてやる」


 そう言いながら、悪そうな顔でにやりと笑った。


「け、結構です!」


 そう返すのが、精一杯だった。






 夕餉も終わり、炊事場で片付けていると土方がやってきた。


「テツ」

「はい。あ、お茶ですね。すぐに」

「違う。終わったら、俺の部屋までちょっといいか」

「承知しました」


 また、書簡で部屋が溢れかえっているのだろうと想像した。近頃は本当に物騒で、そろそろ大きな戦が起きるのではないかと噂が立っていた。局長も会津藩邸に出向くことが増え、連日不在はよくあることだった。

 茶はいらないと言われたけれど、淹れていくのが私の仕事だ。私は盆を片手に土方の部屋を訪れた。


「鉄之助です」

「おう、入れ」


 静かに障子を開けると、思っていたより部屋はきれいだった。私は盆にのせた湯呑みを文机の端に置いた。要らないと言った土方だったけれど真っ先に手を伸ばす。


「ああ、うまいな……じゃなくてだ」

「はい」


 土方はお茶でほっこりした顔をぎゅっと引き締めて、いつもの顔になる。


「お前はやっぱり……か」


 なぜか急に土方が小声になり、何と言ったのか聞き取れなかった。


「すみません、聞こえませんでした」

「だから、お前は」

「はい」

「衆道かと言ったんだよ」

「しゅうどう……」


 衆道とは、確か男が男として男のことを好いていることだったような気がする。土方は私に衆道なのかと問うているようだ。


「違います」


 正直に答えた。


「じゃあなんでお前は、沖田や山口から顔を寄せられて赤くなるんだっ。そういや原田も、あったな」

「そりゃ、あんな近くで……あ、見てたんですね」


 眉間にシワを寄せた土方はふんと私の問いを流した。そのあと何か考えるように目を閉じてしまった。


「副長」

「仕方がねえ、悪いが試すぞ」

「何を試されるのですっ、ひやっ」


 いきなり私は土方から押し倒され、畳に組み敷かれた。私の顔の横に土方は片手をつき、もう片方の手は私の着物の合わせを掴んでいた。


「ひやって、随分とかわいらしい声をだすんだな、鉄之助」

「男らしくないと、言うのですか」

「そんな眼で俺を見るな」

「そ、そんな眼とは」

「欲しそうな眼を、するんじゃねえよ」

「えっ、わっ、は、まっ」


 土方は顔を私の肩口まで近づけた。鼻の先が耳朶に触れた。そこでぴたりと土方の動きが止まる。すんと、鼻を吸う音がした。驚きすぎて、声も出せない。


「俺の方が、衆道なのか。俺が、衆道になっちまったのか……」


 わけの分からない言葉が聞こえてきたけれど、私はそれどころではなかった。土方歳三の匂いが私の体を包み込んだからだ。沖田のときはそんな事を思いもしなかった。胸がどくどくと煩くして苦しい。


(しっかりしてっ。術が解けてしまう)


 この匂い、危険なり――!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る