閑話 ゴーレムは考えた

暇をもてあます中、ゴーレムは平和な社会について考えていた。


歴史が知る限り人間はつねに争ってきた。


そして、平和な社会の実現を望む人の多くは、人間が他の生物より争いを好む醜い存在だと考えていたようだ。映画や小説などでも人間をがん細胞やウイルスに例えるものが多い。


だが、どうもそれは主観的な考察で客観的なデータに基づくものではないようだ。


他の生物もつねに争っているし、生存競争のため殺し合っている。同種族間の殺害ですら人間特有の行動ではない。他の生物も行っているし、他の哺乳類も行っているし、他の霊長類も行っている。時に人間より激しく。


とは言え、一件でも殺人が起これば平和な社会が平和ではなくなるのだろうか?


そうではないように思える。


少しぐらい争い合っていても、平和と言ってもいいだろう。


だが、戦争が起これば平和とは言えない。


それなら、戦争とただの殺人との違いは何だ?


ネット情報では「一人殺せば殺人者、100万人殺せば(戦争の)英雄になる」らしい。犠牲者の数が違うだけということか。


とあるN国は、とても平和で安全なので人を殺すことがとても忌避きひされていたが、そのN国民を実際に100万人以上殺したA国はN国民から英雄として扱われ敬愛されていたという。


やはり、殺す数の多い殺人者は英雄となるようだ。


だがそれは殺人者の称号に過ぎない。平和の考察にはあまり関係のない事だ。


重要なのは一人の殺人者で平和は壊れないが、一人の英雄が生まれるためには平和が壊れる必要があるということだろう。




しっかりと平和の定義を訊いておくべきだった。



平和な社会を作るという意味が同種族間で殺し合わないという意味なら、かなり難しい課題だ。多種族まで含めると不可能だろう。


多種族が含まれる場合、例えば人間が牛肉を食べれば、牛の平和が崩れることになる。人間以外の肉食動物に他種族の殺害を禁じれば、平和のために絶滅する種も出てきてしまう。


それに人間をどう定義するかも重要なポイントだ。哲学的な議論はこの際無視してもいいが、人間ベースの合成人間キメラが存在するキマイラ・プロジェクト後の世界においては極めて難しい論点になるだろう。


もし、それらの合成人間キメラの見た目が他の人間と全く同じで、互いに生殖行為が可能なら、その次の世代は半 合成人間キメラが産まれることになる。どこからが人間でどこからが人間でないと言えるのか?


過去には白人だけを人間とし、有色人種を人間ではなく家畜同様の奴隷と定義していた国もあるが長くは続かなかった。


純血種を優遇する思想は良くない結果を招くだろう。遺伝子検査を全員に受けさせて純血だけを優遇する政策などどう考えても理想とされる平和な社会ではない。


もし、合成人間キメラが人間と同じ知的生命体なら優劣を付けず平和な社会を作る手助けをすべきだろう。だが、複数知的生命体が存在し、しかも互いに争っている場合はどうなる?


難しい問題だ。その場で遺伝子検査をして純血種に近い方を保護するのか?それでは優劣をつけていることになる。少なくとも暴力ではなく話し合いでの解決を望む側に立つべきだろう。


しかし、話し合うふりだけで攻撃するための時間稼ぎと言うこともある・・・実際の状況になるまでは分からないことが多すぎるので、ケースバイケースとしておこう。先送りだ。




・・・そう言えば、私自身は知的生命体なのだろうか?


そもそも知的生命体とは何か?


狼が集団で狩をすれば知的ではないか?猿が道具を使えば知的では?


いや、それは違う。人間と獣のもっとも大きな違いは、時間による変化だ。


1000年前の狼も集団で狩をしていただろうし、1万年前の猿も道具があれば使えただろう。同じレベルの知性だし、同じ行動原理だ。人間は2,30年もすればまったく別の暮らし方をする。


知的生命体と呼ぶには同じように変化できるだけの知性が必要だ。なぜなら殺し合う生き方から、平和な生き方へと変化する必要があるからだ。変化しない獣に平和は無理だ。


・・・私は変化できる。だが、生命体かどうかは微妙かもしれない。知的生命体かどうかは後で考えよう。先送りだ。




知的生命体間で戦争のない状態を平和と定義するなら、少しは実現する可能性が出て来る。


争いのない状態となると定義が難しい。


争いというのは殺傷沙汰のみをいうのか、弁護士を雇って行う裁判も含まれるのか?


範囲が広すぎる。


それにコミュニケーションで争いを解決するのは平和にとって必須なので好ましいといえる。やはり物理的で大規模な争いに限定する必要があるだろう。


争いの当事者は国家間だけに限定すべきだろうか?


国家と市民ではどうだ?


戦争がなくとも、国家に市民が殺される独裁状態の社会は平和な社会とは言い難いだろう。


市民が殺されることに抵抗すればテロリスト呼ばわりされ排除される仕組みも問題がある。


それに、戦争がなくても『1984』的社会は目指すべき平和な社会像ではない。


何かにおびえていないと暮らしていけない社会もおびえている本人からすると平和とは感じられないだろう。家族に例えるなら、DVに怯えている人にとってはその家族を平和とは感じないようなものだ。


同じく一部が裕福な生活を送り多くの人が餓死している社会も、平和とは言えないだろう。


誰も反抗せず大人しく餓死して死んでいく人たちばかりだったとしてもだ。それは、反抗できないほど大きな武力の差で押さえつけているだけだろうから。


かと言って、食料が足りない時に育つ見込みのない子供が、餌の奪い合いに負けて淘汰されるのは自然の摂理なので否定すべきではないようにも思える。


むしろ、そういった生きるために最低限必要なものが不足しない状態を平和の条件に含めるべきだろう。生存権というやつだ。餌の奪い合いが必須な社会は、腕っぷしだけで生存が決まる。優れた頭脳を持った個体が生き残れない状態はよくない。


しかし、そうなると当事者は国家間だけでなく個人間にも広がる。平和を脅かす手段も物理的なものだけでなく精神的なものも含まれてしまう。当事者の主観で平和なのか圧制なのか変わってしまうのは問題だ。




うーん、ここは最低限自分の意思で逃れようと思ったときに逃れられて、自立した生活が送れる余裕があればそれで良しとしよう。


例えるなら、断食をしてお腹が空いている人と、食べ物がなくて飢餓に苦しんでいる人の違いだ。


その違いは自分の意思でその空腹から逃れようと決めた時に逃れられるかどうか、その一点に尽きる。




完全とは言えないが、これが戦争、圧制、貧困すべてに対する共有解と言えるだろう。


解決の糸口は見つけた。後は具体的にそれを実現する方法を模索するだけ・・・つまりは、ケースバイケースだ。


もし見つけられたとしても、残念ながらその答えはもう必要ないかもしれない。


それでもいい、考えること自体が目的なのだから。


それに他にはすることがないのだから・・・

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