第45話 モンシロチョウの思い出

 9月。玄関を開けたら、目の前に黒アゲハが飛んでいた。ひらひらと、美しい黒い羽を動かす蝶。その光景は、私をたちまち幸せにしてしまう。いつもそう。


 蝶を見ると幸福になる。


 でも、幸福に満たされるまでの、ほんの数秒の間に、私の中で、沢山の記憶が立ち上がっては消えていく。それは、ぼんやりと現れ素早く消えて行くので、捉えることができなかった。この前、それがやっと言葉になって私の心に現れた。



 実家の裏庭に、祖父の趣味の野菜畑があった。春になると黄緑色の丸いキャベツが、ぽんぽんぽん、と並んでいて、その上に沢山のモンシロチョウが飛んでいた。ひらひらと。


 私は、その光景が好きだった。遠くから見るとそれは素敵な絵のよう。土の茶色の上に、優しい黄緑色。その上に白いひらひら。


 近くで見ても面白い光景だった。


 黄緑色の丸いキャベツの上を幸せそうに飛んでいる白い蝶。キャベツの葉には、青虫がのそのそと歩いている。そしてそのあたりに穴が空いている。この穴が、この青虫が食べたあとだなんて可笑しい!しかも、その青虫の糞が点々とあるなんて可笑しい!


  可愛い!


 その全体の光景とサイクルが素敵だと思っていた。だから私は、幼稚園生の頃、春になると一人でキャベツ畑を見に行った。



 小学校で昆虫について学習し、「卵→幼虫→サナギ→蝶」という順番を勉強して驚いた。おかしいな。卵も、サナギも見たことないな~と不思議に思った。けれど、それだけの過程を時間かけて蝶になるんだ、と、教科書を前にものすごく感慨深かったのを覚えている。


 そんな頃のある日曜日。


 幼馴染の二人の男の子が、我が家に遊びに来た。楽しそうに駆けてくる彼らが首から下げていたのは、やけにピカピカ光った黄緑色のプラスチックの虫カゴだった。そして、手には虫を取るネット。


 見た途端ショックを受けた。


 なぜ捕まえたいの? なぜ閉じ込めたいの? 疑問が心の奥から湧いた。彼らの欲求が、本当にわからなかった。捕まえて閉じ込めて、その後どうするの?って。でも湧き上がった感情を一度無視して、すぐに理性的に考えた。


 彼らは、それを楽しむのだろう。ゲームとして。私には、わからないけれど。大人も子供も、みんな「当たり前だ」という顔をしている。むしろ、「そういう遊びを沢山したらいい!」という肯定感まである。


 当たり前みたいに、蝶を追いかけネットで捕まえたり、バッタを獲っている男の子達を見て、私は、すぐに一旦、昆虫を捕まえて遊ぶという価値観を受け入れた。みんなみたいに捕まえてみようと思った。


 白いひらひら飛んでいるモンシロチョウを。


 キャベツの上で休んでいる蝶の前に、息を潜めて立った。人差し指と親指と、蝶の動きに集中して、パッと捕まえた。瞬間、手についた粉。すぐに壊れてしまう羽。命を脅かしている危機感に魂に衝撃が走り一瞬目の前が真っ暗になった。すぐに、蝶を手から放した。ひらひらと飛んでいく姿を見送りながら、もう一切昆虫を捕まえたりしないと決めた。それは自動的な決意だった。


 みんなが楽しんでいるのはOK。見ていられる。それは、さほど悪いことではないのもわかっているし、おそらく当たり前のことだ。でも、私にはできない。嫌だった。その命を奪う感覚が嫌だった。


 それからも、食卓にキャベツが出るとき、いつも頭の中に蝶の事を思った。卵から幼虫。それがサナギになって、やがて美しい蝶なるその順番をイメージで追っていった。


 どれだけの時間が掛かっているのだろう。どれだけの幸運と偶然が重なって蝶になれたのだろうって。それなのに、どうしてあんなにもろいのだろう。命って、と。



 だからか、大人になった今でも、偶然に蝶と出会うと、私の前から飛んでいなくなるまで眺めている。心の中で挨拶している。


 その間、いつも、ぼんやり人工的な黄緑色のプラスチックの虫かごが頭に浮かび、あの虫取りネットが頭によぎり、そしてちょうを捕まえたあの手の感覚が蘇る。


 その記憶が過ぎ去ると、私はたちまち幸せになる。


 沢山のラッキーな偶然の重なりで、やっと素敵な姿になった蝶と会えたこと。その蝶の持つ命と時間を共有できていることに、とっても「ラッキー」って思うから。


 私は、その瞬間が好きだ。

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