第15話 フラット
私は、人をフラットに見たい。
特に、もしかしたら、私自身が外見と中身のギャップがありすぎて、誤解されてきた過去があるからかもしれない。
例えば、病院に行くと、「あんたが? 何しに?」的な視線を感じる。
医者に、症状を説明する。
「めまい、吐き気などが、あの漢方をやめると、やはり戻ってくるので、もう一度試してみたいです。……そうですね。ちょっと日常が……。また、痛みが……」
看護婦が、医者の後ろに立って、私を見て、口をあんぐり開けて、目を丸くして、時が止まってしまっていたりする。そんな時は、あーあ、と思う。
*
私が思われているのは、下記です。
健康そう。
悩みなさそう。
人生謳歌してそう。
順風満帆そう。
料理しなさそう。
なんも知らないお嬢様っぽい。
ありがとう。だけど、違う……。
というか、最後の2つは、ある意味合っている。世の中を知らない感は、やはり漂ってしまうんだろう。でも、お嬢様ではない。
また、仕事柄、中高生と関わっていて、会話を続けていくと、こんなことを言われる。
勉強できたでしょ?
運動もできたの?
え? ピアノ弾けるの?
いじめとか、受けたことないでしょ?
ありがとう。
だけど、勉強は出来たかもしれないけれど、漢字は恐ろしくできない。運動はできたけれど、いう程でもない。ピアノは、母が唯一やらせた習い事。そして、いじめは受けた。
なんというか、「本当の私」を見てもらうまで、私の場合は時間がかかる。それは3次元的なものなのか、醸し出してる雰囲気なのか、なぜか内面とかなり差があるからだろう。
*
仕事柄、毎日会う中高生を目の前に、こうではないだろうか、という固定観念が、経験が、フラットに子供を見るのを邪魔をする。その思春期独特の雰囲気と、思春期独特の態度の前に、ものすごくフラットでいることが難しい。
でも、「私は、わかってないかも……」と、一旦自分の思考を置いて、子供と関わり観察していると、やはり、見えてなかったものが見えてくる事も多い。
そんな事を考えていたのか! そんな風に感じていたのか!……と。
そんな時、やっぱり、自分自身にも、あーあ、と思う。
*
私は人をフラットに見たい。子供たちを、フラットに見たい。
難しいことだけど、ここ、カクヨムはフラットで居やすい。
相手は見えないけれど、その分、思想が見える。
だから、フラットにその魂を見やすい。
私は、やっぱり世界をフラットに見たい。
そして、フラットなまま感じていたい。
私たちは、どうしようもなく「個」なんだから。
私たちは、どうしようもなく「違う」のだから。
だからフラットに、そのまんまをちゃんと見たい。「本当」を見たい。
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