第6話 時は進むあなたと共にー3
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トキは途方に暮れて、呉服屋の前でしゃがみ込んでしまう。どうしたらいいのか、分からない。どうしようもない不安がどんどん背中にのしかかってくる。
「灯さん……っ」
その名を口にしたら目の奥から涙が押し寄せてきた。
「ねえ、あなたどうしたの?」
突然、すぐ近くから声がした。トキは驚いて横を見ると、浅葱色の着物を着た十七、八の少女が心配そうにトキの顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫?」
「ううっ……」
妙に安心するその彼女の声音に、トキの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「あららら、とりあえずこっちおいで」
彼女はトキの手を引いて、呉服屋の中に入っていく。慣れた様子で廊下を歩いて、突き当りの階段を上がったすぐの部屋に入った。部屋に満ちた畳の薫りと、彼女がてきぱきと用意してくれた緑茶の匂いがした。
「はい、これ飲んで。気分も少しは和らぐと思うよ」
「ありがとうございます」
渡された湯呑みに甘えて、緑茶にそっと口をつける。涙は収まり、いくらか落ち着いてきた。
「ひとまずは大丈夫そうだね? 良かった。品物届けて帰ってきたら、うちの店の前で珍しい恰好した子がうずくまってるもんだから驚いたよ」
「す、すみませんでした。お姉さんはここの呉服屋さんの人だったんですね」
「そうだよ。私は
「トキ、です」
「じゃあ、おときちゃんか」
珠と名乗った彼女は、トキの服を不思議そうにじいっと見つめる。
「珍しい服着てるよね。この辺じゃ見かけない顔だし」
「えっと、その迷子で」
嘘ではない。迷子になって帰れないのは本当のことである。帰るべきは未来、だが。
「あらら、そうなの。どこから来たの?」
「えっと、すごく遠いところで、帰り方が分からなくて……」
「ふーん、その服からして異国だったりする? ま、そんなわけないか」
珠は、ついでに淹れた自分の分のお茶をすする。
「それにしても、この服ほんとに可愛いー。こことかどうなってるの?」
ずっと触りたくてうずうずしていたらしく、珠はトキのセーラー服を引っ張ったり、めくってみたり。
呉服屋の娘だけあって、布地の感触や縫い目などを熱心に見ている。トキはなんだか恥ずかしくなり、話題を変えようと考えを巡らせ、時計のことに思い至った。
「あの! この時計、直せるところ知りませんか」
「あららら、壊れちゃったの? こんな高級そうな物。そうだね……私にはよく分かんないけど、
「弥一、さん?」
「二つ隣の小間物屋の息子なんだけど、そういう南蛮物をいじるのが好きでね。たぶんいるだろうから、行ってみようか」
言うが早いか、珠は立ち上がってトキの手を引いて階段を下りていく。途中、どこへお出かけですか、と聞く奉公人らしき男性に珠は「弥一のとこに」と足を止めることもなく答えて店を出た。
「珠さんってお嬢さまなんですか?」
「なにそれ、そんなんじゃないよ。あ、ほらここだよ。やーいーちー!」
珠は店の奥に向けて大きな声で目的の人物を呼ぶ。ガタガタと何かが崩れる音がしたと思ったら、奥から珠と同じ年頃の青年が出てきた。
「珠さん、驚かせないでくださいと何度も」
「あんたが勝手に驚いてるんじゃない。あと、敬語をやめてって何度も言ってるのに」
「それは色々と……」
「弥一」
珠は腰に手を当ててむくれながらも圧をかけている。やがて、弥一が折れたようだった。
「あー、分かった、分かったから。で、どうしたんだ。また客の娘預かってるのか?」
弥一の視線はトキに注がれていた。トキはぺこりとお辞儀をしたが、なんと言っていいのか分からず、珠を見上げた。
「この子は迷子なんだって。それで、この子、おときちゃんの持ってる時計が壊れちゃってて、弥一なら直せるかと思ってね」
トキはおずおずと懐中時計を弥一に差し出した。
「んんー?」
弥一はトキから時計を受け取るなり、ぱあっと顔を輝かせた。
「なんだこれ! すごい。こんなに小さくて精巧で綺麗な物は見たことがない。すごい……」
「相変わらずその辺の知識というか趣味というか、詳しいね。それで、どうなの」
「直せますか……」
時計が動けば、本部に帰れるかもしれない。今はこの人に頼る他ない。
「構造はきっと同じだろうから……、そうだな。三日、いや二日くれ。なんとかしてみる」
「本当ですか!」
「ああ。じゃあ早速取りかかる」
弥一は短く言うと、宝物を持って秘密基地へ帰る子どもの顔をして、傍から見ても分かるうきうきを纏いながら店の奥に戻っていった。
「もう、子どもなんだから」
ため息と共に弥一を見送る珠の目は、その背中は見えなくなっても残り香を辿るように店の奥を見つめていた。
「あの人は、珠さんの――」
「そんなんじゃないよ」
言い終わるより早く、珠に否定されてしまった。珠はトキを促して、呉服屋へ戻る。
「とりあえず、時計が直るまでうちにいたらいいよ」
「いいんですか」
「あの時計、大事な物なんだよね。弥一はやるって言ったら、ちゃんとやるやつだから。直ったらすぐに取りに行ける方がいい。それにおときちゃんくらいの子が泊まることはよくあるから」
「ありがとうございます」
改めて深く礼をして、感謝を伝えた。ふと、あることを思いつき、トキは珠に提案した。
「あの、お返しになるか分かりませんが、この服、詳しく見ますか?」
「ええ! いいの?」
珠は一気に声のトーンを跳ね上げ、トキの手を取った。想像以上の反応に驚いてしまったが、これほど喜んでくれるなら、お返しになるかもしれない。
「はい。どうぞどうぞ」
「あ、じゃあ、小さくなった私の服あるから、それ着てて」
ハイテンションのまま階段を上がろうとしたとき、店の奥――扉が見えたから裏口だろうか――から一人の男性が現れた。
「帰ってたのか」
「うん、さっきね。ただいま、兄さん」
「その子どもは?」
「しばらく預かることになったの。階段横の部屋使うね」
「ああ」
無表情に珠の言葉に頷いて、その男性は店先から一段上がった座敷に腰を下ろした。
「
「なんだ」
すぐに奉公人の一人から声をかけられて、珠やトキのことは視界から外れたようだった。
トキは、固まったまま動けなかった。視線をある一点から動かすことが出来ない。
「おときちゃん、ごめんね。兄さん無愛想だけど、悪い人じゃないから。おときちゃんのこと追い出そうとかはしな――おときちゃん?」
珠の声もトキの耳に入っていなかった。
その視線の先は、伊介が持っていた、行燈。見間違えるはずなどなかった。あれは。
「灯さん……」
**
『さすがに非常事態や。灯はんにも言った方がええと思う』
修の診察結果のあとすぐ、端末の向こうから竜胆の声が聞こえた。鈴蘭は端末を耳に寄せて、竜胆にも女郎花にも聞こえるように言った。
「私も言うべきだと思う」
「そうね。トキちゃんのピンチは誰よりともるんに伝えなくちゃだめよね。こんなときなのにワタシったら変な意地張ってたのね。だめね、ワタシ」
「落ち込んでる暇ないよ、おみおみ。行こう」
鈴蘭は俯きかけた女郎花の手を引いて無理やり顔を上げさせた。後ろで驚いて息を飲む音と、くすりと笑う声がした。
「ありがと、鈴蘭」
「お礼はリンに言って」
『あら、うちはなんもしてへんよ?』
再び灯のいる部屋に戻ってきた鈴蘭と女郎花は、竜胆に加わり、灯に向き直った。
「何があった」
灯は短く問うた。何か起こったことはさすがに察しがついてるよう。三人は顔を見合わせて頷き、女郎花が口を開いた。
「トキちゃんが、三百年前の過去に行ったわ」
「! くそっ、あいつ……」
「そして、その行った先の過去で針が止まって、取り残されてるわ。こっちと向こう、両方の時計を直さないと帰って来れない状況よ」
「なん、だと……?」
驚きと憤りの表情を浮かべていた灯の顔から、一気に表情が抜け落ちた。握りしめた両手には爪が食い込み、床を踏みつける足からは僅かに火花のようなものが見えた。
「ひっ」
思わず一歩後ずさった鈴蘭の背中を女郎花が支える。一方、竜胆はつかつかと灯に近づいた。
――――パンッ
高い音が部屋に響いた。竜胆の手のひらが灯の頬を打ったのだ。驚きで目を見開いている灯に対し、竜胆は鋭い声を投げかけた。
「しっかりしい! 誰のせいでトキちゃんがあんな無茶をしたと思うてるん!?」
「…………すまん」
灯は息を吐き切ってから、呟くようにそう答えた。
「ともるん、話してちょうだい。話したくないことは無理に聞くべきじゃないと思ってたけど、そうも言ってられないのよ、分かるわね」
「ああ」
灯は両手をきつく握りしめ、そして話し出した。
「三百年前の、江戸の町で火災が起きたとき、俺は開化してその場にいた。町の人間から人殺しと言われたことも事実だ」
「ヒトを、殺したの?」
「……」
「ともるん!」
「……いいや。ヒトは殺していない」
安堵の息を零す三人とは対照的に、灯は重く深いため息をついた。だがすぐに顔を上げて話を続ける。
「ただ、あの火事で俺はあの男を見た覚えがない。なぜあの火事のことを知っているのか、分からないんだ。それに、もし仮にあの場にいたとして、なぜ今来たんだ」
「江戸からある物ならとっくに開化しとるはずやもんなあ。管理課で一番外に出てる灯はんの名前や顔は、前々から知れ渡ってるはずやし」
竜胆は灯の言わんとすることを汲み取り、矛盾の多い現状を整理した。女郎花が腕を組みながら唸っている。
「さっきあの男に話を聞いたのだけど、なんだか要領を得ないというか、あやふやというか」
「何を言っていた?」
「何度も火や町が燃えるのを見たとか、明るい暗いところにいたとか、だったかしら」
「あと透明なケースにいたとかも言ってなかった?」
鈴蘭は男の話を思い出しながら付け足した。灯はそれを聞いて眉間に皺を寄せて考えている。思考の邪魔をしまいと鈴蘭たちは黙ってそれを見ていた。
やがて、少し迷いながらも思案を終えた灯が考えを告げる。
「可能性があるとすれば、家か瓦か、あとは火の見櫓か」
「なるほどね」
「江戸からの物ならそう数は多くないよね? 博物館とか行った方が早くない?」
「うちもそう思うわ。手分けして行こか」
鈴蘭と竜胆は頷き合ってすぐにでも出ようと準備を始める。灯はふいに立ち上がって、体を直角に折り曲げた。
「俺にも行かせてくれ。頼む」
女郎花は一度開きかけた口を閉じ、意識的に深呼吸をして再び口を開いた。
「許可出来ないわ」
「頼む」
「事が収束するまでは謹慎よ。ともるんが自分でそう言ったじゃない」
灯は唇を噛みしめて声を荒げることを押さえているようだった。鈴蘭がさすがにいいんじゃない、と言いかけたとき、女郎花は灯に言い渡した。
「ただし、ワタシたちが出払ってしまうから、謹慎場所を変えるわ。医務室にいなさい」
「……! 了解した」
灯は、深々と体を折り曲げて廊下に飛び出した。
「ええ課長さんやわ」
「褒めても何も出ないわよ。それに、まだ何も解決してないわ。行くわよ」
「うん!」
手早く支度を終えた三人は、博物館へ向かうため、本部を出た。
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