第4話 新しい環境

1991年6月


新しい環境でも直ぐに慣れてしまう栄一の性格は色々と得なことが多い。誰とでも話が出来ることでお互いが早くに理解されることは居心地の良い空間を手に入れることが出来るからだ。


「話すこと」はコミュニケーションの基本、逆になぜ初対面なのに話をしないかが理解出来ず、奥手や人見知りの性分でもほんの少しの勇気で数センチ前に踏み出せばきっと素敵で楽しい空間が手に入れられるはず。


栄一が、ここ武蔵野テニスクラブに訪れた時も例外ではなく、そんな栄一の人柄が早々に受け入れられているようだ。。


クラブ入り口からクラブハウスの扉まで、丁寧に手入れされ通路左右に長く続く花壇には、向日葵を中心に百合、朝顔、千日紅など夏の花が咲き乱れている。水を撒いて間もないのだろう、雫がきらきら輝いて一層華やかに見える。オーナーの繊細で几帳面な趣味が溢れている。

クラブハウスに入ると、高い天井には大きな扇風機がゆっくりと回り、ロビーにはここにも観賞用の上品な植物がふんだんに飾られている。来客する側には当たり前に映るこの光景を普段から綺麗に維持することは容易いことではない。「整っていることが当たり前」の空間では少々の汚れや散らかった状態が目に付くからであり、従業員の心遣いが行き届いていることを感じさせる。

静かに流れるブライアン・フェリーの歌声が落ち着いた大人の社交場を醸し出し、ラウンジのソファーに腰を下ろし雑誌を読んでいたメンバーの1人がこちらを見て少し気になっているようだ。栄一は軽く頭を下げて会釈程度の挨拶をすると、チルデン柄のサマーニットを羽織った品のある初老の男性もニコリと笑い会釈を返すと目線を落として読書に戻った。


先ずはフロントの女子たちとの挨拶から始まった。

栄一はラケットバックを肩から下ろしながら、


「こんにちは。市川です。」

「こんにちは。フロントの吉永…吉永久美子です。河野から市川プロのお話は伺っていますが、まもなくこちらに到着すると思いますので。」


彼女のアップにした髪の毛のセットが、なんとも美しいレベルまでにも仕上げられていることに目を奪われたことを見抜いたのか、すかさず横にいた大学生くらいの女の子、こちらもムースで遊ばせたヘアースタイルがよく似合う。右胸のバッチには「佐々井絵里」と書いてある。


「吉永さん、市川プロが今日来るって聞いて朝から張り切ってたんですよ!」と。

「それは光栄です。でもなんで?」

少し照れたのか手にしたハンカチで佐々井さんを払う振りをして、


「素敵なコーチ…、いやプロと聞いていたのですが、聞いていた通り…、いやそれ以上なので緊張してしまいます。。」

栄一は、返す言葉はいくつか思い浮かんだが、


「ありがとうございます。でもテニスコート以外ではかなり小心者なんです。お手柔らかに。」と、笑みを含めながら言うと二人の女子はクスクスと笑ったのだが、


「市川プロが言うと何でもクールに聞こえますからずるいですね〜」

絵里が悪戯っぽい言い方をする。若気の至りは頼もしいものだ。日に焼けている顔が子供っぽさを少し凛々しく映している。


「河野が来る前に先に館内のご案内とスタッフの紹介をさせていただきますね。勝手が分からない時はいつでも聞いてください。こちらがコーチ室になります。ロッカーは…」

吉永と絵里は足早にクラブハウス内を一巡し案内した後、外に出てコート横の道を歩き一番奥のコートまで案内してくれた。すぐ横のコートでは初老の男性とカメレオンのような派手な色彩のウエアーを着た若い女性が組んだダブルスの最中。カメレオンに上がったボールを「OK!」と大きな掛け声をかけて一気に振りかぶる。見事にフェンスまでダイレクトに飛んでいくミスはお約束程度の結果。


「あのお方は笹木さんと言っていつもお元気な方です。」

吉永が丁寧に栄一に説明する。

カメレオンがしゃがみ込みながら栄一を見ているので栄一も軽く頭を下げてご挨拶。カメレオンは栄一に少し興味を持ったような眼差しだが、それを後ろ目にしてクラブハウスに戻る。


「コーチ室」とプレートに書かれた扉が開き、中肉中背の栄一と同じくらいの年齢に見える青年が出てきた。


「あっ、こんにちは。秋元と申します。」

秋元弘泰、武蔵野テニススクールのヘッドコーチ。名刺を差し出された栄一は、


「市川です。あいにくまだ名刺を用意してなくて…」

そう言いながら、名刺の代わりに右手を差し出し握手を求めた。


「後ほど、ここの名刺を作ってありますのでお渡ししますね。」

秋元は握手をしながら、真っ白な歯をたくさん見せて爽やかな笑顔でそう言い、コーチ室の方に栄一を促した。秋元は軽く吉永と絵里に手を挙げて選手交代の合図を行った。フロントの2人はヒソヒソと話をしながら戻って行った。


扉の向こうには3人のコーチ(?)がそれぞれ、机に向かってパソコンの画面を眺めていたり、ソファに腰掛け本を読んでいたり、1人は狭いキッチンで栄一への用意だろうか麦茶をグラスに注いでいた。

栄一に気がつくと3人ともサッと立ち上がり、練習でもしたかのように頭を同時に下げながら、

「こんにちは。」までも同時だったことに栄一は感心して、


「まさか練習したんですか?初めまして、市川です。」

少し冗談ぽい表情を加えて言葉を出した。


それから三人一人一人に握手をして挨拶に変えた。

「田中です。」「横山です。」「財津です。」

その中の1人、一番小柄できっと学生なのだろうと見受けられる田中が、


「市川プロ、毎トー(毎日テニス選手権)予選決勝見てました!あの試合見てマジでプロのファンになっちゃいました!」

少し調子の良さそうな口調でもあると思ったが、元気で素直そうなところは悪くない。


「本戦も観に行ったんですけど…」

先ほどの声よりは少しトーンが下がった音量になった理由は栄一が一番理解している。少し笑みを含みながら田中に向け人差し指を立てて左右に振るポーズをすると、


「あっ、すみません。」

田中が少し慌てた風に頭を下げるのを見て、

「勘弁、勘弁。そんな気遣い必要ないから。あれは冴島プロが断然と私よりも強かったってことを証明したくらいの試合だったんだから。」

栄一の言葉にさらに頭を深く下げた田中に、


「だから今度対戦した時にはリベンジしなくちゃならないんで、田中さん俺と練習付き合ってよ。」

この言葉を聞いた田中はハッとして目を大きく見開き、息を飲み込んだ音が聞こえるほどだった。


「とんでもないです、本当に申し訳ないです、でも本当に私と練習していただけたら最高に嬉しいです。」

周りのコーチもみんな頭を下げているのは栄一との練習を何より期待していたのだろう。彼らからすれば一介のテニスコーチや体育会大学生が現役のプロ、しかも「天才」と囃されビジュアルにも定評がありテニス愛好家以外の層からも支持やファンが増え、メディアからも注目されているテニスプレーヤーと打ち合あえることとなればビビッドに反応するのは当然のことである。


「こちらの社長のご厚意で席を置かせていただくことになったので皆さん同僚としてお付き合いのほどよろしくお願いします。」

両手を腰に付けて深々と頭を下げる。最敬礼の角度だ。栄一は相手が誰であっても律儀に丁寧な挨拶を怠らない。それは子供の頃からの母の躾(しつけ)もあってのこと、どんなに強くなっても、社会的に上の立場になっても奢らず謙虚な姿勢を心がけるようにと。それもあって初対面の人とも直ぐに距離を縮められ受け入れられやすい関係を築ける。


「プロ、やめてください。お願いするのは私たちなんですから。」

秋元が慌てて栄一の敬礼を抑えようとするも、


「好きじゃないんです…、特別扱いが。」

4人の動きが止まる。


「郷に入れば郷に従えってことがいいんです。だからここのルールは皆んなと同じように守るし、私だけプレーヤーだからって扱いは無しで。」

数秒の沈黙があった。その沈黙を破ったのは横山の一言、


「さすがですね。まだ若いのに律儀でしっかりされている。よろしくお願いします。」

横山はコーチの中で最年長32歳、背も高く割腹のいい迫力あるビジュアルだ。あらためて右手を差し出したので2回目の握手を、先ほどよりも少し強めに握り合った。

そんなタイミングでドアがノックされ、扉が開くと河野が入って来た。


「プロ、遅くなっちゃってすみません。ようこそいらっしゃいました。」

河野は脇に抱えていたファイルの束を机に置き、栄一の右手を両手で包み込みこちらも強く握り締め何度も頷いている。とてもご機嫌なのか満面の笑みがまるで何十年ぶりかで会った親子のように思わせる。コーチたちとの挨拶が済んでいることを確認すると栄一を社長室へ促した。


今日栄一がここに来た理由は、河野からの提案でスポンサー契約についての商談、話がまとまれば即契約のために訪れたのである。スポーツ選手にとって競技に専念するためにはバックアップしてくれる企業や個人の力は必須であり、その幅はピンキリである。お分かりかと思われるが、道具やウエアー、シューズの支給のみから一流企業の重役ほどの給料を保証されたり、複数年契約で破格の契約金を獲得する選手まで。大会での好成績や通年でのランキングで評価されるもの、もしくは「未完の大器の片鱗」を見出した先見のある企業が先行投資としてバックボーンとなるケースもあるが、まだデビュー間もなく実績無しと結果を伴わない栄一に、河野がスポンサーとなるべく運びになったのは栄一の将来を見越し何年後にはきっと結果をもたらすと考えてのことでもなかったよう。では何が河野をそうさせたか。河野は栄一のテニススタイルが他の選手とは違い、勝ち負けの前にそのプレーや雰囲気に独特の個性を感じ、スタイリッシュでありかつシャープな切れ味も際立つ。ガツガツした汗臭さを全く感じない栄一のテニスに惚れたのである。


テニスクラブをはじめ、マンションやアパート経営、飲食店など多角経営に成功した河野が栄一というテニスプレーヤーに魅力され何かしら力になれないかと「タニマチ」を申し出たということなのである。河野の純粋な厚意であれど戸惑いを感じたものの栄一にとっても決して悪い話ではなかったことと、同時に練習環境がほぼ保証され得られることは今の栄一にとって絶大なるメリットになることは間違いない。


「今日はよくお越しいただきましてありがとうございます。」

高級そうな革張りのソファの前で、河野が笑顔で栄一にあらためて挨拶をしたので栄一も深々と頭を下げてそれに応える。直ぐに座るようにと促され腰を下ろすとドアがノックされ、河野の声に扉が開く。

吉永がお茶を運んで来てくれた。その表情は少しだけ固く見えたが如何なものか。河野との商談とは言え用意された契約書に署名と捺印するだけである。内容については以前に詳細を伝えられているので話は早い。


毎日テニス選手権予選決勝後に河野から声をかけられビジネスライクなご相談をさせていただければと名刺を差し出され、とても丁寧な態度が栄一の脳裏に残り、毎日テニス選手権の本戦一回戦で冴島相手に我を貫き通して惨敗した後、ふと思い出した名刺に電話をすれば、


「よく電話をしてくれました。心から感謝しています」

電話口からも本気で喜んでいる気持ちが伝わってくるほど感情がほとばしる河野の対応にも感心するばかり。

「私は市川プロのテニスを見て、今までのプロテニスプレーヤーとは全く違った世界感を持ちました。なんて言うのか、オリジナリティーをよりアピールしているし、前衛的で強さを感じるところも、それに想像をはるかに超えて予測を裏切られるショットやプレーに魅了されました。あなたのテニスが好きなので、勝手な申し出なのですがもし所属を私のところに置いていただけるのであれば、市川プロのやりたいようにやってほしいと考えています。」


(やりたいように…)


ビジネスというよりも個人的に注力したいのだと言う。もちろん手を組むにはそれ相当に尽力を心がけるつもりであるが、私のプロデュースや経営力、指導力やその手法をまだ見ぬ河野さんは、それでも私を信じていてくれているのだろうかと少々心配もあったのだが。


契約にあたり、その年俸も栄一にとっては申し分ない破格なものであった。しかも、チーフコーチと役職までいただいたのは、既存の年上コーチ達は面白くなかったりするのではないかと心配に。。

もともと指導することや、イベントの企画には我流ながら好きで取り組んできたこともあり、レッスンも下手の横好きではあるが自信があること、クラブ会員向けのテニス大会や他のクラブとの交流会、大会の企画なども雑談の中で少しだけアピールしておいた。マニュアルやガイドラインを使わず頼らず、栄一の感性だけで組み立てられる企画はまとまりがあるだけではなく時に奇抜で参加する客にはいつも喜ばれている。そんなことを、「やりたいように」やらせてくれるのはやり甲斐もあって楽しそうだ。施設もコートが8面、内4面はナイター照明完備と練習環境も問題なく活用させてもらえる。もちろん本業はプロテニスプレーヤーであり、試合出場は最優先させてもらえることも河野からお墨付きをもらっている。どこまで河野の期待に応え、オピニオンリーダーとしてここ武蔵野テニスクラブを牽引出来るかなど自信すら栄一にも分からないところだが、断る理由は何もない。栄一にとって河野は神のような存在にも思えた。


契約も問題なく完了し、コーチ陣と再度顔を合わせ挨拶をして、フロントに立ち寄った際に、

「会って早々ですけど、今度みんなでご飯行きません?その方がお互い打ち解けられるし…あっ、このタイミングで誘うのは早すぎですか?」栄一が切り出したのだが、

「賛成、賛成、歓迎会!!」絵里は吉永と顔を見合わせてクラブハウス中に聞こえるくらいの声を張り上げた。するとクラブハウスにいたメンバー達が一斉にフロントに顔を向けたのが、あまりにもテレビ的なシーンに思えて栄一もクスっと笑いを零した。


栄一自身から「人見知り」と言葉を出したものの、初対面でも動ぜず臆せず、自分の言動に絹着せぬ態度は相手も心を開いてくれる。見方を変えればそれはいつまでも「大人の対応」が出来ない成長出来ない子供のようなものかもしれないが木にするに至らず。

「初め半ば」と申し、自分を早々にさらけ出すことを惜しまない性分が相手を安心させていることも自然の振る舞いが栄一らしい。

良くも悪くも出会いは人生に様々な彩(いろどり)を与えてくれることをテニスを通していろいろ経験してきた。損得と打算的な考え方は栄一にはない。お金は大切なものだが、豊かな人生にはもっと優先するべきものがあり、必要な分だけお金はあればいい。求められれば可能な限り力になろうというスタンスは子供の頃に家族から教えられた。不器用だがそんな愚直なまでの栄一の人格は大人から気に入られる。

この新しい環境を与えてくれた河野社長には自分の力で応えたい。微力ながら豊富とは言えずとも持っている知識と経験を活かしたアイデアをフル稼働させて満足を超え「感動」を与えよう。


「市川プロ…、あっ市川コーチ次はいつお越しいただけるんですか?」

絵里がまだスタッフ相手ではない口調で聞いてきたので、

「明後日から皆んなと仕事させてもらいます。」

その栄一の言葉に、

「ラジャー」

右手の敬礼と合わせて。

「おいおい。失礼じゃないですか。」

河野が半分笑いを含めて、

「全然失礼じゃありません。佐々井さんは既に先輩ですから。」

すかさず栄一が絵里をかばうようにフォロー。

「市川コーチ、困ったらなんでも私に聞きなさい!」

戯けた絵里に皆んなでどっと笑いが弾けた。


再度、河野とフロントの女子たちに頭を下げて挨拶を終えた時に入り口の扉が開いて二人の女性が入って来た。母親と娘のように見える。クラブかスクールへの来場者とは少し違った不慣れさを感じるので、きっと初めての来訪の方だと察した。

栄一は先に目が合った母親らしき女性にお辞儀をし、優しそうな笑顔の会釈で応えてくれた。

隣にいる娘(?)は高校生か大学生くらい、横縞のタンクトップとポニーテールがよく似合っている。


「いらっしゃいませ。ようこそ。」

早速スタッフらしい対応に、河野やフロント女子たちも頭を下げて続いた。


「テニススクールに入会したいのですけど…」

上品な雰囲気を醸し出す母親が一歩前に出て言葉を出したタイミングで栄一は河野に目配せをしクラブハウスの扉に向かった。吉永が接客に対応している声を背中で聞きながら。

娘とすれ違う瞬間、彼女を見た栄一は彼女と目が合った。とても綺麗な大きな瞳が印象的で目をそらすことが出来ないほど。少しだけ眉を吊り上げニコッと笑うと彼女も同じように会釈を返した。


クラブハウスを後にしあらためて今日からここがホームであることに一念し、古の偉人の言葉を思い出した。


『いつか空を飛ぶことを知りたいと思っている者は先ず立ち上がり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程をとばして飛ぶことは不可能である。』


栄一は「運」に恵まれた星の下に生まれたことを以前から感じている。困った時には幾度と「神様」が導き救ってくれること。困窮に追い込まれても必ず何か方法があっていつもそれを掴むことが出来ていること。

ここでも自分の役割があって、きっとその役をこなし少しでも人のためになることが出来るよう「決定力」のみならず「献身的なプレー」も心がけて。


河野氏という「最高の後ろ盾」に感謝し、それに応えられる自分を披露出来るよう尽力すること、初対面であるが人の良さそうなスタッフばかりで、これから皆んなと上手く付き合っていけるように。


そして、プロとして自分自身を疑わず、変えずどこまで意地を張れるのか。


まだ見ぬ青い空を飛ぶことを夢見て…

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