第2話 勝たない勝ち方
1990年8月
毎日テニス選手権予選決勝
セットカウント1-1、ファイナルセット4-4で迎えた栄一のサービスゲーム…
栄一、プロデビューからの決勝は微かに潮風の香りが漂うここ有明テニスの森センターコートが檜舞台となった。予選を4ラウンド勝ち上がり、デビュー戦にしては調子よく、本戦の「大舞台」にあと一歩のところ。気温35度を越えるハードコートの熱は栄一の体力を限界にまで消耗させているものの自他共に認めるフィジカルとメンタルのタフネスさを証明するかのようにここからが栄一の真骨頂である。この状況でも栄一の顔に苦しさや困窮の表情は微塵もなくむしろ清々しささえ思わせる「いい顔」をしているのは、勝敗よりも栄一自身がアイデンティティーを追求することを楽しんでいるに過ぎないから。まるで盤面のゲームでもしているかのように。
対戦相手の長谷川プロは栄一より10歳年上、プロキャリアも5年先輩だけにパワーのみならず、テクニックを行使したプレースタイルはとてもスタイリッシュで簡単に倒せる相手ではない。過去のミーニングでは、栄一が学生の頃に全日本室内選手権の地区予選で一度対戦しているが、この時はワンサイドゲームで栄一のテニスでは擦り傷さえ付けることは出来なかった。
ネットに詰めた栄一が長谷川の打つフォアハンドのストレートをクロスに柔らかなタッチで角度を付け、第1セットを6-4で先取した瞬間、栄一を睨みつける長谷川が小さく頷いたのは以前の対戦よりも強くなった栄一を認めた合図でもあった。
しかしながら、続く第2セットでは長谷川のアグレッシブな先制が連続して炸裂する。
いかにも先手を取ろうと第1セットよりも1〜2歩前にポジションを取っているため、栄一へのリターンが少しずつ早くなり時間を奪われていた。
ラリー戦ではなかなかどうして分が悪いと判断した長谷川、サーブ&ボレー、チップ&チャージからのネットダッシュの回数が第1セットよりも断然と増えたプレーで圧倒され栄一は第9ゲームをブレークダウン、4-6で落としている。セットポイントを掴んだ長谷川はこの時もまた栄一を睨み、
「年齢の差は経験の差、そう簡単にはいかないさ。」
と言わんばかりに瞳の奥の知性・野性・感性そして士気の強さを栄一に剥き出しにする。
そしてファイナルセットに入ってもお互いにサービスキープを繰り返し譲らない展開の中、栄一のサービスゲームではサーブの緩急で長谷川にストレスを与えるショットを打たせながら次の決定打を取りこぼしなく打つ優位な試合進行。
第9ゲームもあっさり栄一のキープで終わり栄一5-4でコートチェンジ、ベンチに座りスポーツドリンクを口に運びながら観客席を見回す。テニス仲間の集団がコートエンドに見える。後輩の一人、優子がタオルを振って何かを言っているが、残念ながらあまり聞き取れない。気持ちだけは受け止めておこう。コーチ兼アドバイザリーの先輩、梶川さんがこちらに向け握った拳でアピールしている。栄一はそれに笑顔で右手の親指を立てて応えた。正直なところ、いつものことだが観客の温度ほど栄一のテンションは上がらずマイペースでいるところ。必死感がないのが栄一の世界観、本気で戦っていないのではないかと勘違いされてもおかしくないほどリラックスし陽気な表情だ。。
すぐ横の高速道路を走る車のエンジン音が少し大きく聞こえたが、試合を勝利で終えたファンファーレのようでそれもまた心地よかった。
「きっと次のゲームで終わる。」
根拠は無いが肌感覚でそう思えた。
(自信のようなもんだ。)
具体的な作戦も特に無いのに次のゲームでの展開が、イメージ通りに上手く行く気がして来たのだ。試合とはそう思える時がある。いわゆる「ゾーン」の一種だろう。経験上この実感は勝てる試合に現れる。栄一の頭の中でギターのメロディーが軽快に流れはじめた。渡辺香津美の「ブルーラグーン」。軽く頭を揺さぶりリズムを踏む仕草が周りからは、この場面では少々異様に見えていることだろうが栄一らしい。
主審のコールでコートに戻り、相手に背を向けながらゲームプランをイメージしてみた。そして大きく息を吸って3秒止めてから吐き出した。スッと気持ちが楽になる瞬間を感じて振り返り長谷川の存在を確認する。相手は既にサーブのアドレスに入ってボールをついているところだった。栄一の口元が少し緩み、
「さあ、仕上げだ!」
長谷川の第2セットからここまでのプレーで、サーブはあまりスピードを上げずに、ネットを取るために薄めの当たりが多かったことをこのゲームでも継続することを読んで、栄一はかなり前でリターンするプレーを挟むことを決めていた。
(チップ&チャージ)
「長谷川さんのプレーをいただきましょう。」
『目には目を』
案の定、長谷川の一本目のサーブはスピードよりも切れとコースに絞ったスライス系、その軌道は既に栄一の範疇であり、サイドラインいっぱいに落ちて切れて行く上がりっぱなをコンパクトなスイングでストレートに放った。そのタイミングに面と食らってレスポンスが遅れ動くことも出来なかった長谷川、また栄一を睨む。ボールはラインの内側に落ち後方のフェンスにぶつかった。
「0-15」
チェアアンパイアが感情のない機械的なイントネーションでコールするその声は、まるで自分には関係のない出来事を淡々と言葉として吐き出しているようにも聞こえる。日本人らしい感情表現の乏しさにも思える。
一瞬、時が止まったかのような静寂に続いてライブ会場のような歓声が響く。栄一も小さく拳を作り、観客席の梶川さんに目をやる。拍手を繰り返しながら「何か」を言っているが、これまた周りの声が大きくて聞き取れないが気にしていない栄一。既に次のポイントへのイメージだけを作っていた。第1ポイントのリターンが少し出来過ぎもあったので、きっと長谷川がサーブを変えてタイミングをずらすだろうと読み、
「次は後ろだな。」
長谷川がトスアップをするまでベースライン上に立ち、長谷川が天を仰いだと同時に2歩後ろに下がり、逆に栄一がリターンのタイミングを遅らせて長谷川のリズムを崩す。しっかり溜めてから振り切った栄一のフォアハンドは、1ポイント目同様にストレートに抜けて行く、まるで吸い込まれて行くように。長谷川はネットに出たものの、ボールを触ることさえ出来ず二度続けて動くことも出来なかった。
「0-30」
今回は栄一のリターンが長谷川の横を抜けた瞬間に歓声が上がった。応援の知人たちはかなり興奮しているが、栄一は逆に少し冷めているほど、これには理由が「二つ」あった。一つは過去の経験上、格上に対して勝つことを意識するとより興奮してしまいパフォーマンスのキレが鈍る。それで勝てた試合を捲られて幾度と苦渋を味わったことを思い出す。
「負けている時であれ、勝てそうな時であれ、一つ一つを丁寧にしっかりプレーして行けば、負けていても打開され、リードしていても捲られることは少ない。決しておごるな。」
尊敬する師から、敵が自分の中にいることを教えられた時であった。
内容のある試合は勝っても負けても自分を成長させてくれる。だからこそ同じ「負け方」を繰り返してはいけない。もう一つは、この大会がデビューであり現時点でのランキングは2050位。有識者にとってはこの順位が何を意味するかは明白なところで最下位、いわゆる0ポインターである。この試合で勝ち、本戦に上がれば間違いなくポイントを獲得出来るので数十位のアップランキングが期待出来る。
だが栄一は本戦に拘らず、この予選決勝までの対戦も「自分らしさ」を貫いてきた。だからこそこの大勝負ですら、冷静かつ大胆、緻密な計算から可能性の高い予測がかなり的確にプレーを成功させている。
1985年全仏オープン男子準決勝、ジョン・マッケンローVSマッツ・ビランデル。
クレー巧者のビランデルに対して、ストローク力の低いジョンがラリーを避け、可能な限りネットダッシュを繰り返すもののマッツの正確無比なパッシングを何度も何度も食らっても、それでもネットプレーこそジョンの持ち味であり、下がることは意に反することとし訪れたマッツのマッチポイント。
サーブ&ボレーに徹しネットに詰めたジョンのサイドを糸に引かれたようなストレートがすり抜けて行く。それを横目に見送るジョンの切ない表情は今でも脳裏に強く焼き付いている。ジョンが世界No.1の座につき初めて年間でATPタイトル無冠となった年である。だが、自身を信じ過去の実績を高く積み上げてきたプレースタイルを崩さず徹する姿勢こそ、真のアスリートであること、それが後悔のない戦であることを理解しているように。
「うん、面白くなってきた。プロテニスプレーヤーの道はまだ始まったばかり、勝ち負けよりも自分のやりたいスタイルで行こう。その方がいいテニスが出来そうだ。」
栄一はこの2ポイント先行された長谷川の意識の中を予測してみようと。予測、推測、憶測を長谷川のタイプに当てはめながら、それは楽しみながらパズルをしているように。それぞれのプレーがテンポの差を広げたものであるからこそ、次の栄一のプレーが「どちらか」の二択と考えているだろうと読む。そこでサーブをおおよそ予測出来れば再度リターンから優位に立てるプレーが出来そうだ。
1ポイント目はワイドに広がるスライス、2ポイント目はサイドを狙ったスライス、共に球種とスピードはさほど差はない。ならば次のサーブは順当に振り分ければセンターにキック系およびトップスライス辺り、いずれにせよ「センター」と踏むことがセオリーに思える。ここで栄一は、ここまでの長谷川のプレーの癖と性格を加味して考えてみた。順当に打ち替えてくるほど単純なプレーヤーではないこと、引き続きサーブ&ボレーは変えないこと、サーブで崩してボレーで追い込む、もしくは決定打を打つ、もともとサーブの爆発的なパワーはない選手、球種やコースでレシーブを限定させるのが狙い…
(ん!?)
「ボディーかな…、ボディーだな!」
左右の選択を考えさせる流れの時こそ「正面」に打たれると思い切ったスイングは出来にくくなり、無難に面を作って返球する判断が無難に。
栄一は正面に打ってくることに絞った。たとえ予測が外れても2ポイントリードは大いにリスキーなプレーにチャレンジ出来る貯金のようなもの。予測通りにサーブが入ればフォアで回り込み逆クロス気味に右サイド…、と考えるのでは面白くない。ここは左サイドに撃ち抜いて行こう。
長谷川がサーブを打つアドレスに入り三回ボールをついた。一度動作が止まり、その時に栄一を一瞬睨んだが、栄一はフォアの回り込みのことしか考えていない。強いて言うならば頭の片隅に…
「もし予測が外れた場合の緊急処置は…」
答えを出せないうちに長谷川のモーションが始まりスタートが切られてしまった。だが、その心配が不必要であったことは打たれたサーブが証明してくれた。見事に栄一の予測通りにサーブは体を目掛けて飛んで来る。日に焼けて一層凛々しくなった栄一の顔が、一瞬明るくなったように見えるほど華やかになり、ササっと左に回り込み右脚の蹴り上げからラケットを一閃すると、ボールは三回目のサイドラインに突き刺さった。これには長谷川も腰に手を当てて数秒であるがうつむき加減は隠せない。そして顔を上げた長谷川はここでもまた栄一を睨む。ただし今度の睨みはしばらく続き、それに逆らうのではなくむしろ応えるかのように栄一も視線を外さない。数秒であるのだろうが、もっと長い時間に感じる。やがて長谷川は2度小さく頷き口元が少し柔らかくなったように見えた。それは栄一の放った3本のリターンエースを認め受け入れたようにも思える表情だった。
「0-40」
ナイスショットの連続でポイントを連取出来たことよりも、長谷川の意図を読み取りながらのプレーが成功していることが楽しいと栄一は思った。観客席の仲間たちは倍々で歓声が大きくなっているように思える。プロに転向する前は、ほとんどの試合が単身で望み、応援などほとんど無い環境で戦ってきたのだからこの状況はまるで芸能人のようだなと思っていた。応援は力になると言うが、今の栄一にはあまりその価値は分かっていない。むしろ、知人が誰もいない空間の方が集中出来るようにも思っていた。もともと一人で過ごす時間が多く、その方が慣れているからだろう。人との触れ合いがおっくうな性格ということもないが、人一倍パーソナルスペースの広い栄一は「自分らしさ」ゆえに自身のペースを変えることが苦手である。人に合わせることが下手と言えばそうなのだろう。
「あと1ポイント」
次のプレーのイメージを考え始めた。ポイント間に相手の予測をしたり、自身のプレーを決めるにあたり「足し算」は禁物で「引き算」がより的確に範囲を絞れることは基本であり鉄則。そして、あまり迷わず決めること。
(ファーストチェス)
チェスの名手ほど5秒で出した手と30分迷った挙句の手ではさして変わらないことをよく知っていて、その判断はだいたい正解であることが多い。
今のスコアであれば、たとえその決定が外れていても気にすることは何もない。3ポイントも余裕がある中で、崖っぷちに立たされたのは相手の方であること。同じように長谷川も次のプレーを「決定」させて向かって来ることには間違いない。再度サーブ&ボレーであること、コースは先ほどのフォア回り込みを懸念してセンターに打って来る…、のがセオリーだが、この予測は長谷川の頭の中にもあるはず。
(次もサイドにスライスサーブだ。)
と栄一は踏んだ。今回はフォアで回り込まずにバックハンドでセンターに叩こう、もしくはスライスで沈めよう。いずれにしても先ほどまでのサイドを狙ったレシーブの印象は強いはず、そこでセンターに打たれたボールをどのように長谷川がサバクのか。そして甘くなったボレーを叩いて試合を決めようと。プランは決まった。
(あと1ポイント。)
どこからともなく微風に乗ってとても鼻心地の良い香りが刺激する。香水のようだが初めて嗅ぐ匂いに栄一は少し周りを気にしたが出どころは分からない。甘く香るその匂いを大きく深呼吸して鼻から吸い込むと脳が刺激されたかのように何故かすっきりして来た。
アドレスから、一瞬栄一を睨む長谷川。トスアップが少し「左」に上がった瞬間に栄一は「スピン?」動揺とまでは行かないがプラン変更を感じた一瞬。案の定、サーブはワイドに逃げて行くスピンサーブだった。ポジションとタイミングが合わせられないことは瞬時に判断出来たので無難にスライスで返球、と同時に長谷川がネットダッシュをしていないことに気がつく。
「やば!」
長谷川の足元に沈めるつもりで放ったレシーブは、スピードの無いショットだけに、ネットに出て来ていない長谷川にとっては格好のチャンスボールレベル。長谷川は、とてもいい感じでボールに入り込みフォアでデュースコートに叩いてきた。強烈なトップスピンのかかったボールは大きく跳ねながらサイドに逃げて行く。栄一は間に合わなかった。
「15-40」
長谷川がサーブ&ボレーに徹しなかったことは意外だったが、自身のサービスゲームをいきなり連続で3ポイント連取、しかもエースで決められれば、他の方法をチョイスすること、もしくは栄一の頭の中を読みシナリオを作り始めたのかもしれない。されどまだアドバンテージは栄一にある。
(次のポイントはどう転ぶ。いや、どう転がす。)
長谷川はまたステイバック発進か?そう思う栄一の裏をかいて再びサーブ&ボレーに戻すか?栄一はネットに出てくると判断、デュースコートだけにサーブはスライスをワイドに打って来ると。予測が外れたり、次のポイントを取られてもまだ栄一のアドバンテージ、積極的なプレーに挑むも余裕がある。リターンはストレートを狙ってぶち抜こう。
デュースコートに戻り大きく深呼吸すると、先ほどの香りはもうしなかった。その代わりにまもなく訪れる今年の夏の気配が感じられた。
「いい気分だ。」
長谷川が三度ボールを地面についてアドレスの構えを取る。ゆっくりした動作からトスアップされたボールがゆっくり空に向けて駆け上がって行くとき、栄一はシナリオ通りのコースに合わせて、ほんの少し体を右に寄せたその直後、長谷川のサーブはセンターに突き刺ささり、このゲーム最初のサービスエースが決まった。長谷川は栄一に向けて魂の咆哮を放ち、会場の声援と相まって熱を感じるほどだ。
栄一は動作と頭の中の回路を停止させるほどの衝撃を感じていた。
(してやられた…)
栄一は少し首をうな垂れ、その反動で顔中の汗がいく粒もコートに降りかかっていったが、汗は見る見るうちに消えて行く。
見事にやられたが、栄一にとってのメンタルダメージは見た目ほどない。スコアもまだ優勢であり、このくらいの相手じゃないと面白くないとまで言い切れるから栄一のテニス愛は素晴らしい。
「30-40」
(さてと。。)
次で「決めよう」と思えば力も入る。そんな経験を何度も繰り返し、「勝ちたい」気持ちほど自分の中に敵を作ることを教授され苦しいほど味わって来た。決めるよりも「攻める」を考える方が上手く行く。
(そして楽しくなる。)
次の長谷川の一手が正攻法で来るならばサーブ&ボレー、そしてサーブにボリュームは置かないだろう。されど、今のポイントのようにサービスポイントを狙えばセンター、いやサイドに1stサーブを打って来るように思える。
(ここも賭けてみよう!)
栄一は後者で来ると判断し、厚めの辺りなら角度はさほど警戒しなくてよく、コンパクトなスイングのイメージをしていた。長谷川がネットダッシュするのはレシーブの後からだろう、振られた場合のパスはその瞬間に判断するが、イメージはショートクロス、場合によってはスライスで落としてみて意表をつくのも面白そうだ。栄一の頭の中にその動画が映し出された時、長谷川はコートにボールをつき始めた。左手が高々と上げられ、その先に黄色いボールが伸びて行く。トスの位置から瞬時にサーブのコースを予測し「good」と心の中で頷いた。そして次の瞬間、長谷川の一振りからボールはセンターに向けて右方向に切れながら、それは栄一の予測の真逆、そして栄一からどんどん逃げて行くスライス系だった。栄一は咄嗟の判断でグリップをかなり薄く握り変え、なんとかボールにタッチし浮いてしまったものの返球することは出来た。瞬間、栄一は長谷川がネットに居ないことを願うと共に逆サイドを警戒、運良く予想通りに長谷川はステイバックの態勢からのスタートだったため、栄一が次のスタートとチョイスをするのに十分な時間を得ることが出来ていた。オープンコートとなったバックサイドを警戒したものの、タイミング的に「フォアサイド!」と判断し体を反転させる。読みは当たり長谷川の叩いたボールはフォアサイドコーナーに飛んで来る。ここでも予想通りの流れに栄一は、
「let's try」
フォアのスライスでクロスに落とす狙いと同時に猛然とネットダッシュ。長谷川は一瞬その配球にたじろぐも、栄一のダッシュを見て落ち着いてアングルに落とし返す。逆モーションの栄一はそれでも追いつき再びフォアスライスでアングルへ。だが、センターに詰めていた長谷川、アングルのラリーにそんなには付き合ってられないといった表情から、少し笑みを含んだ横顔、それに向かって飛んで行くボールのフエルトが抜けて日に浴びてキラキラと、まるでアイスダストのように美しさを纏っているかのよう。駆け引きのあったポイントだったが長谷川が一枚上手であった。「やるじゃない。」
「デュース」
栄一は、3ポイントを先に連取し、その後3ポイントを連取され焦りを少々感じ、長谷川は追い上げに意気揚々とし、この流れを変えずにキープ出来るのか。そんなことを栄一は、あたかも実況のように心の中で唱えていたのだが、実のところ勝ち負けに拘らないことほど強いものはない。
競った試合ほどポイントの重さを感じることと、「勝とう」とする意志に反して、「負ける」ことの怖さを共存させながらプレーしなければならない自己との戦い。この局面の重さを感じないメンタルに仕上がったのは、栄一がプロ登録してからの試合でも「テニスを楽しむ」ことを優先しているからこそ、プレッシャーを跳ね除け実力をより十分に発揮出来るプレーヤーである理由でもある。
「ラリー!」
栄一はデュースゲームをここまでのショートポイントからロングラリーに持ち込む算段をしていた。
ここまでのプレーの結果として長谷川が意気揚々とネットダッシュすることには釘を刺すことが出来ていると踏む。なので最初のポイントはミスを覚悟でネットダッシュと決め、チップ&チャージでプレッシャーをかけよう。栄一の強さの一つは相手の状態よりも先に自身のショットやプレーを強引に決め付けられることかもしれない。これは、時にして相手のショットの攻撃力によって粉砕されることもあるが、何よりも自身の意識が一番高いところに置けるメンタリティーでプレー出来ることだ。時にしてそれは相手のことを「無視」するレベルにまで引き上げられるが、これが功を奏して成功の可能性を広げることになる。
長谷川がサーブのアドレスに入った。表情は硬く、ポイントダッシュの意識の強さを感じさせる。ゆっくりとトスアップされたビクトリーポジションのシルエットが美しくも見える。そのタイミングで栄一はベースラインから1メートル以上もコートの中に入り、センターに捻じ曲げて入って来たスライスサーブの上がりっぱなをバックハンドの厚めの当たりで軽く合わせ、そのまま猛然とネットダッシュへ。だが、打ったショットのコースが甘く、長谷川が下がりながら上手く体を回してフォアの逆クロスを放つ。栄一もまた上手く反応して飛びつきバックボレーでストレートにフォーカスするが、あいにく甘いボールとなり、長谷川に叩き込まれてポイントを落とす。長谷川は拳を作り「カモーン」。それは湾岸道路まで響いたかのように大きい。
この局面でアドバンテージを握った長谷川、側から見て栄一の心中を察するに焦りや怒り、圧力から次のポイントでの集中力が試される時である。ただ、彼をまだ知らぬ観客たちが騒つくことも一興である。それは栄一のルックスから、一目でファンになった女性たちの物憂げな表情と、心から勝利を望む身内たちの念仏のような声と。それでも周囲の状況とは裏腹に、至って冷静で平常心を保っているのが栄一である。それは、先ほどの失点が栄一にとって想定内であったこと。ここからのプレーへの布石であり、メインはここからであるシナリオをイメージしているからだ。思い通りになるかどうかは分からない。予想通りにならなくとも、自身で打ち自身で走るプレーを貫き、行き当たりばったりで対応出来る訳がないレベルの試合であるだけに、「3手先」くらいは当然の策略であってそれがワクワクする。時にはギャンブルもまた勝負の醍醐味であるのだから。
今更ながら、長谷川と栄一のプレースタイルは似ているところも多い。パワーでねじ込むのみならず、直線と放物線を上手く組み合わせ、スタイリッシュなパフォーマンスとアーティスティックなショットの配球は美しささえ感じさせる。
「アドバンテージ長谷川」
栄一にとってこの状況は自ら佳境に入ったところ。
栄一にとって、試合と言うのは今さらだが「ゲーム」であること。勝つことに尽力することは間違いないが、前述したように自身の志に見合ったプレーで勝つことが真意であり、ビジネスとしてのプロテニスプレーヤーであることを二の次にしている。なのでスポンサーもまだ付いていない。どのメーカーや企業でも、「見返り」あっての協力であるが故、我を通すことを優先してでも大金をつぎ込むのは大きな大きな結果を出し、周知に知られて宣伝広告としてのネームバリューあってのスポンサーでることは然り。だからこそ、今の栄一自身が「しばらくはやりたいようにやろう。自力でなんとか出来るまでは。」と。これが栄一のプライドでありポリシーである。
緊張感こそ高まったものの、このゲームを長谷川がキープしたところでまだタイ、逆に長谷川には後がなく栄一を殺してでも奪取しなければ負けである。そう考えれば栄一にはまだまだポイントにもゲームにも、そして心にも余裕がある中での次のプレーとは如何に。
長谷川がボールをつき始めた。アドレスの構えのタイミングで栄一を睨むルーティーンは変わらない。栄一はベースライン上でスタンスを大きく広げてかなり低く構える。上体を左右に揺らし力を抜いてスタートに備える。長谷川のトスアップと同時に一歩後ろに下がりリターンまでの時間を長く調整する。リターンをしっかり振り切って打つための策である。
栄一はこのポイントの長谷川はサーブ&ボレーをしないと読んでいる。それは前のポイントで栄一がかなり前に詰め、踏み込んでリターンしたことの印象が強いと踏んでいる。栄一のリターンには定評があるが、それ以前にこの試合でもそれは証明され、長谷川も容易にサーブがキープ出来ていないのが事実である。
栄一の予想は当たった。長谷川は遠くベースラインに立っている。栄一は一歩下がったポジションから若干バック側に狙ったスピンサーブをフォアで回り込み、逆クロスに振り切ったリターンは深く突き刺さり、長谷川はその返球に選択肢を奪われ、しのぎのスライスで力の無い放物線が弧を描いた。それでも深く返すことが出来たので栄一も決定打は打てず、少し下がって態勢を整えて再びバックサイドに深くトップスピンのかかったボールを打ち込んだ。
「シナリオ通りだ…な。」
栄一は心の中でそう思い口元に軽い笑みが零れた。長谷川の心中が鮮明に見えている。このポイントは取れる、そう自信が持てた。と同時に、きっと長谷川も栄一の思惑を感じているだろうと、後のない自分だからこそ、冒険は避けシンプルな攻守に徹すると読むことを。だが、アドバンテージを握られたことが今の栄一にとって、獲物が隅に追い込まれたような危機感など全くない。むしろ緊張を楽しもうとするメンタルはこの状況こそ栄一の独壇場であり本領発揮の時である。それはまるで野獣の本能のように。守備を選択するべき状況ではないことに長谷川は気が付いていなかった。このゲーム初めてのラリーが続く。栄一のペースに乗ってしまったことで長谷川は後手に屈することになった。
(楽しい!めちゃくちゃ楽しい!)
栄一の躍動するパフォーマンスはまるで波を自由に操るサーファーのよう。ボードにかけた重心で波飛沫を撒き散らす光景が見に浮かぶ。BGMはパブロクルーズ「zero to sixty in five」で間違いないだろう。
左右に振り回された長谷川は、やっと届いたボールを切り返しのショットを選択する余裕は無い。力無く帰って来たボールを逆サイドに叩き込んでカタをつける。栄一は脇腹辺りで小さくガッツポーズを作るが笑顔である。長谷川は肩で息をして膝に手を置くほど、このポイントでの体力消耗は著しかったようだ。
「デュース」
栄一は長谷川のスタミナを考えれば、たとえこのゲームを取られ5-5タイに持ち込まれても、体力勝負で自分が勝つ可能性が高いことに自信を持っていた。だからこそ「焦り」は全くない。自分らしいテニスをして、長谷川を「どう料理するか」を考えるだけと余裕を持っていのだが、実のところこれでは栄一は楽しくない。今のポイントのように、追い込まれている状況こそなのである。昔の武将が負け戦こそ真の戦いと称し、己が本気で勝とうとした結果だからこそ価値があると。栄一はこのまま勝ってもリベンジは出来るが面白くない、もっと楽しみたいと。
そしてここでプロとして有るまじき行動に出る。
体力の消耗を抑えたい長谷川が、次のプレーでサーブ&ボレーをチョイスしないことは概ね読めている。走らせれば、たとえ拾えたとしても更に体力を奪うことになる。
『体力の限界は精神力の衰退に起因する』
「もう少しこの緊張感を味わっていたいな。」
長谷川がアドレスからトスアップに入った。地面を蹴り上げて振り切ったサーブではあったが、明らかにセカンドレベルのスライスがセンターに入ってくる。これもサーブを2本打たないようにとの判断だろうが、「長谷川さん、相当疲れてるな。」
ネットダッシュをしないだけにセンターだと言うことも読んでいた。栄一はバックのスライスで逆クロスにネットギリギリを狙って打つ…、いやネットを狙って打つ。その通りにボールは、ネットの白帯に当たり栄一のコートに静かに落ちた。直後の栄一は少しだけ空を見上げるポーズをしてがっかりのアピールをしておいた。その逆に長谷川は、握り拳と腹の底から感嘆の声を絞り出した。きっとこの試合を見ているギャラリーからすれば、お互いが最高潮に集中し拮抗した試合だと目に映っているのだろう。
栄一の今のプレーや判断は、一つ間違えれば八百長プレーと罵られても当然の行為だが、八百長と思わせないハイクオリティーなフェイクショットやプレー、そして演技が栄一にはある。そして、勝つことを最優先にしていない栄一のスタンスこそ余裕のプレーを生み出し、見方によってはそれが「魅力的」に映えるのだ。そして、二度目の「お膳立て」は望み通りの展開が用意された。
「さてと…。次はきっと出てくる。」
栄一は長谷川のネットダッシュ、勝負を急ぐだろうと予測、それはそろそろフィジカルとメンタル両方の限界に近づいている長谷川の現状を察してのこと。今のポイントが栄一のミスで取れたこと、ラリーをせずにリード出来たのだから体力も温存されたことからの予測だったが…
サーブのアドレスに入ってからも、長谷川の肩は大きく上下に動いている。まだ息は整っていない。
「このポイントを落とせば次はないかもしれない…」
長谷川さんはそう考えているのだろう…、と栄一は考えていた。きっと勝負に出る。彼の予測はこうだ…
〜サーブはバックにスピン、俺のリターンはスライスでセンターに沈めてくると予想、1stボレーで開いたデュースコートにプレースメント、次のパッシングで勝負〜
オーソドックスで基本的なスタイルだが妥当なところだろう。それに対して栄一の見解として…
〜予測通りのパターンを作ってみるのも一興だな。それとも一打猛撃もカッコよくて観客が盛り上がりそうだ〜
長谷川がボールをつき始めたが、栄一の考えはまだまとまっていない。だからと言って焦ることではなくよくあること。ノープランこそ多用性であり、あえて予測せず、その場の瞬間で判断することも上級者のプレーには必要であること、そしてその時いかに質の高いショットが打てるかが選手のレベルを示すバロメーターになる。
栄一は長谷川のトスアップに合わせて息を深く吸い込み、サイドに打ち込んで来たスピンサーブを一歩踏み込んで、スライスで振り下ろす時に大きく吐き出した。力が抜けてラケットが良く走る。放たれたボールは栄一の指示通りにセンターベルトの上ギリギリを通過して、ネットに猛進する長谷川の足元に突き刺さった。正直、そのショットのキレは相当なクオリティーだったのだが、長谷川も過去の実績が伊達なものではないことを証明するかの如く、深々と膝を曲げ絶妙なタッチでクロスコートに深くコントロールされたボールは、まるで水面すれすれを飛ぶ海鳥のよう。
ここまでの展開は僅か数秒の時間に過ぎない、漫画であれば3〜4カット、そしていよいよ勝負のシーンがシナリオ通りに展開される。栄一はこの状況をどう判断し決定するのか…
「ふむ!」
栄一はフォアの薄い当たりをバギーホイップで鋭く振り上げクロスにトップスピンロブを放った。長谷川はそのタイミングでスプリットステップを取ったものの、頭上に大きな弧を描くボールを眺めることしか出来なかった。それはまるでスローモーションのようにコートの奥に吸い込まれていった。がっくりと頭をうな垂れた彼の予測の中に、このショットは存在しなかったことが伺える。直後に観客席から立ち上がった人並みの、怒涛のような歓声と拍手がコートを占領している。芸術的なまでのシーンで終わったこのポイントの意味は大きい。それは栄一の選手としての可能性を大きく感じさせるポイントでもあった。
「デュース」
3度目の仕切り直しに長谷川の顔色は険しく、尋常じゃない汗が吹き出し、シャツに染み込めなかった汗が長谷川の歩く場所に点々と跡を残している。ベースラインに戻る足取りも遅い。もちろん栄一にもそんな表情になる試合経験は何度もして来ている。しかし今の栄一は楽しそうだ。とても楽しそうにラケットのガットを眺めている。栄一には今のポイントの取られ方が、長谷川にとってダメージが大きかったことを理解している。だからこそここで一気に攻め込んで行こうと決めている。やはり、次の長谷川のプレーも体力を考えればロングポイントにはしたくないのが本望であろう。それ故にネットに出るタイミングは早いと読む。サーブの種類やコースの選択もるあるが、いずれにしてもセンターに叩こう。今度は沈めるだけではなくボディーにぶつけて行こう。テニスの試合は所詮「勝負事」、ただ単に自身の得意をやたらとひけらかす程度ではレベルが低い。相手の状況や試合の流れから次のショットやプレーを予測しながら戦略を立てると面白みが広がる。そしてそれが上手くこなせた時が至福の喜びでもある。ここまでの流れと結果は、まさに栄一の掌の上で長谷川は無邪気に回っているかのよう。そして苦しみながらプレーをする立場と、楽しみながら勝つことを考えずに勝つ立場、その両極端な2人の競い合いにもまもなく終止符が打たれる時が来たようだ。長谷川の1stサーブは珍しく厚めでスピードを上げたがセンターストラップに上部に叩きつけたに過ぎなかった。ショートポイントを狙ってのサーブだろう。そして2ndサーブはさほどキレの良くないスピンがセンターに。栄一はコート内に一歩入り、予定通りにバックハンドでセンター目掛けてコンパクトながら厚めにヒット、真正面に打ち込まれた長谷川は一瞬たじろぐも、上手くかわして再びセンターに1stボレーを放ったが、これは返した程度で力が無い。とは言うもののセンターセオリーの狙いだったのだろう。栄一は瞬間的に長谷川の予想を決定付けてバックハンドで逆クロスへ。長谷川は動いた方向と顔を向ける方向が真逆になり、すぐ横を飛んで行くボールの後ろを見送ることになった。
「カモーン」
これも珍しく栄一が力強く声を上げた。観客席の応援団は、全ての音を搔き消すほどの歓声と拍手が鳴り響く。なぜか優子の甲高い声は聞こえたので顔を向けて右親指を立てて応えた。長谷川を見ると少し小さくなった背中と、うつむき気味な姿勢が勝負を諦めたかのようにも栄一の目には映った。
「アドバンテージ市川、チャンピオンシップポイント」
相変わらず、コート内の盛り上がりに全く左右されず動じないチェアーアンパイアの淡々としたコールと共に観客の声が一瞬で静寂へと戻る。マッチポイント、最後の締め方をどうイメージするか。栄一の頭の中にはいくつかのアイデアがあったが、今の長谷川を見ているとノープランでも行けそうな気がして来たので、あえて行き当たりばったりに対応しようと決めた。だが、守ることはない。打てれば打ち込むことは決めていた。長谷川のトスアップとスイングに合わせて一歩コートにはいる。1stサーブはオーバーしフォルトだった。それでも長谷川はネットダッシュのアクションをしていたのは、まだ攻撃モードにある証拠だろう。
「さあ、2ndサーブどうしますか?長谷川さん!」
いつものルーティーン通りにボールを3度つき、アドレスに入って栄一を睨む長谷川、その時に栄一はわざといつも以上にコートの内側、サービスライン手前辺りまで詰めていた。ハッタリに惑わされるレベルではない長谷川だが、ここまでの栄一のプレーから間違いなくプレッシャーを感じない訳がない。ましてや栄一のマッチポイント、さあどう切り抜けますか?そんなことを栄一は小さな声で呼びかけていた。栄一の頭の中では盛大なオーケストラがワーグナーの「ワルキューレの騎行」を奏で始めたところであり、この試合のダイジェストシーンが次から次へと頭の中を駆け巡っている。それはまるで次のポイントで試合が終わるシナリオのように。
トスアップの動作がいつもよりもゆっくりと感じたのは栄一の気持ちに余裕があったからなのだろうか。高く放り投げられたボールを追いかけるようにラケットが振り下ろされる。
(えっ!)
思いの外、スピードのあるサーブがセンターに飛んでくる。まるで予想だにしなかった意外性に、飛びつき手を精一杯伸ばしたが届かなかった。
だが、ボールは僅かにサービスラインをオーバーしていた。手を伸ばした先をすり抜けて行くボールをバウンド後も後ろのフェンスまで見送った栄一は小さく拳を作り、しばらく前を見ずにネットに歩み寄った。
「ゲーム ゲームウオンバイ市川」
既に長谷川がネットの直ぐ側で立ち栄一の到着を待っていた。
「ありがとうございました。」
栄一は敬意を払い頭を下げて挙手を求めた。
「もうありがとうとかはやめろよ。お互いプロなんだから。完敗だよ、おめでとう。」
長谷川はそれに応え手を差し出し力強く栄一の手を握った顔には笑みが戻っていた。
「本戦頑張れよ。いいクジ引けよ。」
笑みと言うよりも、笑いながらのメッセージだったが、栄一は頷くこともなくスルーしてしまった。くじ運とかをあてにした試合などなんの興味もないのが栄一の本音であり、長谷川の言う価値観は全く当てはまらなかったのである。この試合でもそうであったように、プロでありながら何が何でも「勝とうとしない」、自身のプレースタイルや駆け引きのプレーが栄一の価値観であって、勝ち負けよりも優先すべきことがあってこそのテニスが栄一スタイルである。試合の中でインプットとアウトプットをどう判断し決定するかの繰り返しが、まるで囲碁や将棋の展開のようでもあり、相手の心中を手玉に取り思い描くショットを的確に打ち込むことに至福を感じる。特に栄一のような勝つことよりも「試合を楽しむ」選手は稀有なタイプなのだろう。
長谷川の後にチェアーアンパイアに挨拶の握手をしてベンチに戻り、ラケットやタオル、ドリンクのボトルなどを無造作にラケットバックに放り込んでいると、スーツ姿の1人の男の人が近づいてきて、
「市川プロ、おめでとうございます。」
と言いながら胸ポケットから名刺入れを出して一枚の名刺を差し出してきた。
「とてもいい試合…、いや市川プロの素晴らしさを感じる試合を観戦させていただいてありがとうございます。私、こう言うものです。」
栄一は頭を少し下げながら名刺を受け取り、「今日の試合は出来過ぎたくらいでした。この調子ならATPトップ10の選手にも勝てる気がします。」と。受け取った名刺には「河野企業株式会社 代表取締役 河野武」と。
「恥ずかしながら、地主の親族企業で多角に色々な事業を展開していて、その中でテニスクラブも経営しているのですが、もし市川プロにお力をお借り出来るのであればビジネスライクなご相談をさせていただきたく…」
とても腰が低く感じの良さそうな人だと思った。ビジネスライクとはスポンサー契約の話だろうかと思い、
「ありがとうございます。ビジネスと仰っていただけるのはどのような…」
正直、栄一にはプロとしての活動が始まったばかりなのであまりピンと来ないところも多い。
「一言で言えばスポンサー契約です。ただ、市川プロの条件を優先させていただきたいので、詳細については一度お時間を作っていただけると幸いなのですが…」
なるほど。ある意味で栄一はこの時初めて自身の立場を理解したようなものだった。プロとして、選手としてこれから活動して行くにはバックボーンが必要である。しかし、今の試合でもそうであったように、一般的にプロのアスリートは競技に勝つことが一番の目的であるはずが、栄一の場合は現状では自身のプレーを貫くことであり、それで負けても厭わないのが本心。これを受け入れる企業はまずないだろうと。人の視線と自分の評価など気にかけたことのない、そんな栄一の「心意気」を個人的に応援してくれる方々は何人か声もかけてくれているが、それではスポンサーとまでの出資はいただけない事実であるが、しばらくは自由気ままにやりたいようにやると言う真髄はまっとう出来る。
「お急ぎにならなくても大丈夫です。プロのご都合…、その前に私のお話に興味関心をお持ちになられてからでも結構です、その際にはご一報いただければ幸いですので。」
「一つだけお伝えしたおきたいのは、私個人的にも市川プロのテニスが素晴らしくて心を奪われたほどなのです。今後のテニスに何かお手伝いが出来ればと思っています。」
とても丁重なお言葉をいただいたと感じていた。
「ありがとうございます。少し考えさせていただいてからご連絡させていただきます。」
栄一は、有難いお話であって感謝の意を表して丁寧にお辞儀をし別れた。実は、この出会いが栄一にとって将来、未来に大きな影響を与える始まりとなったことをまだ知る由もなかった。
コートから出るとテニス雑誌社が近づいてきてインタビューを求められた。記者の女性の目が釣り上がっていることと、ブラウスの胸元が開きすぎている印象だ。あまり長話はしたくなかったが、対応が悪いと後で何を言われるか分からないもの、無難な質問に対して無難なお決まりの文句を適当に並べておいた。
「本戦頑張ってください。」
その言葉に右手の親指と人差し指で丸を作りニッコリ笑って答えた。
応援に来てくれた仲間たちに祝福され揉みくちゃにされそうになったが、これもまた嬉しい。すかさず梶川が栄一を抱きしめ背中を何度も叩く。
「相変わらずカッコいい勝ち方しやがって。」
「コーチの指導のお陰ですから。」
「嘘つけ。お前のセンスには頭上がらないよ。」
「今日はついてました。本戦はこれからです。」
「ああ。タイトル取るまでは祝わんぞ。」
「お願いします。」
梶川は栄一の勝っても奢らない謙虚な所作にも感心している。
優子はなぜか泣きながら「おめでとうございます。おめでとうございます。」と繰り返してくれた。まだテニスは強くないが彼女も心からテニスが好きな選手「テニス人(びと)」の1人である。一見のほほんとした癒し系の雰囲気を感じるが、いざ試合が始まるとどんな相手にも手を抜かずの全力プレー、フォア、バック共に両手打ちから叩き込んで来るストロークは栄一からもエースを奪うほどのクオリティー。栄一を心からテニスの先輩として慕うが、実のところ「それ以上」の感情すら感じさせるものの栄一には届いていない。
「市川さん、みんなとご飯行きませんか?」
優子に誘われたが、試合の日はいつも1人で帰ることにしている理由がある。
「ごめん、いつものこと。」
「そうですよね。分かってるんですけど言っちゃいました。」
残念そうな優子が少し可哀想にも思ったが仕方ない。
「今度、みんなに奢るから。」
栄一も気を使う。
「ホントですか!?ありがとうございます。」
そんなみんなに挨拶をして、本戦の抽選をしにクラブハウスのフロントへ。受付の女性がにこやかに迎えてくれた。小柄だが品と愛嬌のある女性だ。
「おめでとうございます。市川プロを含め、決勝進出の選手は8名になりますが、既に進出を決めている選手が3名いて抽選が済んでいます。なので、こちらには5枚のクジが入っています。」
説明に納得した意思表示を頷く程度で済ませ、壁に貼られている本戦のドロー表に目をやると、言われた通りに5箇所が空欄となっている。すぐ目に付いたのは第1シードの真下が空いている。本戦の第1シードはJOPランキング3位の冴島プロだ。
「どうせならあそこに入りたいな。」
と冴島プロの名前の下を指し、
「クジを引かずにここに入れてください。冴島さんとやりたいんで。」
と、通用しないのは承知の上で言ってみたが、
「あらっ、皆さん予選から上がられても、冴島プロの下だけは…と仰られる方ばかりでしたが…」
と驚きと少しだけ微笑みを合わせた表情が可愛く見える。
「どうせなら一番強い選手と試合したいじゃないですか。そんな機会あまりないし。」
本来、ツアープロというものは下部大会でポイントを稼ぎ(試合の勝ち上がりによってポイント数も上がる)、次のレベルの大会への出場権を得るため、本戦などに進出出来ても一回戦で負けてしまわないことを望む。それが対戦カードの運なども合わせてより勝ち上がりやすい方法すら考えるのだが、栄一はそれよりも強い相手との対戦を望んでいるのだ。
栄一は抽選箱の中に手を突っ込みカードらしき紙を一度掻き回しながら「冴島プロよろしく!」と言って一枚の封筒を引き出した。引きの強さを持ち合わせていたのかどうかは分からないが、栄一の希望は見事に「エントリーNo.2」を引き当てた。
「やったね。」
栄一は受付の女性に向かって親指を立てて引いたくじを知らせた。彼女はまた驚いたが、
「あらためて…、おめでとうございます。」
と、先ほど以上の笑顔と大きな声と共に栄一の名前のシールを冴島プロの下に貼り出した。
彼女から本戦出場の詳細について説明を受け、当日のネームカードを受け取り、最後に「頑張ってください。」と励まされたが本心なのか。
「本戦、スッゲー楽しみだな。俺のテニス、どこまで出来るかな。」
プロになる以前から栄一のテニスは常にトライアルな場面が多く、その度に強い相手を好み、勝ち上がり難い山を選び、ディフェンシブな道を進むことは一度もなかった。選手である以上勝ちたい思いがないこともない。しかしそれ以上に「自分らしさ」を常に優先し、思うように自信のあるプレーを繰り広げ、負ければ課題と受け止め鍛錬に勤しむ。必死感はいつも感じられないが孤独感は周りすら感じていた。そのストイックな姿勢が時と共に身を結ぶのも必然だったのかもしれない。
帰りの電車の中で、1人今日の試合を思い出す。反省であり、自分のテニスが上手く出来たことには自信を持ち、この時間に振り返ってみることがとても大切な「心の日記」であることを栄一はジュニア時代から続けている。
「さあ、次だ。」
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