第8話 動き出した「時間」
『ハーゲンダッツのアイスクリームを食べに連れて行ってくれたら凄く嬉しいです。』
その日、原宿駅の改札口を出た辺りは、いつも通りに待ち合わせの人たちが壁に沿って立ち並ぶ。皆、待ち人を探し右に左に顔を向けて、お目当ての顔を一瞬でも早く見つけたいと思う気持ちは誰も同じなのだろう。
栄一もテニス界では名の知れたところもあるが、一般目線ではさほどでもないことが今日の2人にとっても幸いなこと。もっと結果を出してメディアへの露出が多くなれば、こんな人の多い場所でこそサングラスや帽子などでひた隠すことも必要、だが自惚れることもないが、現状はその心配はいらなそうだ。
日陰から外に出ると日差しの強さと明るさでハレーションを起こし色のメリハリが少し鈍く感じる。
栄一は約束の時間15分ほど前にここに到着した。
「お目当て」の相手を探し辺りを見回すと、同じようにキョロキョロと落ち着きなく栄一を探している1人の少女を直ぐに見つけることが出来た。おとなしく爽やかな淡いイエローをベースに小さな花柄のワンピースが彼女によく似合っている。
2〜3秒遅れて私に気が付いた彼女は、少し目を大きくしてニッコリ笑った笑顔がとても可愛い。そしてちょっと早足で私に近寄る。
堀内 彩(ほりうち あや)
栄一の所属するテニスクラブのスクールに通うこの春、多摩川大学に進学したちょっとおてんばなお嬢様。
「自然」とは言えない流れだけれども、なぜか彼女の一方的なワガママの申し出から栄一がアイスクリームを食べに連れて行くことをテーマにデートすることになったのだった。
とは言うものの、栄一もまんざらなこともなくこの日この予定を楽しみにしていた。色褪せたブルーデニムのジーンズ、白いTシャツに白いデッキシューズ、シンプル極まりないが栄一の日に焼けた褐色の肌にこちらもよく似合っていた。
「こんにちは。」
手に持つ編み込みのバックが夏らしい。
「こんにちは。早いね。」
「いいえ、今来たばかりですよ。」
と言いながらハンカチで軽く汗を拭う彩。
「暑いね。」
栄一も額の汗を手で拭う。
「はい。だからきっとアイスクリーム美味しいですよね!」
パッと華やかに花咲いたような笑顔が眩しいほどだ。
「間違いなく美味いから。」
珍しく少し緊張気味の栄一。。
駅から向かいの通りの横断歩道に彼女を促し、道を渡って表参道へと足を向ける。いよいよキックオフである。歩きながら何を話したらいいのか考えている栄一に、
「今日は来てくれて本当にありがとうございます。私、楽しみで楽しみで昨日は寝られなかったです。」
いきなりこんなに感謝されてしまうと恐縮して会話のテーマのハードルがさらに上がってしまったように思え、嬉しさとざわざわした感情に戸惑う。
「えっ、それならコーチと同じじゃん。コーチも昨日は寝られないくらいに今日のこと考えちゃってたから。」
調子を合わせてみた。すると、
「本当ですか〜?私に合わせてません?」
バレていた。良くも悪くも栄一は嘘が下手だ。
青山通り沿いにあるアイスクリームショップへ久しぶり足を向けている。以前は試合や部活帰りに級友たち男の集団で、似合わぬ場所に似合わぬ顔がずらずらと。なぜか気の合う仲間たちには甘党が多い。でも今日は私の横にとても可愛らしく、少し照れながら同じ歩幅で歩いている彩がいる。このシチュエーションには「メロディーフェアー」の旋律がとても似合いそうだ。気弱でおとなしいダニエルはメロディーとの出会いで一つ大人になれる。学校帰りに彼女の手を引き車道を走り渡るシーン、交通整理の警官に注意されながらも車を止めて誘導してくれる優しさに微笑んだ。とは言ってもここにいるシャイな2人は、まだ手を繋ぐような仲ではないけど。それでも…
(そう、少し顔を横にすれば…)
必ず視界に入ってくる場所に彼女の澄み切った瞳の笑顔がそこにある。試合での緊張感とは別のものを感じる栄一は何故かいつもよりも少し固くなっていることに再び気付く。
大通りを走る車たちのエンジン音とクラクションがさほど耳障りにならない程度の交通量も今日は心地よい。初夏の風が優しく彼女の髪を躍らせている。
表参道を登り246号に出て外苑方面へ向かう。青山3丁目の交差点を渡った正面にその店はある。
大きなガラス張りと大きな金色の取っ手の開き戸を押し開けると、店内は白と赤を基調にアメリカナイズされた装飾がまた気分を盛り上げてくれ、BGMに「ボーダーライン」がかかっている。
数ヶ月ほど前に日本のアイスクリーム業界に参入した「ハーゲンダッツアイスクリーム」の1号点がここにある。日本のアイスクリーム業界と言ってもこの時代、名の知れたアイスクリームブランドと言えば「レディーボーデン」くらい、パイント(丸い箱)に入ったパッケージが訳もわからず「美味い」と信じていたものをハーゲンダッツの出現により、本当の美味しさを実感してしまった瞬間からその揺るぎなかった牙城は脆くも崩れ去った転換期でもあった。
個人的には「抹茶」が好物だが、クッキー&クリームやストロベリーも間違いない。しかし最初に食べて欲しいのはバニラ。マダガスカル産のバニラビーンズの香りを知ってしまうと、他店のものとは一口食べるだけで明確な違いを感じられるだけではなく、全く別物のバニラアイスであることを知ることになる。濃厚でいながら後味がさっぱりしていてどんなトッピングにも合うテイストに仕上がっている。
何を食べていいのか迷っている彼女に…
「全部美味しいから大丈夫だよ!」
わたしを見つめて少し微笑む彼女。
「じゃコーチに任せます!」
「OK!嫌いなものはある?」
少し考えてから…
「嘘をつく男の人…」
これは意外な回答だが可愛い顔をして旨いことを言う。思わず私も歯を溢した。少し笑みを含めながら、
「コーチは自分よりもテニスが強い女の子は苦手。」
少しキョトンとした表情の彩が、
「そんな女の人っているんですか?でもそれ、なんとなく分かるような気がします。」
(彩はどう理解したのだろう…)
冗談で言ったつもりが分かってくれたことも不思議に感じた栄一。
「話を戻そう。アイスとトッピングの話だよ!」
「冗談です。アイスクリームで嫌いなものありませんよ。」
「今日は最初だからバニラを食べてみなよ!ここのバニラ、他のとは随分と違うんだ。きっと気にいるはず!」
「はい!」
そんな私たちのやりとりを見て注文を待っていた前髪をヘアピンで止めたアルバイトの女の子、2人の会話に合わせて頷きながらニコニコ。制服の赤が彼女の少し日焼けしたソバカスの笑顔によく似合っている。日に焼けた顔や肌を見ると、どうしても「テニスをしているのだろうか?」といつも思ってしまう。
「抹茶とバニラをそれぞれシングルで。」
「はい。コーンにしますか?カップにしますか?」
その問いに彼女の方を向くと、
「私はカップでお願いします。」
「じゃ2つともカップで。」
BGMがカーペンターズのPOPな曲に変わった。
前髪の女の子は、真っ白な歯を見せながらにこやかに笑って了解を頷き、ディッパーに力を込めアイスクリームを作り始めた。その姿勢はスタイリッシュで彼女の小柄な体型からは想像出来にくいほど力強かった。そしてカップに入ったアイスクリームは思いのほか大きかった。するとじっと見つめている私たちに向かって、
「サ・ー・ビ・ス」
と、声を出さずに口パクで言う彼女が少し大人に見えた。私も彼女にウインクしながら軽い笑顔を作った。
会計を済ませ店内をグルっと見回したものの、イートインスペースは先客たちがほとんどを占めていたので、
「歩きながら食べよう!」
彼女を外に促すとニコッと笑った。
早速、木ベラのような例のスプーンで、彼女は一掬いのバニラアイスを口に運ぶと、その表情はまるで一瞬で花開いた向日葵のよう。
「美味しい!凄く美味しい!ホントに美味しいです!」
「でしょ。よかった!嘘ついてないでしょ!?」
「はい、だからコーチのことは嫌いではないです!」
先ほどのやりとりが蘇り吹き出しそうになったがここは、
「ありがとう。」
と少しだけ笑ってみせたが、その笑顔ほど余裕もなく少しだけ心臓の鼓動が大きくなった気がした。
「とてもいい天気ですね。」
「そうだね。気持ちいい。」
お互いが意識し始めた間柄となると、自然と言葉を選び過ぎて少なくなってしまうことは若さゆえ必然のようだが、自身自然な振る舞いに少し圧力を感じるのは何故だろう。。
ただ、言葉を交わすことよりも近くに居ることの存在が嬉しいのも不思議に思う。それでも、彩と言う「風」が体の中を吹き抜けていくような気分が新鮮で気持ちいい。
(ひょっとして…)
お互いの気持ちをここで確認することも可笑しいが何も言わなくても、とても居心地のよい時間を過ごしていることに二人とも違いないようだ。彼女のほんのりとした笑顔がそれを表しているように。。
「青山にはよく来るんですか?きっと可愛い彼女さんとかと…」
ここ青山の交差点はアイスクリームを食べながら肩を並べて歩くにはよく似合う場所。少しだけいたずらっぽくなった瞳で彼女が話しかける。言葉以上に魅力的だと思った。そして何より栄一の目には可愛いく映る。
「時々ね。青山って美味しいお店がたくさんあるから。あっ、彼女は今いないよ。」
嘘をついてるわけでもないのに、何故か言い方が堅苦しくなってしまう…。
「ホントですか〜?ちょっと信じられないな〜。」
この言葉は、既に青山という場所に来ることの理由や価値観についてはどうでもいいような意味を含んでいるのだと栄一は察した。そんなことよりも栄一に彼女がいないことが彼女にとっては優先される関心事であるようだ。
「ホントだよ!テニスばかりで好きになる子も出来なかった。あれ?さっき、嘘は付かないから嫌いじゃないって言ってくれた…よね!?」
(信じてもらいたいと思って素になったら、なんかぎこちなく真面目に答えてる自分…。)
「ふ〜ん、そうなんだ…。テニスよりも好きになった彼女さんはいなかったんですか?」
下向き加減から言葉の最後にこちらを見上げた彼女がいじらしい。
この質問には少し考える間を作ってしまったことを後悔したが、彼女の気持ちを思えば即答が望ましかったのだろう。
「うん。テニスが好きでプロになって、どうしたら自分のテニスが強くなれるのかいつも頭がいっぱいで…。ただのテニス馬鹿なんだよね、俺。」
そう彩に言い訳のような大義名分をつらつらと話しながら過去の辛い恋愛を思い出していた。
栄一には以前、テニスを二の次にしてしまうほど盲目なほど好きになった彼女の存在があった。何よりもテニスが好きになり、幸いにも栄一にとってありがたいほどの友人や先輩、指導者に恵まれ、今のレベルまでに上達し結果を出すことも出来た。愚直なまでに練習の虫となることが彼の生き甲斐のようなものだった。にも関わらず練習をすっぽかして彼女に会いに行ったり、彼女のスケジュールに合わせるがために試合のエントリーすら見送ったこともあった。それほど彼女を好きで大事に優先にしていたあの頃を思い出した。テニスと彼女を天秤にかければ、当たり前のように「テニスに重きを置いている。」と言い聞かせる自分とは裏腹な思考と行動にストレスを溜める日々。彼女を失うことを恐れるあまり、いつも自分自身を封じ込めていた恥ずかしい自分。挙げ句の果てには試合に負けても、そんな自分の優先順位であれば仕方ないと本末転倒の自己容認。だがそこまでの思いがあっても、最後には他の男子に魅かれて離れて行く彼女、そして初めて我に帰る。その時栄一は思った…
(もう彼女はいらない。選手を辞めるまでは人を好きにならない。)
全ての恋愛が自分を裏切り破壊的なものではないだろうが、テニスに没頭する「自分」は決して裏切らないと自分を納得させる。テニスにとって邪魔になる存在であることが理由ではなく、好きになってしまい失うことの辛さを受け入れられない自分と、両立が出来ない不器用さは、今の自分に恋愛は不可能であり不必要であると決めつけたあの日。。そんな惨めな恋など二度としたくない。
人を好きになることは幸せになれる反面、想うあまり寂しい時間と苦しさを増やしてしまうこと。それに耐えられないことを知る苦い経験であった。
「彩の彼氏はどんな人?」
こちらはその存在の有無に不安を抱くこともなく、こんな可愛い女子大生であれば当然であり、彼氏のタイプを知りたいくらいの姿勢で気持ちにも余裕があった。突然の振りに少しハッと目を開いて私に視線を向ける彼女のシリアスな表情は美しくも見えた。
「彼氏はいません…」
きっぱりと!というには少し歯切れの悪さも感じる…
「彼氏がいたら今日私はここに来ていませんよ。」
しかし次は胸を張るくらい威勢の良いセリフを笑顔で言い切った。
「ホントに?嘘をついたら嫌いになるからね。」
少し口調を子供っぽく言ってみた。
「嘘じゃありません。」
「だとしたら、多摩川大の男子学生諸君達は何処をみてるんだろう。こんな可愛い女の子を放っておいて…。あっ、ひょっとして彩の理想が超高かったりとか?」
「そんなことはきっとないと思います。私なんか何処にでもいる普通な子、普通以下…かな?」
謙虚さが不自然に感じないのは、彼女がピュアであるからだろう。
「もったいない!俺が彩と同じ大学に通ってたら2日目に告ってるから。それに普通以下なんてことはないよ。間違いなく可愛い方の上の女の子だと思っう。」
通りかかったカフェから栄一の好きな曲が聴こえて来た。「the best of me」。オリビアの透き通った声が今の栄一の気持ちにぴったりで軽く首を動かしてリズムを踏む。
本音を言えたが、不自然にとられていないか少し心配だった。
「またまた。コーチはコーチだから口が上手いですよね!みんなに同じこと言ったりしてませんか?」
あっ、そう来たか。。軽く笑みを含めながら…
「そんなことないよ。面食いのコーチは普通以下の女の子とはアイスクリームを食べにわざわざ青山まで来ることはないから。」
わざとらしいくらいに戯けた口調で言ったがどう受け止められたのだろう。。
それでも彼女の顔が再びパッと明るく広がった瞬間であった。
アイスクリームショップを出ると日差しの強さから、女の子は日焼けを気にするのかな?と思いつつ、小さい二つの影はベルコモンズを左手に見ながら一丁目方面に足を向けゆっくりと歩いていた。信号待ちで手にしたカップに付いた水滴が、やがて道路に滴り落ちて一瞬で無くなってしまう、そんな何気ないシーンがスローモーションのように焼き付く。なぜか時間がいつもよりもゆっくり流れているよう、とても心地良い時間がいつもよりゆっくりと。
「これ食べる?」
自分の持っていた抹茶のアイスを薦めてみた。
「はい、いただきます!」
彩は一掬いして口に運んだ後に、
「あっ、これも間違いなく美味しいヤツですね!」
屈託のない素顔が栄一にとっても最高の馳走である。
「じゃ次の時は抹茶にしなよ。」
「はい!でもお願いがあります…」
アイスクリームスプーンを唇に当てながら、少し照れた顔から出た言葉。
「言いにくいんですけど…、もう一口抹茶食べたいです。」
「いいよ!」
今度は栄一のスプーンで掬って彩に差し出した。彩は一瞬の躊躇はあったが素直にそれに応えた。少し恥ずかしそうな表情が可哀相になったので
「もっと食べる?」
「じゃバニラあげます!」
と言って掬ったバニラアイスのスプーンを栄一に差し出した。
栄一は少し大袈裟に口を大きく開けて、スプーンの根元まで一気に頬張ると、彩は思わずスプーンを離してしまい、栄一の口から飛び出したスプーンを見ながらケラケラと笑いだし
「コーチ〜」
ちょっと照れ恥ずかしい空気を一気に笑いに変えられたことに栄一も満足であった。
アイスクリームの美味しさが援護してくれたのか、会話は思いの外弾んでいる。アイスクリーム以外の好きな食べ物は何だとか、栄一がテニスを始めた時のこととか、彩の家族のことや友達でこんな子がいるだとか…。とてもとてもたわいもない内容の話を自然とキャッチボール出来ていることが楽しくて嬉しくて、デート開始からまだ1時間も経っていないのに、まことしやかに2人の仲は既にフレンドリーで満たされている。
外苑のイチョウ並木は見事なまで緑一色に覆われて、空の青さとのコントラストがまるで絵葉書のように見えたくさんの人たちで賑わっている。
首からカメラを下げた外国人は何処の国からか遥々やって来たのだろう。それでもこの場所は日本国内の観光地で来訪するべき場所の一つと推奨したい。
「イチョウ並木、初めて来ました!思っていた通りとても素敵です!」
素の笑顔がまた広がる。
「僕は二度目だよ。」
カップに残った最後の一口を運びながらそう答えると、
「最初は誰と来たんですか?」
また少し意地悪そうな表情を作りながら彩が私の顔を覗き込む。どうやら彩は私の隣に居るかもしれない女性の影が気になるらしい。
「ここに来たんだよ、試合で。」
と並木の左側の垣根を指差しながら歩み寄る。
「見てごらん。」
栄一はサッと彩の手を引っ張った。それはとても自然に。垣根の間から何面も広がるテニスコートが見え、中では中年層から高齢者たちが黄色いボールを打ち合い、黄色い声がこれまた何度もラリーを繰り返している風景が目の前に広がった。
「去年の夏、試合でここに来た時にイチョウ並木を知ったんだよ。」
本当は誰か女性とデートで来たのかと少し心配になって聞いたのだが、見事に裏切られた回答であった。彩にとってはいい意味での裏切りでもあった。
「そうなんですね。試合は勝ったんですよね?」
少し顔と顔の距離が近いことに気付く。
「負けたよ、二回戦で。」
彩に振り向き軽い笑顔でそう答えると、少し驚いたのか目を大きくしている彩、
「えっ、コーチでも負けるんですか!?」
「負けるさ。コーチより強い選手なんてたくさんいるよ…、いや僕なんかまだまだだよ。」
「レッスンの時のコーチを見ていると、誰よりも強いと思ってました。」
「ごめんね、期待を裏切っちゃって。今度は勝つよ。」
と、そっと言うと…
「そ、そんなことないです。負けてもコーチはコーチですから。」
気を使ったのか少しだけ困った表情で言う彩。
「そ、そんなことないです。負けてもコーチはコーチですから。」
その言葉がなぜか面白くて、彩の言い方を真似して同じ言葉を繰り返してみた栄一に…
「もう〜、なんですか〜」
ボリュームの上がった彩の声。
「言い方が面白く…、いや可愛かったから。」
「からかってます?絶対からかってますよね!」
「うん。からかってる。」
「えっ!?」
「冗談だよ。」
「もう〜」
清々しい空と青々しい銀杏の樹の下で、2人の仲の良い会話は緊張感をかなぐり捨てて余計な気遣いはどこかに忘れてきたようだった。
「みんな上手ですね〜!凄くラリーが続いてる!」
彩はテニスを始めてまだ1年に満たない。栄一のクラスではなくヘッドコーチの秋本のレッスンを受けている。週一回のレッスンだけでは、なかなか上達も難しいところだが、「理由」あってテニスは初めた頃よりも毎週毎週楽しみにしているとのこと。出来ることならば週に2〜3回受講したいと意気込む。だから雨が降って中止になるとかなり落ち込むと。
「秋本コーチはどう?しっかり教えてくれる?」
「あっ、ええ…。」
「なんか不自然な返事だな〜」
「そんなことないです。秋本コーチ、ちゃんと教えてくれますよ。この間…、えっとこれはなんていう打ち方でしたっけ?」
と、頭の上でラケットを振るポーズをしている彩もとても可愛らしい。
「サーブ?」
「そう!それです!サーブを教えてもらいました。」
まるで探していたものを見つけた時のようにパッとした表情が夏の日に映える。
「彩はテニスがどこまで上手くなりたいの?」
銀杏の葉から溢れる日差しで、並んで歩く2人の顔が明るくなったり暗くなったり。。
「ちゃんとゲームが出来るくらい…ですかね。」
ちょっと照れ隠しの笑顔で言った。
「ちゃんと…、もっと具体的な目標にしない?試合に出るとか?」
少し本業の顔になった栄一は語気を強く言ってみたが、もちろんわざと少し大袈裟に、後に笑いに繋げられるように。
「し、試合ですか!?」
今までで一番瞳が大きくなった彩。道路の向こう側に信号で止まっているフェラーリが青に変わるタイミングを待ちわびて空吹かしをしている。青に変わったと同時に腹に響くほどのエグゾーストノーストで飛び出す様はカッコいい。
「そんなの全然無理ですよ!だって私、まだ全然下手だし…」
「だから、目標なんだからまだ先のことだよ。漠然と上手くなりたいとか言っててもゴールが見えないじゃん。」
栄一の顔がコーチになっていることは言うまでもない。
「試合に出ることを目標にして、試合に出るとまた課題が見つかって試合に出たくなるし、もっと意欲が膨らむと思うよ。もちろんタイプにもよるから絶対とは言えないんだけど…」
もっともである。
「出られたらいいですね!」
「そんな他人事のように思ってたら無理だよ。絶対出る!って思わないと。」
いつのまにか温度が急上昇してしまったいるテニスばかな栄一。少し下を向いて考えているような彩の姿…
「分かりました!絶対試合に出ます!」
彩、一生懸命頑張った一念発起である。
「だからコーチにお願いがあります…」
ここもまた勇気を出して言ったに違いないと思ったのは彩の表情から察する。
「僕に出来ること?」
「たぶん…」
「何?」
「えっと、コーチのクラスに入れてください!その方が上達の度合いとか、必要なこととか、何をやったらいいのかとか、色々コーチに教えてもらえて…」
なるほど。
「いいんだけど、彩が言ったことはどのコーチでも普通にレッスンで心がけてない?」
わざと意地悪に言ってみて彩の表情をみてみた。
「それはそうなんですけど…、なんていうかその…、コーチが見てくれた方が試合までにあとどのくらいか、何が先に出来なければとか、ここはしっかりとか分かるじゃないですか!」
必死感すら感じるがとても一生懸命に説得している。
「なるほど。それは納得!」
完全に上から言っているが、わざとである。
「ほんとですか!?じゃコーチのレッスン受けてもいいですか!?」
「もちろん!welcome!ただし厳しいから覚悟しててよ!」
「はい!」
子供が一番欲しかったものを手に入れた時のように喜んでいる彩に、
「彩が俺のクラスに入って、試合に出るという目標が出来て、厳しさにも耐えて頑張る以上、俺にとっての目標も合わせて設定しようと思うんだけど…」
栄一はわざと少し声を低くしてそして偉そうに、
「時期を決めて俺と一緒にダブルスの試合に出よう。そして優勝しようと思うんだけどどう?」
ポカ〜んと開いた彩の口がまるで漫画の1カットのようだ。
「それ…、本気ですか?」
「うん」
「…」
「嫌?」
「嫌だなんて…。でも目標が大き過ぎて…。」
それはまるでお通夜の席にでもいるのかくらいに彩の声は蚊の鳴くようなほど小さいものであった。
「大丈夫だよ!もし優勝出来なかったら、また練習して次は優勝ってことで!」
レッスンでの会話のようだ。
「はい…、頑張ります…」
また蚊が鳴いている。
「彩!どうした?」
と、栄一は背中を軽く叩いた。彩は少しうつむき加減の姿勢から面をあげて、
「私、頑張ります!頑張りますから、もし上手く行かなくても怒らないでください!お願いします!」
決意表明を訴える彩は、素直で実直な子なんだとあらためて知る栄一であった。
「怒らないよ。そんな顔で言われたら怒れる訳ないじゃん。」
「あっ、コーチ優しいです。」
「優しくなんかないから。彩が本気になった時きっと厳しい俺が登場すると思うけど。」
栄一は、いつか彩と組んだミックスダブルスに出ている光景を思い浮かべてみた。そして通りの向こう側で二頭の子犬を散歩する女性が、やけに太っていることも気になり目を奪われる。
「一緒に頑張ろう!」
栄一はあらためて彩の瞳を見つめながらしっかり言い、右手を差し伸べ握手を求める。
「はい!お願いします!」
彩も栄一の目を見ながら、少し恥ずかしそうにではあるが右手を出してそれに応える。栄一はわざと少し強めに握り締めると、
「あっ、頑張ります。」
と、少しびっくりした表情を見せたが恥ずかしさと嬉しさが入り混じっているようだ。
銀杏並木から青山通りに戻り、表参道方面に向けてゆっくり歩く2人の影の隙間が狭くなっているように思える。通りに建ち並ぶビルやお店に由来する自身のキャリアを自慢話にならないように気をつけながら栄一は語った。この店のクラブハウスサンドは最高であること、高校生の頃、この店のボタンダウンシャツを買うためにバイト代をつぎ込んだこと、時々このバーに仲間達と集まること、などなど。彩はまだ10代、お酒を飲みに行くことは無く、いつかお洒落なお店でカッコつけてお酒が飲みたいと話す。
「ダブルスの試合で勝ったら祝勝会をこの店で乾杯しようよ。」
「本当ですか!絶対ですよ!絶対約束ですよ!」
彩の声がまた少し大きくなった。これもまた素直な感情表現になるのだろうと栄一は思った。
「うん。でも勝った時の話だから、負けてるうちは来られません。」
「そう…ですよね…」
「でもきっと来ると思う。僕たち2人でね。だって俺テニス強いから。」
「うわっ、コーチかっこいい!でも子供みたい。。」
彩にとって栄一の意外な部分を垣間見た瞬間だったようだ。
「子供でもなんでもいいんだけど、彩とここに来たいと思うからだよ!ここのピザは本当に美味いんだよ!」
「じゃ絶対勝ってください…、あっ違った…、絶対勝ちましょうね!」
他力本願ではなく自分の力も合わせて勝つことを自覚したらしく、彩は言葉を選びなおした。
彩はこの時にふと思ったことがある。今日ここまでの会話で、この先栄一との時間がいくつか約束されたということなのだろうかと。。
(そう、そうなのだ…)
と気が付き思わず笑顔が溢れてしまったが、その顔を栄一に見られたらマズイと思って必死に隠そうとする。それでも顔を横に向けることが精一杯であった。そんな彩を見て、
「どうした?」
「なんでもないです。。」
そう言いながら、彩は頭の中でいくつもの「青写真」を思い描いていた。
栄一はふとあの日の出来事を思い出していた。
レッスンで的当てに当たらなかった彩が、「アイスクリームを食べに連れて行ってほしい」と言わなければ今日の日のデートは実現していなかった訳だし、たまたま代行で入ったレッスンで初対面(?)の生徒から申し出を受けるなんて、彩は人見知りをしない性格なのかなとも思っていたが、ここまで一緒に過ごしてみて素直で嘘をつけない、不器用なまでに感情が表情に表れるいい子なんだと。栄一も今の時間が心地よく思う反面、彩が飽きてしまうのではないかと心配しながら余計な気を使ってしまっている。
(あの時の彩の勇気に感謝…)
会ってから2時間ほどの時間が過ぎた。
原宿駅から青山通りに抜けてハーゲンダッツに立ち寄り、外苑の銀杏並木を通って再び青山通りを通って表参道に戻ってきた。
「歩いてばかりでごめんね。面白くないでしょ。。」
栄一は少し気になったので言ってみた。
「全然面白くないなんてないです!コーチのこととかたくさん聞けて全然楽しいです!」
「よかった。お腹は空いた?お昼にしてはだいぶ遅いけど、夕飯してもだいぶ早いよね!?」
実のところ、栄一もこれから何処に行って何をしたらいいのか、食べることくらいしか興味のないタイプだけに気の利いたデートプランは未完成のまま。
本日のメインイベントであるアイスクリームを食べてしまった以上は成り行きでその場で決めようと思っていただけに。
「コーチ、お腹空きましたか?コーチに合わせます!」
「うん。実はペコペコ。」
「じゃ早めの夕飯にしましょう!」
栄一の行動可能なジャンルに決まったことはラッキーであった。
「何が食べたい?好きなご飯は?」
「特別辛いものでなければ好き嫌いはないです。コーチお勧めとお任せで。」
「う〜んと、じゃ三択だよ。」
近くの美味い店を思い出して三軒のお店が思いついた。
「ハンバーグ…、パスタ…、豚カツ…」
栄一は彩が選ぶのは第1候補がパスタ、次がハンバーグ、豚カツはたとえ食べたくても最初のデートでチョイスするのは女子的にどうだろうと踏んでいた。
「う〜ん、全部魅力的なメニューですね〜」
考えるのに足を止めて腕組みをしているのは本気で悩んでいる証拠のよう。笑顔がとても魅力的な彩だが、少し悩んでいる時の表情も凛々しく素敵だなと思った。
「決まった!豚カツでお願いします!」
予想は大きく外れた。が、栄一は当然のように頷き表参道から横道に入った。この辺りで有名な豚カツ屋さんと言えば、言わずとも知れた「まい泉」がお勧めだ。「箸で切れる」をキャッチフレーズに肉の美味さと柔らかさはもちろん、店舗が以前大衆浴場(銭湯)だった場所を改築したため、店内至るところに風呂屋の名残りがあるので初めて来た客には斬新かつ新鮮なビジュアルである。
そんなクダリを説明しながら席に着き、メニューを見ながら、
「ここは私が自分で決めます。」
ひょっとすると豚カツには拘りがあるのかな?と思った。
「黒豚のヒレカツ定食にします!」
ナイスチョイスである。
店員を呼び、
「黒豚のヒレカツ定食を2つお願いします。」
合わせた訳ではなく、もともとこれにするつもりであったが、
「あれ?合わせてます?」
「うん。彩と一緒がいいから!」
ちょっと嘯いてみた。
「またからかってます?」
彩の目が少し細くなる。
「うん。」
少しため息を吐く彩。
「コーチの性格が少し分かって来ました。あまりいい性格じゃないのかも…」
「そうでもないよ。優しいところもあるし、浮気はしないし、困ってる人を見たら助けるし、好きになった人は絶対大切にするし、テニス頑張ってるし…」
栄一はまた少しふざけた口ぶりで話し続けた。
「本当だ!そこまで言えれば大したものです。コーチはきっとモテてモテて大変ですよね!?」
彩も少しふざけた口ぶりで言った。
「からかってる?」
「はい!」
あらためて、いいキャッチボールが出来る仲になれたと感じた。今日、初めて彩との時間を過ごしているのに、まだ会って数時間しか経っていないのにその存在は既に栄一の心の中の空いた場所を埋め始めている。それはまだ未完成のパズルに無邪気な彩の笑顔を形作るピースが一つずつ当てはまって行くかのように。栄一はどんどん彩の波に飲まれ引き込まれてしまっていることを実感していた。それは少しだけ息苦しささえ感じるほどざわざわとした胸騒ぎ…。
(彩…)
そんな栄一の感情など知る由もない彩はよく食べる。ヒレカツ定食をペロリと平らげ見ていて気持ちのいい、それでいて上品な食べ方であった。
「美味しかった!」
彩の満足そうな顔は見ていてこちらも気持ちいい。
店を出て、
「コーチ、お願いがあります。」
お願い事をする時、そう、アイスクリームを食べに連れて行って欲しいと言った時の彩がまた現れた。
「ん?」
「またここに来ましょうね!」
この時の笑顔は100点満点で150点の笑顔、破壊力抜群、完全に胸を撃ち抜かれた気分だった。
しかし冷静を装い、
「OK!」
栄一は小さく右手の親指を立てて応えた。
少し陽の傾いた表参道は、お洒落に身をまとった若者たちで相変わらず平日でも人混みが絶えない。
栄一と彩は原宿駅の方向に向け坂を下る。途中、セントラルアパートの中にある雑貨屋を見つけた彩が寄りたいと言ったので、アンティークの扉を開いて招いてみせた。店内は所狭しとたくさんのが輸入雑貨が陳列され、彩のみならず私にとっても関心のあるものが目立つ。彩は無造作にカゴの中に入っている髪留めが気になったらしく色々手に取って楽しそうに見比べている。その中で赤いカチューシャタイプのものを頭に当てがい、少し笑みを浮かべて私を見る。
「これどうですか?」
「うん、彩らしい!よく似合ってるよ。」
「ホントですか?適当に言ってません?」
自分の姿を鏡に映しながら、少し左右に体を動かして自身で確認している様子は、やはり普通のお洒落が気になる女の子だ。
「じゃ、こっちはどうですか?」
次は黄色いリボン型の髪留めを少し大袈裟なリアクションを加えて私にアピールしている。
「うん。間違いなくさっきの方がいい!」
彩は先に手にした赤い方を再び手にとって値札を見ている。
「これ買おうかな〜」
「他のもよく見てからの方がいいんじゃない?」
店内に入ってまだ5分も経っていないので、もう少し考えてから決めることを促した。
彩は返事はしたものの、お気に召したカチューシャを右手に持ったまま店内を見て回った。
グラスやコップを手に取り、
「コーチはこれで何を飲むイメージですか?」
少し重厚感のあるガラス製のグラスを持って私に差し出した。
「これはもちろんアイスコーヒー、コーラ、牛乳も合いそうだな!」
これに似たグラスが家にあることを思い出していた。
「だいたい私の発想と同じですね。あと、おはようの野菜ジュースとか、ミキサーで作り立てを。」
栄一は親指を立てて応えた。
店内もまあまあ人が入っていて、見て回るだけでも人を避けながら動かなくてはならない。一通り見回して、彩はやはり最初に手にした髪留めを買うことに決めたようだ。
「じゃ、それ貸して。」
栄一は彩にカチューシャを渡すように促した。
「えっ?」
「今日の記念に僕からのプレゼントだよ。」
「えっ、いいですいいです。そんなことしてもらったら大変です。ご飯だってご馳走になってるのに…」
彩は慌てながら自分のバックから財布を出そうとしているので、栄一は少し強引にカチューシャを取り上げて、
「彩は素直にコーチの言うことを聞けって。いつもの笑顔でありがとうございますって言えばOKなんだよ!」
さっさとレジに進み会計を済ませ、店名の入った包装紙に包まれた髪留めを彩に差し出した。
「ありがとうございます。。」
だいぶ固い表情のお礼に対して、
「ダメ、いまのは20点。いつもの笑顔は最低でも100点。嬉しい時には素直に嬉しいと思えばよいいじゃん。」
彩はあらためて、
「ありがとうございます!大事に使います!」
今度はいつもの100点、いや120点の笑顔がまた炸裂した。店を出てもまたお礼を言ったのは栄一にとっても嬉しい反面、彼女が気にし過ぎないか?自分のでしゃばりが過ぎた?かと少し気にかけ、栄一は彩が感謝と恐縮でリラックス出来ないと思い、気遣ってお店を出て直ぐに話題を切り出した。
「彩の好きな男の人?男の子?はどんなタイプ?」
突然の問い掛けに我を忘れたような表情の彩。
「えっ、突然ですね〜」
少し焦ったのかもしれないが、一瞬で先ほどの空気を変えられたことは申し分ない。
「優しい人がいいです。」
(俺、たぶん優しい。)
「優しければ誰でもいいの?」
「そんなことはないですけど…。優しくて頼り甲斐のある人。」
(頼り甲斐…汗)
あまり具体的な回答ではなくイメージが湧かないので、
「芸能人とか俳優だったら誰が好き?」
「桑田さんです!桑田佳祐さん!」
これには、右向けと言われて左に向いてるほど予想外であった。これもまた勝手な思い込みだったのだが、いま目の前にいる彩はとても可愛くて美人の域に入るレベルの女性と評価していたからこそ。可愛くて美人が桑田圭祐を選んではいけないとは思わないが。。彩は見た目の良さよりも内面重視であること…、
(えっ、俺は…?…、まっいっか。)
「サザンとか、桑田佳祐の曲が好きとかじゃなくて?」
「もちろん曲も大好きな曲たくさんありますよ。でも桑田佳祐さんが大好きなんです!将来、結婚するなら桑田さんがいいと思ってるんです。」
彩の声が少し大きくなって、それが言っていることの信憑性を高くしていることに栄一は少しヤキモチを焼く。
「ちょっと意外…、だけど桑田さんて人としてもいいイメージあるよね!カメラのフイルムのCM…」
栄一はそのキャッチフレーズを少し桑田さんの表情を真似ながら、
「恋人が、もし子供の頃の写真をみせてくれたら、その人は大丈夫!」
「そうそう、それですそれ!その感じのイメージなんです! 、私の桑田さんは!」
彩のテンションが上がったことはとても良かったと思った。
それからサザンや桑田さんの曲について何が好きだとか、どのフレーズが好きだとか、だから湘南は憧れの場所だけどまだ1回しか行ったことがないことも話してくれた。彩はとても楽しそうに嬉しそうにはしゃぐように話し続けた。話し続けた彩が少し疲れたのか言葉が止まったことを感じたが栄一も少しだけ黙っていた。彩に休憩時間を少しだけ。
2人の歩調が当たり前のように同時進行して並んでいるので、これで手を繋いでいれば普通に恋人に見られるのだろう。そんなことを前だけを見て考えていた栄一。世界的に有名なおもちゃ屋さんを左手に見ながら、この辺りも年中海外からの観光客が多い場所だけに行き交う外国人の顔を何気なく眺め歩いていた。
やがて表参道と明治通りの交差点の手前まで来た辺りで栄一が話し出した。
「ところで彩、一つ聞きたいことがあるんだけど…」
要らぬ緊張を与えないよう、さり気なく栄一が彩を見ながら話し出す。
「何ですか?何でも聞いてください。」
自然な笑顔が眩しいほどに。
「なんで彩は、あの日コーチに今日の日のリクエストをしたのかなって。だって、あの日初めてコーチのレッスンを受けて初めて話したのに、彩って積極的な女の子なのかな〜って。」
ふと見上げれば、真っ青な空に横一文字の飛行機曇がビルとビルをつないでいるような絵になっている。
「それは…。」
彩はうつむきながら、
「お話をしたのは初めてなんですけど…。」
何かを迷っているような表情にも伺える。栄一はあえて言葉は出さずに彩のペースを待つ。
「白状します!私、少し前からコーチのこと隣のコートから見ていて、カッコいいな〜って。」
彩の顔は日に照らされているのか恥ずかしさからか赤くなっている。
「おいおい。照れるじゃん。」
「照れてるのは私の方です。」
お互いが顔を見合わせて、お互いが相手の言葉を待っている瞬きを二回くらいするこの時間。栄一がニッコリ笑うと彩もニッコリ笑う。
「いきなり俺たち仲良しじゃん。」
既に「いいカップル」として成立しているように見えるがそれぞれの本音は…。
陽は傾いて、道路に伸びる人影が一段と長くなったと感じた頃…
「これからどうしようか?もう歩き疲れ…」
と言いかけて何故か不自然さを感じて隣に目をやると、そこに彩の姿はなく振り向くと5メートルくらい後ろでうつむき立ちすくんでいる彩。通りすがりの女性が気になったのか振り返ったのが見えた。
歩み寄った栄一は、
「どうしたの?」
顔を上げた彩の目が潤んでいることに気がつく。今にも涙が溢れそうだ。
「どうしたの?」
2人の横を何人もの人がひっきりなしに通り過ぎる。ぶつからないのが不思議なくらい巧にすり抜けて行くような人もいる。
「なんで泣いてるの?俺のせい?」
少しうつむいた瞬間、遂に大粒の涙が地面に落ちた。涙がアスファルトに到達するまでの時間が長く感じた。
「コーチのせいじゃないです。」
涙声だが、しっかりと言った。
「私…、コーチに嘘を付いてます。」
なぜか驚くことはなかったが、どんな嘘なのかは直ぐに気になっていた。
「何?でも話したくなかったら話さなくてもいいよ。」
栄一の素直な気持ちだった。
「私…、彼氏がいないって言いましたけど…、本当は居るんです…、ごめんなさい、ごめんなさい…」
何粒もの涙が彩の頬を伝って落ちて行くのを見て栄一は切なくなり謝らないでほしいと思った。
「うん」
「でも…、今日は…、コーチと一緒にいたくて来ました…」
「うん」
「もっと一緒にいたいです…」
「うん…」
とても驚いた。初めてのデートで会ってからまだ4時間くらいしか時間は経っていないのに。
栄一も1時間毎にどんどん彩に惹かれていたこと、気がつけば栄一も彩との時間を求めて勝手にダブルスの試合出場を理由にしていたり、再びこの店に訪れる約束を受け入れていたり。。可愛くて、美人で、素直で、そして私のことを好きでいてくれると言う。。
「コーチも彩のこと…、もちろん好きだよ。好きになっちゃったよ。」
この時、少し遠くで雷が鳴ったような気がした。
「好きって…、好きってどの好きですか?」
栄一は頷きながらその通りであると思った。好きにもいろいろある。今の栄一が彩に思いを寄せるのは「どの好き」なのだろうか必死に考えていた。だが、よく分からなかった。ただ、彩と一緒にいたいと思う気持ちは素直に頷けたので、
「彩と一緒にいたいって気持ち。」
今度ははっきりと雷がゴロゴロと鳴った。
「本当ですか?」
そう言いながら彩の瞳からは止めどもなく涙が流れて行く。
「うん。一緒がいい。」
そう言って左手で彩の手を握り締め、右手で涙を拭ったのだが、こんなことになるならハンカチを持ってればよかったと。。彩も手をしっかり握り返して来た。歩き出した2人の手は繋がれて、数分前の2人の間にあった距離が今は隙間すら無くなり行き交う恋人たちと同じものになっていた。
栄一は考えていた。
(好き…なんだ、きっと彩が好きなんだ。)
もし彩への気持ちが本当に彼女のことを必要とする「好き」だとしたら…。まだ整理のつかない思いを巡らせながら、先ほどよりも少しだけ強く握りしめた彩を持つ右手が栄一の本心であることにまだ栄一自身が気が付いていなかった。
(彩の気持ちを素直に喜ぶことを戸惑っている自分。)
過去の恋愛で不器用過ぎて自分が潰れてしまったことを思い出していた。今回は同じ間違いを起こさないように選手としての自分と、彩のためそして自分のために彩の隣にいることを両立させられるのだろうかと。
(近いうちに彩にも話そう、過去のこと。そしてこれからのこと。)
彩を大切に思えばこそ、テニスをないがしろに出来ないこと…、彩は受け入れてくれるだろうか。。
ポツリと雨が肩に落ちた。夏の雨はいきなりだから早めに避難しようと彩の手を引いて走り出した。それは、これから長い時間を2人で共に走っていくスタートのよう、ダニエルとメロディーがトロッコを漕いで新しい2人だけの道を駆け抜けて行くように。。
やがて、雷鳴が轟き土砂降りの雨が原宿の街と「一つ」になった二人を包んで行った。
When you wish apon a star...
僕たちの素直な気持ちを
誰にも邪魔されないように
誰にも汚されないように
重なり合った大切な思いと
繋ぎあった温かい手と手を
永遠に雨のベールにいつまでも守られて
思い出はいつも雨の中
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