第4話 踏破

 世の中には想像もつかない事が溢れている。

 そんな事は新宿に大穴が開く前から知っていたが、慣れるかどうかは別問題だ。


 大概の物事はどうでもいいと思っている俺だが、このニュースにはさすがに驚いた。ゆきも驚いているようだが、それは純粋に妹の名前が出てきた事に対するもので、事の重大さが分かっている訳じゃあ無い。


 西新宿の黒姫。彼女は史上初めて、複数の世界を国家として治めた女王だ。無数に拡がるこの世界のうち、およそ四百の世界の西新宿を中心とした地域が、彼女の支配下にある。

 穴が開いた直後の混乱期に、全く未知の世界に侵攻した彼女を無謀と言う者も多い。だが彼女はその博打に勝ったお陰で、複数世界に領土を持つ事に成功したのだ。

 もちろんまだ揉めている土地も多く、決して磐石とは言い難いがそれでも血液生命体カテゴリB、所謂吸血鬼だ——の圧倒的な戦闘力と支配力を活かしたその統治は概ね安定していた。


 そんな彼女が今ここで彼女が退位すべき合理的な理由が見当たらない。

 しかもその相手が木嶋香織? ナンセンスにも程がある。


「……梶さん、このニュース、信頼できるものなんですか?」


 流石に複雑な事態に慣れてきたのか、それとも妹の事だからなのか。彼女の瞳には全てを見透そうとするような、理知的な光が見てとれる。


「ああ。このニュースに間違いはほぼあり得ない。未来視によって確定した事象を流しているからな」


「……よくわかりませんけど、間違いないと思っておきます。じゃあ黒姫という方について伺ってもいいですか?」


 どうやらまともに話が出来るくらいの冷静さは取り戻したらしい。大したもんだ。俺は黒姫について、自分が知る限りの情報を伝える事にした。


「——それは、おかしいですよね」


 そして彼女が導き出した答えも俺と同じものだった。どこの世界に誘拐してきた相手に全権を渡す誘拐犯がいるというのか。

 黒姫に自分から権力を渡す理由が無い以上、考えられるのは木嶋香織自身もしくは第三者による政権の奪取ということになるが、これも考えにくい。

 木嶋香織はただのアナウンサーで、金や権力、能力ちからを持っている訳ではない。

 となれば考えられるのは第三者による干渉だが、仮にも一国の頂点の地位を簡単に奪い取れるとは思えない。大昔ならともかく、今のシステムは個人が簡単に地位を譲りたいと言って譲れるようなものでは無い。

 ましてや血液生命体カテゴリBの社会は完全なる縦社会であり、謀反など考える事も出来ない。つまり、どう考えても辻褄が合わないのだ。


「まあここにいても仕方ない、一旦帰ろう。なに、近いうちに比丘尼がなんか情報持ってくんだろ。俺の方でも裏を取ってみるから、ゆき、お前も帰って寝な。ひっでー顔してるぞ」


「……なんか、扱いが変わってません? まあいいですけど。じゃあ、必ず連絡くださいね」


 ぷっくりと頬を膨らましながらも彼女は帰って行った。こっちの扱い方は変わったかもしれないが、彼女自身も変わったことに気付いてるのかね。当初だったら絶対噛み付いてきただろうに。


 地上でゆきと別れ、事務所に戻ってきた時には辺りはすっかり夜の喧騒に包まれていた。

 新宿が迷宮に変わっても、人の営みはそうは変わらない。

 世間を揺るがすようなニュースがあったと言っても、それは向こう側の話であってこちら側には関係が無い。

 普段なら後は比丘尼に任せてビールでも飲んで寝ちまうんだが、今回はそうもいかない。


 何故なら世界最高峰の情報屋にも、弱点があるからだ。

 それは情報の即時性と言えば分かるだろう。一分一秒を争うような場面では、俺の所まで届いた時点で、それは使い物にならない古い情報になっている可能性が高い。


 つまりこういう何が起こるかわからない状況では自ら乗り込むしか手は無いって訳だ。


 俺は小さく溜息を吐くと、侵入のための準備を始めた。


✳︎


 五時間後、164892ブランチ、千ニ十六層の西新宿に俺はいた。時刻は既に十二時を回っている。

 こちらの新宿は、俺の知っている新宿とは全く異なる様相を呈している。


 元は遥かに進んだ文明を築いていたのだろう、そのビル群はより高く、滑らかなシルエットを持っていた。ただ惜しむらくは、その全てが既に廃棄され、歴史の墓碑と化していることだ。


 既にその半ばまで森に飲み込まれ、幾つかのビルは崩れ落ちている。そう、この世界の新宿は既に打ち捨てられているのだ。もちろん世界レベルで見ればまだ生きている者もいる可能性はあるが、少なくとも関東地方で生存者を見つけたという報告は無いらしい。


 何らかのウイルスや放射能、残留魔力や空間の歪みなども検出されず、どうして人類がこの一大都市を放棄したかは謎に満ちている。

 そんなビル群の中でも一際高い、三つの尖塔が絡み合ったような形状をしたビルがあった。それこそが黒姫の居城である紅天ビルだった。このビルだけは唯一明かりが灯り、人の営みを感じさせている。


「さて、ようやくここまで辿り着いた訳だがどーすっかねえ」


 黒姫の支配している世界は、例外的に全てが安定した直通トンネルで繋がれている。いつでも行き来が可能なのだ。

 だがあんなニュースの後だ、当然ながらその全ては封鎖されており、使用することは出来なかった。

 比丘尼からの情報も届いたが「真っ当な方法での潜入は不可能。頑張んな」って、役に立たないじゃねーか。報酬は無しだな。


 結局俺は、俺にしかできない攻略法を取る事にした。つまり十二駅四十一層にも及ぶ新宿迷宮西面を踏破し、ここまでようやくたどり着くことができたのだ。

 何しろ終電の時間には殆どの通路が封鎖されてしまうので正直、危うい所だった。


 そしてここからはまた、違う危機が待っている。それは敵の存在だ。そもそも黒姫がこの世界に居城を定めたのは、地上部に巣食う生物が拠点防衛に有用だからだ。クマやライオンですら捕食するような魔獣達が棲息する森や地下道を抜けなければ紅天ビルに辿り着く事は出来ない。

 そしてビルに入れば待っているのはそれらの魔獣すら上回る血液生命体カテゴリB護衛兵ガードナー達だ。難攻不落にも程があるだろ。


 魔獣はともかくとしても、護衛兵ガードナーは厄介だ。武闘派で名高い黒姫の近衛兵だ。一騎当千の強者揃いな上に、あいつらかなりの割合で能力ギフト持ちだからな。そういえばなんか正式な名前があった気がするな。知らんけど。


 まあこんな所で魔獣の餌になるのも、全身の血を吸い尽くされるのも御免だ、精々抗ってやろうじゃないか。俺は魔獣避けに効果のある携帯式ガス発生器のピンを抜いて地下道を歩き始めた。

 遠くの方で寝ていた魔獣が臭いを嫌って側道に消えていく。ガスの効果は絶大みたいだな。あと三本しかないのが心配だが、まあなんとかなるだろう。


 十五分後、いくつかの回り道を経て、紅天ビルの地下入り口に辿り着いた。恐る恐るビルに入った俺は拍子抜けした。

 中は完全に無人だったのだ。人っ子一人いないとはどういうことだ?


 この世界と異世界を繋ぐ大回廊を護衛兵ガードナーが封鎖していたのは確認している。放棄された訳では無いと思うのだが、ビル内は完全に人払いが為されているらしい。もはや何があったのかまったく理解できない。


 とりあえずビルの最上階だけは確認すべく、俺は非常階段を登り始めた。くそ、まさかエレベーターまで止まっているとはね。もうそろそろこういう肉体労働は勘弁して欲しいんだがな。


 登っていて分かった事がある。ビル上方に何者かがいるのは間違いない。何故なら定期的に何か重いものをぶつけるような重低音が響いているからだ。……やっぱ帰った方がいいのかね。


 そしてようやく、あと僅かで最上階に到達する時だった。


 突如、ビル全体を揺るがすような振動と轟音が辺りに響き渡り、壁面のガラスが一斉に砕けちった。

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