第2話 迷宮
建付の悪くなったガラス戸を押し開き、店内に入る。幸い店内は空いており、二人分の席を確保することができた。
「いらっしゃいませ、ご注文は」
「コーヒー二つ」
「あ、一つミルクティーに変えてください。砂糖は抜きで」
「……じゃあそれで」
俺はついでに灰皿を貰うと、極力彼女に煙がかからないように吸い始めた。今では煙草が吸えるところは少ないんだ、勘弁してもらいたい。
「とりあえず話をもう一回まとめるから、おかしな点があったら言ってくれ」
一週間前、昼の情報番組の取材で新宿に向かったのは三人。アナウンサーの木嶋香織とディレクター、カメラマン。二人は無事に帰っているのが確認取れている。
取材は特に何事も無く終わり(もちろん迷宮に迷い込むことも無く)、現地で解散になった。取材前、二日ほど会社に泊まり込んでいた彼女はそのまま直帰した。
図らずも翌日から連休を取っていた彼女は、これ以降誰にも連絡しておらず、その姿を消した。
それまで三日と空けず連絡を取り合っていた姉のゆきが不審に思い家を訪ねたが、そこには誰もいなかった。
心配になった彼女が、共通の友人に連絡を取ってみたものの誰も消息を知らず、会社に問い合わせても連休中という事もあり、消息は杳として知れなかった。
知人の伝手を辿り、ようやく最後に会ったディレクターに話を聞けたのが一昨日の事。だが彼の話にも何ら手掛かりは無かったと言う。
やむを得ず警察に向かったが、そこでもけんもほろろな対応を取られ、途方に暮れていた所に声をかけてきたのが一人の占い師で、俺の所を紹介した、とこんな感じか。
彼女が頷いている所を見ると、概ね間違ってはいないようだ。
「ちょっと伺いたいんだが、ご両親は健在かい?」
「ええ、おかげさまで」
「じゃあ彼氏はいるのかな」
「あの、誰にも連絡が無いのは伝えましたよね。これって重要なんですか?」
彼女の目に多少の不信感が見て取れる。別に手を出そうなんてつもりじゃないんだがね。
「……迷宮、つまり『向こう側』に行くことの条件の一つに、繋がりの薄さがあるんだよ。世界に穴が開いてるって言っても、誰でも彼でも落っこちるって訳じゃない。人は皆、親兄弟や友人、恋人なんかという他者との繋がりの中で生きている。これが命綱となって普通はそう簡単に落ちたりしないのさ」
目に見えて彼女の雰囲気が変わった。よかった、納得してくれたらしい。
「……つまり迷宮に行けるのは一人ぼっちで友人もいない者ということですか。その『向こう側』について明確な話が出てこないのも納得ですね」
おい、それナチュラルに俺を馬鹿にしてないか。
確かに俺が迷宮の事を声を大にして伝えても世間は信用しちゃくれないだろが、一人ぼっちって訳じゃあない。友人だって多少はいる。見くびらないでもらいたい。悔しいから言わんけどね。
「質問の意味は分かりました。特定の恋人はいなかったようですが、何人か仲の良い仲間はいましたね。私も何度か一緒になったことがあります。両親との関係にも問題無いですし、特に他者との繋がりが薄いということは無いと思います」
「なるほどね。てことは、迷い込んだ線はあまり考えなくて良さそうだな。大体たまたま入ってしまっただけなら、普通は世界との同期が取れず、しばらくしたら戻ってくる場合が殆どなんだよ」
「……じゃあ、誘拐とか?」
「まあ、一番可能性が高いのはそんなとこだな。何の要求も無い以上、営利目的ではなく、何らかのトラブルに巻き込まれたと見るべきだろうな。さ、あとは向こうで調べるか」
俺は伝票を手に立ち上がった。彼女が支払うと言ってきたが、これくらいは良い格好をさせて欲しい。
まあ恐らく、誘拐で間違いないだろう。というか彼女の顔写真を見せられた時からその可能性を一番疑っていた。
✳︎
新宿東口の地下に広がるショッピングモール。
そこに俺たちはいた。
「ここから迷宮に入れるんですか?」
「ああ。ちゃんと着いてこいよ」
そう言って俺は店を巡り始めた。最初に本屋、着物屋、アクアリウムショップと幾つかの店を行ったり来たりと回っていく。十軒を過ぎた頃、彼女がまた声をかけてきた。
「あの、あと幾つ回るんですか?」
全く。十分邪魔しているんだが。置いてっちまおうか。
「……これで最後だ。ほら、見てみな」
俺が指差したのは最初の方に訪れたアクアリウムショップだった。正面の大水槽越しに店内が見て取れる。魚影の向こうに商品棚が見え、さらに奥に反対側の出口が見えた。
それは、先ほどまでは別の商品棚で塞がっていた場所だった。奥まったこの店に反対側の出口など
ぽかんとした表情で水槽を見つめる彼女を促し、店内を抜けて行く。他に客の姿は無く、店員すら姿を消している。俺たちは誰に見咎められる事もなく、反対側の通路に出た。
そこに拡がるのは先程と同じショッピングモールだった。
ショッピングモールに並ぶ店は先程と変わらなかった。唯一異なるのは、店の並びがまるで鏡に映したかのように反対になっていることだ。そそっかしい者なら気づかなくても不思議はないレベルだ。
時折すれ違う人もアルタ裏から入った時と異なり、何処にでもいそうな人ばかりで明らかな人外などは存在しない。案の定彼女も疑問に思ったらしい。
「なんか、さっきと随分雰囲気が違いますね。本当に迷宮でいいんですよね?」
「ああ。ここは地上と
俺の言葉にキョトンとした後、彼女は眉を顰め猛烈に何かを考え始めた。……百面相具合は見てて飽きないな。これでもうちょい静かにしててくれりゃ有難いんだが。
「……あの。さっき、世界に穴が開いたとか言ってましたよね。自由に迷宮に入れたり、さっきの
「俺はたまたま人より、此処について知る機会が多かっただけだよ。迷宮について俺が知ってる事もそんなに無いんだけどな」
「でも、そんな話聞いたことありません。少なくとも私が調べたより、ずっと知っているのは分かります」
こちらが思ったより食いついてきてるな。まあ隠してる訳じゃないし、本当にそんなには知らないんだが。
俺は歩きながら、迷宮について知っている事を話す事にした。
「……世界の、底が抜けたらしいぞ。なんでも、人が一箇所に集まりすぎたらしい」
俺は向こう側で語られる、一般的な話を教えてやった。
それは、なんの因果か重なり合う無数の世界のそのほとんどで、わずか数キロという狭い範囲に多くの存在が集結しすぎたのが、そもそものきっかけだったと言われている。
もちろん世界というものは強固であり、そうそう存在値が高まったくらいで壊れたりはしない。
しかしあまりに長時間、その地点の存在値が異常に高まった結果、世界に僅かながら歪みが生じてしまった。
そして多くの重なり合う世界の一点に歪みが生じた結果、内圧と外圧が同時に高まり世界の耐久度を超えてしまったらしい。
崩壊は多くの世界を連鎖的に巻き込み、結果として世界を穿つ大穴を開けたのだと言う。
人口の密集地で起きたそれは世界に大混乱をもたらし、中には滅んでしまった世界もあった事が後の調査で分かっている。
事態を重く見た幾人かの
だが穴を完全に塞ぐことはできず、また場当たり的に補強した結果、その境界は迷宮のように複雑怪奇に世界が重なり合うことになったらしい。
これが迷宮と呼ばれているものの正体だった。
ちなみに主たる世界間での協定も結ばれ、大規模な侵略などは禁止されている。
当然俺たちの世界もその協定には参加しており、公式に発表はされていないものの、国は事態を把握している。まあ揉めるのは間違いないからしばらく発表なぞしないだろうがな。
「信じるかどうかはともかく、一応これが『迷宮条約』を結んだ世界間での公式発表だよ。もちろん俺たちの所みたいに一般には発表されてない世界も多いらしいけどな」
「…………」
うん、案の定面白い表情をしているな。頭から煙吹いてるのが見えるようだ。こればかりはいきなり理解しろって言っても無理だろうな。時間が解決してくれることを祈ろう。
「……まあ、おいおい分かるさ。さ、ここで情報を仕入れてくぞ」
一軒の店の前で立ち止まった俺を見て、慌てて彼女が追いかけてきた。
そこはあちら側には存在していなかった店だった。入口の大きな布看板には『占』の文字が染め抜かれている。
店内はまるで江戸時代の薬屋を思わせる造りだった。上がり
「おや、久しぶりだね。お嬢ちゃんも無事にそこの昼行灯に会えたようで何よりだよ」
「あの。どちらかでお会いしましたっけ?」
「なんだい、失礼だね。あたしがそこの昼行灯を紹介してやったんじゃないか」
「え。もしかして、占い師のお婆さん? なんでここに? え、でも年齢が……」
老婆の台詞に、彼女はそれが地上で俺の所に行くように指示した占い師と“同一人物”だと気付いたようだ。
まあ地上とは年齢も格好も容姿すらも異なるから驚くだろうな。地上ではローブを纏った老婆だが、目の前にいるのは妙齢の和装美女だし。
「ふふ。女性同士とはいえ年齢なんて聞くもんじゃないよ。ここはあたしの店だからね。ゆっくりしておいき」
旨そうに煙管を吸うその女性こそ、占術師にして迷宮の情報屋。
八百比丘尼と呼ばれる女性だった。
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