迷宮稀譚 〜新宿駅が本当に迷宮になりました〜
篁風凛
第1話 依頼
「妹を探して欲しい?」
木嶋ゆきと名乗る女性が俺の事務所にやってきたのは、夕暮れが夜の闇に呑まれかけた、いわゆる
紺のパンツスーツをパリッと着こなした彼女は、普段なら“できる女”の代表のような顔をして生活しているのだろう。
だが今俺の前にいる彼女は、今にも散りそうな萎れた花のように見えた。
恐らくここ数日はまともに眠れていないのか、目の下の隈は厚めの化粧でも隠し切れているとは言い難い。
「はい。妹はアナウンサーをしており、一週間前に新宿駅の取材に行ってから連絡が取れなくなったんです」
「単に仕事が長引いてるとかじゃないのか? あの業界は激務なんだろ」
煙草の紫煙を燻らせながら仰ぎ見た彼女は、少しだけ迷惑そうな顔をしていた。
やれやれ、頼みにきた手前、文句は言い難いというところか。まあいつか本業のクライアントになるかもしれないし、多少は気にかけるべきか。
デスクに投げ出していた足を降ろし、少しだけ名残惜しさを感じながらも灰皿に溜まった吸い殻の中に煙草をねじ込んで言葉を続けた。
「心配する気持ちはわかるが、なんでもかんでもすぐ新宿駅のせいにするのもどうかと思うがね。迷宮の発見当初ならいざ知らず、今じゃ駅での行方不明者なんて数えるほどなんだぜ」
「あの子は、今まで、どれだけ忙しくても連絡を欠かした事はないんですっ。それが今回に限り連絡が無いどころか、電話も通じません。何かあったとしか思えないんですっ」
今にも掴みかからんばかりに詰め寄る彼女の必死な瞳は、妹を案じる気持ちに溢れていた。思わず気圧された俺に彼女は言葉を重ねてきた。
「皆が口を揃えて言いました。今、新宿駅に一番詳しいのは梶さん、あなただと。お願いです、妹を探してください」
深々と頭を下げるその様子に、さすがに俺も心が揺らぐ。まあ甘いのは自覚している。こういうのを断れるならもっと仕事も上手くいくんだろうが、な。
「…………まあ、手を貸す位で良ければ。ただあくまでも本業の合間でしか動けないぜ。うちは探偵でも何でもないからな」
肩をすくめながら承諾する俺に、彼女は嬉しそうに頭を下げた。やれやれ、照れ隠しだってのはバレバレかね。
俺の仕事場には人影はおろか、各種機器の電源すら落ちており、仕事を行っていないのは明白だったからな。
✴︎
新宿東口、午後三時。
迷宮化の影響で一時は封鎖されたり利用客が激減したりもしたが、それも暫くの事だった。
『やってはいけないこと』が広まるにつれ、新宿は元の喧騒を取り戻す事になった。
いや。元以上、か。
地上を行き交う人々の姿に変わりは無いものの、今この瞬間にアルタの裏側から地下に降りると状況は一変する。
あからさまな異形こそ少ないものの、肌の色や背丈で明らかに異なる人種であろう人々や、およそこれまでに見たことが無い、或いは既に見かけなくなった服装や荷物を持った者達が増えてくる。
ファンタジー世界の住人のような戦士や魔法使いに、ゴブリンなどのモンスター。緑の肌に民族衣装のような服を着た男に、後頭部にも顔のある女性。小人や天使のような姿もある。およそ考えつくあらゆる人がいるのではというほど雑多な人混みがそこにはあった。むしろこれだけの人がいて問題が起きないのが不思議な程だ。壁にも無数の通路が並び、多くの人影が出入りしている。
たまたま俺の後に地下に降りてきたサラリーマンも初めてこの光景を見たのか、呆然としていた。
だが降りてきてちょうど一分後。
世間は元の風景を取り戻していた。サラリーマンが眼鏡を拭いて掛け直した時には世界は元の風景に戻っていたため、首を振りながらも新宿駅方面に消えて行った。
もし脇の通路に進んでいれば、まず戻ってくることは出来なかっただろう。まあもちろん、そうなったら止めるがね。
「今のが、迷宮、なんでしょうか。嘘じゃ無かったんですね。話には聞いてましたが、想像以上に凄い……」
俺の後ろから話しかけてきたのは、もちろん木嶋ゆきだった。
そしてこれが俺が脇の通路に向かわなかった理由だ。
「……あー、木嶋さん。俺は確かに手伝うと言ったが、それは別に仲良しこよしで一緒に探しましょ、なんて意味じゃ無いんだがね」
「いえ、無理言ってお願いしているんです、梶さんのお邪魔はしませんから手伝わせてください」
遠回しに伝えた拒絶の言葉は、彼女の必死な態度の前に砕け散った。何の仕事をしているか知らんが、さぞかし男を振り回しているんだろう。会話から読み取れる彼女の性格からして、ここで帰らせるのは俺にとっては妹を探すのと同じとは言えないまでも、かなり手間のかかることだった。
「あんただって仕事あるんだろ? いくら心配だからってそこまで会社休んだら問題になるんじゃないのか?」
「……あ。すいません、伝えてませんでしたね。私、フリーのジャーナリストなんで仕事はかなり自由になるんです」
しまった。探偵紛いのことをやらされるんだ、クライアントの身元や職業位は確認しておくべきだった。俺は自分の迂闊さを呪いながら自身の敗北を悟った。
「はぁ、仕方ない。その代わり、この先俺の言う事は必ず守ってくれ。あんたも怪我したくは無いだろ?」
「わかりました」と意気込んで応える彼女に、俺は小さくため息を吐いた。
「ちなみにあんた——」
「あの、名前呼んで頂いても良いですか。強制する訳じゃないんですが」
「…………木嶋さん、迷宮のことはどれくらい知ってるんだ?」
苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる俺に気がついているのかいないのか、彼女は口元に手をやりながら考え始めた。
「えーと、ある時間、ある場所を通ると『もう一つの新宿駅』に行けるとか、幾つかのお店を特定の順番で回ると違う世界のお店に辿り着くとか、そういう噂はありますよね。もう一つの新宿駅には人ならざる者がおり、この世界には無い物が溢れているとか……。正直眉唾だと思ってました。いくら何でも異世界なんて、正直さっきの人達を見た今でも半信半疑です」
確かに六本木には外国人が溢れ、ハロウィンなんかにはそれこそ異形が街中に溢れるこの日本で、少々毛色の異なる人物を見た位じゃ信じられないのも無理は無い。
「およそ0.1パーセント」
きょとんとする彼女を尻目に俺は言葉を続けた。
「ここ新宿の昼間の人口が約八十万人。そのうちの八百人ほどが毎日迷宮に迷い込んでは戻ってきていると言われている。もちろん単純な迷子もあるだろうから、あくまでも推定の数だがな」
約十年程前からまことしやかに囁かれてきた新宿駅の都市伝説。
何度通っても同じ場所に辿り着けない通路、来る度に同じ場所のはずなのに立ち並ぶ店舗が全く異なる地下街など、噂には事欠かなかった。
現在地を表示するアプリが出回ってもその状況は変わらず、挙げ句の果てには異世界に迷い込んだなんて体験談がネット上のスレッドにいくつも登場する始末。歌舞伎町再開発により街はますます混迷の度合いを深めていった。
そのうちに本当に行方不明になる者が出てきた結果、新宿駅の一部は封鎖されて調査されたが、何も手掛かりが見つかることはなかった。不安に思った利用者が一時的に減ったのもこの時期のことだ。
そんなある日、新宿駅にその男は現れたらしい。
槇恭一。今では知らぬ者の無いアークヘッズグループの創始者にしてCEO。
彼がとあるインタビューで新宿の迷宮に迷い込み、そこで見つけた莫大な財宝を元にグループを立ち上げたと語った瞬間に状況は一変した。
無数の一攫千金を狙う者達が新宿に殺到したのだ。
多くの怪我人や行方不明者を生みながらも、相変わらずその実態はほとんど解明されなかったが、その後開発されたホログラフィック技術や複数のウイルスに驚異的な効果を持つワクチンは新宿で“発見”されたものだという。
だが依然として公的な機関はその存在を認めず、あくまでも噂の中だけの存在。それが新宿駅周辺に広がる大迷宮だった。
「実際に迷い込む者がおり、持ち帰られたモノがある以上、迷宮は実在する。あん……木嶋さんの妹が迷い込んだかどうかは定かでは無いがね」
口ではそう言いながらも、俺は彼女が迷宮に飲み込まれたことを確信していた。
歩を進める俺に追いすがりながら、彼女は当然の疑問を口にした。
「でもそんなものがあるなら、何故国は認めないんですか? それに今ならGPSでもなんでもあるんです、調査した上で管理すべきでしょう?」
「そりゃ認められないさ。科学ってのはね、再現性を重んじる。さっき自分でも言ってたろ、特定の時間に特定の場所を通って辿り着いた者がいる。だがそれはそういう傾向があると言われるだけで、実際に狙って辿り着ける者なんていやしない。そんなものどうやって認めるって言うんだ?」
「でも、あなたは行けるんでしょ?」
真っ直ぐに俺を見つめるその瞳には、一切の嘘を許さない苛烈さが溢れていた。
「新宿の迷宮は未だ謎に包まれている。だが、一人だけその迷宮について熟知し、あちらとこちらを自在に行き来する男がいる。もし迷宮について困ったことがあったら彼を頼るといい。そう教えてくれた占い師がいたんです。それからあなたの名前を調べたら、いくつも同じような話を聞きました」
「……ちっ、あの婆さんか。ま、いいさ。探しにいくとしようか」
婆さんには借りがあるからな。まあどっちにしろ断れなかったってことか。しかし迷宮に行ける者が他にいない訳じゃないし、俺だって知らないことは多い。えらく持ち上げられたもんだ。
「この時間だと入り口が開くまで少し時間があるな。ついでだ、そこの喫茶店でもう少し細かい話でも聞かせてもらえるかい?」
俺は彼女を促し、東口改札脇の喫茶店で時間を潰すことにした。「向こう側」で調べるつもりだったが、妹さんについてもっと知っておくのもいいだろう。
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