ハノイ
伽藍堂
勇者一行
思えば魔王との因縁はとても根深い。その始まりはきっと世間一般には私が勇者として選定されたことだと思われているが、そもそも私の生家は魔王の軍勢によって焼き払われた。魔王がその悪名を世に轟かせ、当時栄華を誇っていたひとつの国家が見事に滅びた戦争の、最初期に私と魔王の物語は始まった。それ以前のことについて語る言葉を私は持っていない。
私は勇者だから魔王に立ち向かうのではなく、私がかつて友としていたものたち、家族のように慕っていたものたちのために魔王と相対する。たとえ私が勇者として選ばれることがなかったとしても、ただの一兵卒であったとしても私は剣を握っただろう。そして私が単に農家や商人であったとしても、勇者かそれに代わる何者かに協力を惜しまなかっただろう。
私は自分がその因縁から、勇者として相応しいものであるとは思わない。世の多くの人々にその資格は備わっている。私は神からの加護を得た。それをもって私は蛮勇の愚か者から英雄になる資格を得たが、その価値を私はあまり大きなものとは捉えていない。私の考えは、柔らかく高価な椅子にふんぞり返る貴族たちにはあまり理解されない。それでもいい。
魔王はかつて私に言った。勇者とは残酷な存在だ、と。曰く勇者とは魔王という絶対者にその勇ましさをもって立ち向かう相手ではあるが、その相手が例えば飼い慣らされた小型犬であれば勇者とは呼ばれない。力の劣ったものが強者に立ち向かうという物語、それを人々も神々も娯楽として楽しむ。無責任な話じゃないか、と。それは魔王流の攻撃だった。
確かに私の人生は、私の努力や苦悩を差し置いて、いかにも英雄然とした物語として見事に脚色されている。私は彼らの期待を裏切れない。そして私自身に備わった力を遊ばせておくことは、私自身からしても許せない所業だった。責任云々の話ではなく、それは私の欲求の話だ。私は平和な世に生きるため、ただ道化を演じ、魔王をもただの道化とした。
この世はすべて物語。神々がそうのたまうのなら文句はない。私は物語が好きだった。吟遊詩人の前に集まり目を輝かせる少年少女。家事仕事の合間に噂話に興じる人々。それは物語るという行為が強大な力を発しているからだ。それは時に魔王の超常の力を、勇者の類い希なる胆力をより戯画的に表す。その期待を背に、私は期待通りの結末を現わす。
私の回答を魔王はお気に召したらしい。未熟だった私を嘲笑こそしたものの、私のその理想は彼の琴線に触れたらしい。私は辛くも命拾いした。私が気になったのは、その敗北を人々はどのように語るのかということだった。期待を裏切ることが恐い。今思えば、その恐怖心など勇者には全くもって相応しくない。だが、その葛藤は胸の内に秘された。
誰にも気付かれることはなかった。何故なら誰にも明かすことはなかったから。勇者という存在がただの人間であることは誰もが知っているはずなのに、誰もその在りように疑問を呈さなかった。それはきっと寂しいことだった。私が自らの寂しさに気付かなかったのは頼りになる仲間とともに旅していたから。孤独の意味を履き違えていたからだ。
私の旅のともは三人と四頭。神馬と呼ばれ、悠久の時を生きるハグル。人語を喋ることこそなかったが、その仕草や視線から誰よりも雄弁に私と会話をした。私は彼にも弱音を漏らさなかった。彼ならば私のどんな言葉よりも雄弁に私の弱さを仲間に伝えられただろうから。一を聞いて十を知る。目は口ほどにものを言う。私はそれらを実感した。
神官として教会に派遣されてきたリリアとは、最初折り合いがつかなかった。異性としてとても魅力的だと感じたのがまず一点。高位神官に特有の神の奴隷とも言うべき力を発していたのが一点。そして魔物相手にも慈悲の心を忘れず、心を痛めていく彼女の姿が見るに堪えなかったというのが一点だった。彼女は時に私よりも丁重に扱われた。
重戦士、つまりは私の盾として働いてくれたのがブレナンだ。傭兵だった彼は大酒飲みで酒癖が悪く、さらには女癖も悪かった。それらは褒められたことではないが、勇者の物語に人間味を与えてくれたのが彼だった。彼を諫める役には辟易としたが、彼と飲む酒は美味かった。ハグルとリリアは酔った私を決まって険のある目で見ていたが。
魔術師であるカジャは静かな男だった。私がリリアに自らの安全を気にするよう説得する時も、ブレナンに悪癖を自重するよう説く時も、微笑みを称えて眺めていた。そして時に透徹とした理論で彼らを説得した。彼は若々しい見た目にそぐわぬ永い時を重ねていた。私は何よりも彼の聡明さを恐れていたのかもしれないと思うことがある。
残りの仲間はハグルの子である三頭の馬。それぞれ性格に違いはあるが、とても賢く、私たちの旅路を助けてくれた。もちろん仲間とは言えずとも旅をしてくれた多くの人々がいる。私は彼らと話をした。彼らの望みを聞いた。それらは確かに私の糧となり、私の背を押した。そして鎖のようにも、足枷のようにもなっていったのだろう。
私がこの澱のような思考から抜け出せたのは、誰かに助けられたからではなかった。私が誰かを助けようとしたからだ。そしてそれは誰かを傷つけることを良しとしたからだった。勇者の仕事は慈善事業めいているが、見返りとして旅の支援を求める。国や教会、裕福な街、そして貧困にあえぐ村々から。対価は厄介な盗賊退治だった。
盗賊は世間を賑わす勇者一行が自分たちを討伐に来たと知って浮き足立っていた。神々の加護などなくとも一通りの剣術を修め、旅の最中習熟していった私たちには敵ではなかった。だが首領の男だけはひと味違った。一合、剣を交え、ただ者ではないと知った。彼はかつて私の生まれた国で騎士として魔王の軍勢と闘った男だった。
彼は勇者を否定した。彼のかつて守ろうとしたものは全てとうに失われていたから。そして今守りたがっていた家族たちを勇者一行は踏みにじったから。盗賊行為を働いていた彼らの非を私は問うた。そして明らかになったのは依頼を受けた村と盗賊団の歪んだ関係性。彼らのひとつの取引と、それに対するひとつの不誠実だった。
私は彼らの生命に責任を持つことを拒否した。生かしも殺しもしない。ただリリアを通じ、彼らの正確な実情を伝えた。私はその晩、焚き火の前で寝ずの番をしながら考えた。勇者を望まぬ声はある。それを実感として得て、私の推力は目に見えて落ちた。正義か悪かなどと形而上のくだらぬ事を問題としているのではなかった。
問題になっているのは私が誰を救いたいかであって、それは裏を返せば誰を救いたくないかであった。そしてそれは誰を傷つけるかであった。焚き火がゆらゆらと揺れ、私の肌を炙る。リリアはほっとした様子で教会へ連絡を取った。ブレナンは報酬はなしかと残念がっていた。カジャはただ微笑み、ハグルはただ鼻を鳴らす。
私に勇者たれと期待したのは誰かと考えた。私の母は泣きながら私を見送った。父はただ頷いていた。友人たちも笑顔や泣き顔やそれぞれの気持ちを露わにして私を送り出した。そして私は勇者になった。それは選定されたからではなく、私が魔王を倒そうと思ったからだ。そしてその発端はやはり私の恨みなのだと思った。
勇者とは魔王に立ち向かうべく、神々の力を受け継いだものである。教会の伝える誓書の一節である。倒すべくとは書いていない。今まで魔王は遅かれ早かれ征伐されてきた。だがそれが勇者の手によるものではないことも間々あったのだ。勇者も魔王も絶対的なものではない。勇者とはアイコンなのだ。旗印でしかない。
だがこの旅は私のものなのだ。私に影響された何者かが私の後を継ぎ、ただびとでありながら魔王を征伐することもあろうが、けれど私の旅は私のものだ。勇者であれど私は私。魔王を征伐する責任は私にあるのだと、私はようやく理解した。私は私の信じる道を歩めば良い。結果は全て私という男のものであるだけだ。
私はブレナンと酒を飲むことが多くなった。私の故郷とは違う習俗、考え方など酒の入った頭で全てを理解することは困難だったが、私と人々の距離は自然と狭まった。彼らは物語を好んだ。悪人が罰を受け、善人が報われる物語を。誰が何をし、誰が何をしていない。そんな噂から、私は私の裁量で善悪を見分けた。
私はリリアの傍らでその鎮魂を手伝うようにもなった。私は彼女の行いを優しさからであると思っていたが、同時に自分への厳しさから来るものなのだと知った。自らが殺した命と向き合うことは私には少し恐ろしかった。だからこそ私は私の殺した命の重みを理解し、自らの行いをより積極的に正すようになった。
カジャからは多くの知識を受け取った。魔術の才能はないのが残念なところで、薬草学や魔物の生態についての知識だったが、私にはとても有益なものだった。私は魔王の討伐を終えた後にそういう学者になるのも良いかもしれないと考えるようになり、夢を得た私は他者の未来にもより責任を持つようになった。
私は変わった。旅を始めた時から考えるとまるで別人だった。不特定多数の誰かのために英雄を演じることにもはや疑問を抱かなかった。誰よりも私が英雄を渇望していたからだ。そして私は魔王を殺さなければいけない確固とした理由を理解した。私はもはやこの戦争に、生存競争に、迷いを抱かなくなった。
当然だろうって、誰かは言う。魔王だから悪い。それは盗賊だから悪い、と同じ論理だ。有り体に言って破綻している。人を殺しているからだ。なるほど。分からない話ではない。だが私の信じる英雄はそこに異を唱える。私が私なりの答えを見つけた時、私は勇者とは何かを見失った。その、長年の信仰を。
それは魔王との二度目の邂逅だった。私たちは魔王を追い詰めた、と世間一般には言われるがその実招き入れられたのだろう。私たちは満身創痍だった。彼の前に立った時には意気揚々と、さあ追い詰めたぞとも思っていたのだが、単なる瞬きの間に私たちは膝を着いていた。そして魔王は気怠げに言った。
魔王もまた残酷な存在だと。それはかつて、勇者は残酷だと言った時のように、何か憂慮しているものがあるかのようだった。思わないか、と同意を求められた時に私はひとつの可能性に思い至った。彼にも止められないのではないか、ということだ。魔王なくして勇者があり得ぬように、その逆もまた。
魔王は誓書を手にしていた。それは人間と神々の契約を記した文書で、聖なるものとされていた。魔物はそれに触ることができないことが教会により確認されている。私たちは絶句した。これは魔物にとっても聖典だ、という静かな言葉にリリアは怒りの声を上げた。魔王はその様子を見て微かに笑う。
神と人間の契約を纏めた文献が彼らにとっての聖典だと言うのなら、彼らは神か、人間ということになるのだろうか、と思いつきを口にするとリリアはキッと睨んできた。敵の妄言に踊らされていると思われたのなら、それは滑稽な話だ。だが魔王の話はどうやら私の予想とはまるで違うようだった。
魔物は神々と人間の契約の産物だと魔物の王は告げた。それはまるで魔物の存在は神々か人間のどちらかが望んだかのようだと私は思った。カジャはほう、と納得したように頷いていた。何かの前提が壊れる音にしては気の抜けた音だった。だがどうやら、空言に踊らされているのではないらしい。
神々は刺激的な物語を望み、人々は着実な発展を望んだ。そのために魔物という人間を捕食しうる生命が溢れ、人間はそれに対応するために多くの技術を生み出した。誓書に記された契約通りに、人間の文明は発達し、それをより促進するために魔物もまた生命力を増し、知性を増大させていく。
誓書にそんなことが書かれているのだろうか。リリアは私の疑問を受けて頭を振る。魔王の誓書は幾分古めかしい装丁をしていた。そして読み上げられた文言は古語で意味が掴みづらくはあれ、確かに魔王が告げた通りの内容を示しているようだった。つまり考えられる可能性は二つとなった。
この魔王が全くの虚言を吐いているという可能性か、教会が何らかの欺瞞を働いたという可能性。だが私の考えにブレナンが、シンプルに伝え違えたんじゃないかと意見を述べた。神々が何か謀をしているのかもしれないと考えたのがカジャ。そしてリリアは第一の可能性を一途に支持した。
魔王はそんな私たちに微笑んで去って行った。あまり時間はないかもしれないと脅しを掛けて。魔王が私たちを殺さずに去ったことで結果的には勝利という形になった。だが、それを素直に喜べるほどに私たちは能天気ではなかった。私たち仲間内の信頼関係に不協和音が響いていたのだ。
そもそも私たちの目的は違う。私は魔王を倒す。リリアは教会の名代として神の威光を示す。ブレナンはある国家に雇われ、報酬をもらうために魔王を討伐する。カジャはひとりの学者として最強の魔物を研究する。私たちは同じ旅路にあれ、信じるものも信じる道も異なっているのだ。
私たちは魔王に対する態度も、教会や神に対する立場も違っている。私とリリアは魔王を宿敵と、ブレナンは獲物と、カジャは研究対象としているし、教会や神をスポンサーと捉えている私に、仕えているリリア、国とは別に税を徴収していく厄介者と考えるブレナンとカジャで違う。
魔王に対する立ち位置はさして問題にならなかった。考え方に差異はあれ、いずれ殺すべきという結論に異論はない。問題は魔王の語った教会や神についての疑惑だった。裏を取るべきと強硬に主張したのがカジャ。学者としての知的好奇心からだろうが、私とブレナンは賛同した。
そしてリリアは当然ながら反対した。元々孤児であった彼女は教会に聖女として見出され、その庇護のもと生きてきた。その彼女に教会を疑えと言うのは、きっとそれまで生きてきた世界を捨てろということと同義だった。私たちはとても残酷なことを強いていたに違いなかった。
夜、火の番をしていた私は彼女が忍び寄るのに気付いた。いつもとは違うその雰囲気に私は剣を意識した。いつでも抜けるよう、また、まかり間違っても殺してしまわぬように。多くの理性的な議論と、感情的な言い合いを繰り返した後だったから、私は心底恐ろしかったのだ。
信仰とは理性的であるべきです、と彼女は述べた。神の愛を疑うことはきっと自然なことです。私は神の声を聞いたことがあります。けれど多くの人は聞いたことがないですから。彼女は微笑む。疑いがあり、私がそれでも信じたいのなら、疑いを晴らせば良いのでしょうね。
私は問われた。勇者でありながら、恨みを抱えながらも、どうして魔王の言葉を素直に受け止めたのか、と。なるほど、私は既に何かの精神的な攻撃を受けているのかもしれない、と私は僅かに不安になる。私は答えあぐねて水筒の酒を口に含んだ。焚き火が生家に重なる。
私は遠回りを強いられているのかもしれない。教会の疑惑を明らかにせずとも、魔王は追える。だが私は無知が恐かった。己の愚かさが生む罪を何よりも忌避したかった。念頭にあるのはかつて討伐しなかった盗賊たちのことだった。彼らもまた彼らの平穏を望んだのだ。
私は神の愛を実感したことはない。だがその力は実感していた。そして同時に教会で神の僕として仕える人々の人間性を知っていた。リリアのように清貧を絵にしたような聖職者がいる一方で、ブレナンが嫌うような守銭奴と揶揄されるような聖職者も確かにいるのだ。
神の愛を伝えることを願う者、私腹を肥やすことを願う者。彼らの平穏な日々は違う。万人の幸福を追い求める行為は私の役目ではないのだろう。それに教会の不正を糾弾する役目も私のものではない。勇者の使命は魔王を殺すだけ。つまり私は救世主などではない。
どうして私は魔王の言葉を考慮したのか。それは思ったからだ。勇者が望まれるよう、魔王もまた何者かに望まれているのではないかと。神々の愛が平等というのなら、リリアが魔物を弔うようにそれが平等だと言うのなら、人間が神々と契約を結んだようにまた。
魔王を殺すことは勇者の最終目的ではあるが、私の夢は、平穏は、カジャから学んだ知識を長閑な村かどこかで実践することだった。リリアほどの優しさは私にはないが、隣人に寄与できれば良いと思う。そのために世界にはその平穏さを保ってもらわなければ。
魔王はまたいずれ、生まれ出る。それが神と人間の取り決めによるものならば、魔王を駆り立てるのは私たちの契約なのではないだろうか。私は纏まりのない言葉で、私なりの考えを示した。それが求められた回答になっているのかは、私には分からなかった。
リリアの心変わりにブレナンは何某かの天変地異を不安がったが、カジャは微笑んだだけだった。私たちは教会の総本山に向かった。そこで分かったことは、教会の保有する最古のものでさえ、魔王の示したものほど古い文献ではなかったということだった。
高位の司祭は私たちの質問に疑念を隠さなかった。リリアの取りなしがなければ、私たちの立場は危うくなったろう。途方に暮れた私たちは魔王を追う旅路に戻ろうとした。そこでハグルたちが足を止めた。頑なに。カジャは従おうか、と静かに微笑んだ。
宗教には宗派がある。その教会は歴史の闇に埋もれるほどに遠い昔、異端とされた宗派のものだった。私たちは手厚い歓迎を受けた。カジャの宗教と歴史に対する深い知識がなければ殺されていただろう。交渉の結果、古びた石造りの地下へと招かれた。
ともすれば魔王の誓書よりも古い書物だった。ここに魔王の言説の正しさが証明された。少なくとも誓書の内容においては。その変遷が何故起こったのか問うと、異端の聖職者は口元を歪めて答えた。それこそが人の欲と傲慢さの結果なのだろう、と。
彼らが異端とされた理由もそこにあるのだろうが、私たちは問わず、彼らも語らなかった。正統とされた、人々の生活を支える教えを壊す危険性。代わりに彼はハノイという古き儀式に言及した。完成すれば世界から全てが失われる魔のプロセスを。
一手ずつ着実に完成へと近づくその儀式は自動的に進むのだという。慣性だ、と聖職者の言葉に誰も笑わない。私たちは地下空間の、さらに奥へと進む。そこには宙に浮かぶ天板があった。そしてその上には三本の棒が立ち、円盤が刺さっていた。
円盤は見る間に移動する。棒から棒へ。自動的に。これがハノイだ、と聖職者は言う。模造に過ぎないが、と続け、世界は終焉へと向かっていると口を閉じた。これは儀式の様子を投影しているに過ぎず、止めるには本物への干渉が必要らしい。
私たちは声を出すことを忘れた。魔王が人間を滅ぼそうとしている、とは全く異なる事態だった。これを仕掛けたのが神であれ、魔王であれ、人間はその蚊帳の外で終幕の時を待たざるを得ないのだとしたら、人間はなんと悲しい運命だろう。
世界が終わるってのは可愛い嬢ちゃんを抱けなくなるってことかい、とブレナンが沈黙を裂いた。美味い葡萄酒もなくなるだろうな、と聖職者が嘆くと、なんてこった、この世の終わりじゃねえか、と膝をがくりと落とした。喜劇のように。
この世の終わりとは、具体的には、とカジャは笑みを絶やさず訊ねた。聖職者は古い文献の一節を指し、情報が失われるのだろう、と喉を震わせた。世界から精彩が、彩りが欠けていくと実感したことは、という問いに私は無言を貫いた。
分からない。だが私の過去は今と比べて豊かだったろうかと思案した。思い返されるのは、あの夏の日、紅の業火の前で涙に暮れた絶望の夜。老いた聖職者はふっと笑う。思い出はいつの日も今よりは鮮やかで、正確さに欠けていると。
問題なのは今の正確さまで失われていくことなのだ、と異端の聖職者は言う。そして異端たる所以、あるいは正統たり得なかったゆえの歪みを表した。これも神の思し召しかもしれぬ、と。其は神の儀式。全て御許へと回帰する、と。
神は私たちを愛しておられます。リリアは静かだが、力強い口調だった。だからこそ神の加護を得た勇者がこの地を訪れたのですから。他の誰でもない彼が。まるでリリアは勇者としてではない、私個人に期待しているかのようだ。
若き聖職者よ、こうして今ここに在ることが神の愛とは限らぬよ。鬼籍も近き聖職者はそう述べつつ、ひとつの古地図を私に差し伸べた。そこはかつてハノイと呼ばれた土地が示されていた。さあ時間はない、と嗄れた声が言う。
子には旅をさせよ、とは所詮人の知恵。神に甘えたくなるのもまた人の業。そして儂も人であれば、若人たちにこの世界を残したくもなろう。老人は笑う。人の我儘も聞けぬ狭量な神など信仰せん、と言う笑みに私は感じ入る。
ハノイの影響は既に出ているのだろう。剣を握るこの手が目を離した途端消える可能性も捨てきれない、というカジャとリリアの説明に私は瞬きすら恐ろしくなる。面倒はご免と色街へ出かけたブレナンの剛胆さが羨ましい。
私たちの旅路は良くも悪くも変わらなかった。急ぐ理由がひとつ増えたところで、もとより私たちの旅路は最高速だった。それぞれの息抜きも変わりようがなく、けれど私たちは遠くない旅の終わりを感じていたのだろう。
私たちはそれまで以上に多くの言葉を交わした。どのように旅路に終焉が来ようとも、私たちが同じ道を歩み続けるということはなかった。例えば魔王がいなくなった私の生活に勇者という概念が関わる余地はないのだ。
カジャは勇者の研究までは手を出すつもりはないよと微笑んで、誰かに魔術を教えるのも良いかもしれないと顎に手を当てた。リリアは聖女も私には荷が勝ちすぎますからと呟き、良い人でも探しますと水を一口飲む。
ブレナンは今回の仕事で稼ぎは大分良いからなと笑い、酒と女だけで使うってのも勿体ねえかねと珍しく険しい顔を見せる。火を囲む私たちの傍らに四頭は近寄り、何か言いたげに鼻先を私たちの体にこすりつけた。
ある時、私たちはひとつの戦場に関わった。人側がかつて魔物に奪われた土地を奪い返そうと仕掛けたもので、行きがかり上関わらざるを得なかった。私たちが関わったことで士気の上がった侵攻は順調に進んだ。
私たちが見たのは不思議な光景だった。そこはかつては街だったのだという。奴隷として暮らしていた人々は言い、取り戻すべく戦った人々も同意した。私たちはそこに滞在した。都市機能は確かに残っていた。
そこは文字のない街だった。看板の類は乱暴に外され、本の類も全てが持ち出されていた。筆記具はなく、そこに住んでいた若者には文字を書けぬものもいた。そこは情報の少ない街だった。不気味なほどに。
これはどういう意図なのだろうかと私たちは話し合った。ハノイの後に広がる光景とはこういうものだろうかと思った。ハノイが失わせるものとは言語ではないのかという考えを私は否定できないと思った。
カジャは、ハノイは全てを失わせるという言葉に基づき、その過程で文字が失われるに過ぎないと主張した。ハノイの作用がどうであれ、私たちは急がねばならないということははっきりと理解していた。
だが私たちの旅路はそこでしばし停滞した。魔王の情報がそこで途切れた。人と魔物の戦争も同じように膠着状態に入った。魔王の手のひらの上で踊らされているのではという疑念が私たちを焦らせた。
元々この戦争は魔王が仕掛けたものだった。いくらかの国は戦争の経費に増税を繰り返し、農民などは糊口を凌ぐのがやっとだった。私たちの旅は多くの国に、つまりは貧しい人々に支えられていた。
彼らの不満が少しずつ析出してくる。王侯貴族も愚かではなく、私たちのスポンサーで居続けることは彼らにとってメリットだけではない。魔王を殺す勇者は、民衆の希望ではなくなりつつあった。
ある王に訊ねられた。何故旅を続けるのか、と。魔王を倒すというシンプルな目的では利益が出ない。私たちはハノイのことを伝えなかった。伝えるべきか、その答えは見つからなかったからだ。
誰かが議題に挙げた。そして止まる。伝えるべきだ、知らしめるべきだ、そういう声は出なかった。私たちの住む世界は遠くないうちに決定的な悲劇を迎えるでしょうと告げて、誰が喜ぶのか。
いずれ生まれ、いつか討伐され、また誕生する魔王とは、勇者とは違う。ハノイはそれらとは決定的に異なる代物だった。啓蒙できるのは私たちだけ。そして責任を取るべきなのも私たちだ。
私たちは口を閉ざすことに決めた。永き時の中で進みゆく滅びのプロセスは人知れず失われ、世界はその平穏さに疑いを持たれることもない。私たちは人々の強さを信じられなかったのだ。
私たちは魔王の居城に近いと見られた、ひとつの膠着した戦場に介入した。たった四人と四頭が魔物の陣営へと踏み込み、虐殺を行った。私たちがそこで得たのは彼らの国の情報だった。
私たちは後ろを振り返ることなく、魔物の領土を切り開いていった。私たちは先鋒だった。そして同時に殿でもあった。人間の営みからも私たちは離れかけていた。目的は魔王の居城。
戦争は活性化した。私たちが多くの悲劇を呼び起こした。そして魔王は現れた。私たちは文字のない街について尋ねた。彼はある儀式の名を挙げた。その影響が部分的に顕現したと。
残り九十足らずだぞ、と魔王は告げた。それがひとつの閾値だと魔王は言った。そこを越えれば全てが崩れるのだろう。世界を壊すことを望みとするわけが私には分からなかった。
私たちは魔王の前に倒れるということはなかった。過去の二回とは違っていた。剣を振れば届く。魔術の光は突き刺さる。互角以上に戦った。だがとどめを刺すことは叶わない。
私は何度目か、振るう剣を受け止められた。そこで自らの体に神の力が満ちていることを理解した。魔王の中にはその欠片をも含まれていないことも。そして世界の残酷さも。
魔王は私たちの攻撃を巧みに交わし、そして私たちの背後にいる人々へと笑いかけた。さぁ、世界は間もなく終焉する。それは貴様ら人類や、そこの勇者たちを飲み込もう。
喜ぶがいい。我々魔物もその死出の旅路に付き合おうではないか。魔王の言葉は不自然なほどに響いた。きっと魔術によるものだろう。世界にそれは伝わったはずだった。
私たちはハノイについて公表した。全てを明らかにした。魔王の、魔物たちの目的も私なりの言葉で伝えられたのだと思う。彼らは神の御許へ帰りたいだけなのだろう。
人のように神によって創られた知性ある生命であるにも関わらず、彼らは人に与えられた試練に過ぎず、神に愛されたこともない。私は初めて、彼らのために祈った。
世界は時間がないと突きつけられ、戦争はより激化した。そして多くの国で変革が起こった。それは悪徳貴族の処刑や、私腹を肥やす聖職者の暗殺など多岐に渡る。
変革の発端は私たちが異端の宗派を表へと引きずり出したことだった。世界の正しさの基準が壊れ、それぞれの正しさが衝突しだした。私たちがどこかで違えた。
誰も望まぬ争いが激しさを増し、その最たるものが魔物に与し出す人々との殺し合いだった。私が彼らを理解したせいで、それに共感する者が現れてしまった。
私の誤りだった。だからこそ私は彼らを殺める手を緩めることはなかった。彼らの正義は私にも通ずる所があり、そして彼らの罪は私の罪の一部だったから。
人は生を失えば、神の御許へ行く。善人は天の国へ、悪人は地の国を経由して天へと昇る。私は一度地の底へと落ちねばなるまいと思った。だが天へとは。
私たちの旅は変わらなかった。私は愛剣を振るう理由を求め続け、リリアは命を弔い続け、カジャは知識を蓄え続け、ブレナンは酒と女を楽しみ続けた。
ハグルたち四頭も相変わらず私たちに献身的に尽くしてくれた。変えぬようにしていた。変わりゆく世界で為すべき事を為すために。揺らがぬように。
快進撃。そう言えば晴れ晴れしく英雄的だ。だがその血と汗に濡れた道程は、まさしく筆舌に尽くしがたい。私たちはやがて魔王の居城へと至った。
それが最後の晩餐だった。私たちはカジャとリリアの張った結界の中で焚き火を囲んでいた。固いパンとスープ。いつもとまるで変わらなかった。
私は終わればどこかの村でのんびり暮らしたいと言った。おいおいそりゃ死亡フラグだぜ、とブレナンは笑い、そして穏やかな口調で同意した。
そこには知的好奇心旺盛で魔術の才能豊かな子どももいるかもしれない、とカジャは地図を広げて考え出した。それからリリアに水を向けて。
きっとそこには優秀でイケメンな村人もいるだろう、と微笑む。リリアは慎ましやかな顔のまま魅力的な話ですねと口の端を上げて見せた。
まさか三人して人の将来設計に関わろうと言うのではあるまいな、と訊くと、私たちも忘れるなと言いたげに四頭が一斉に鼻を鳴らした。
ああ、それはとても楽しい夜だった。数多くの夢が私たちの間で共有された。私たちの世界が精彩を欠いていっているとは思えぬほど。
それは確かに色鮮やかな思い出として私たちの心と魂に刻まれた。そして人生で最も美しい朝日に照らされて、私たちは剣を握った。
結界から出るやいなや、多くの敵を屠っていった。招かれざる侵入者は私たち。ここでの悪党は私たちだった。なんと残酷なのか。
城は広かった。大広間、客間、執務室、厨房、寝室。溢れ出る敵を殺戮する。玉座を求めていたのだが、複雑怪奇な造りだった。
魔王はいつ現れるのか。私は魔王との邂逅を待ち望んでいた。これで終わりにしよう。この下らぬ因縁をそろそろ清算しよう。
かつて受け取った古地図の印はここを指している。この城こそハノイと呼ばれた地ならば。終幕はここで、今この時にこそ。
大扉を開け、そして咄嗟に身を伏せた。はらりと切り取られた髪が舞う。玉座には主が腰掛け、その後ろには扉があった。
扉がおもむろに開き、地下へと続く階段が現れる。階段の向こうに消えた魔王を急いで追う。そこに三本の塔はあった。
魔王と、その背後にはハノイ。話が早かろう、と魔王は剣を抜く。もう幾ばくもないのだ。私たちに許された時間は。
私たちの剣戟は音をも光をも越えた。一拍の余裕もない。刹那の油断もあり得ない。まるで永遠に続くかのように。
だが私はひとりではなかった。苦楽を共にしてきた仲間が私にはいる。神の愛などよりよほど心強く助けられた。
横合いから大きな盾が魔王の体を弾き飛ばす。どこか得意げに、けれど油断なく、傭兵は給料分以上に働いた。
そして魔王の体には多くの火炎や雷撃、氷の槍に、目には見えぬ刃が襲いかかる。賢者はただ微笑むばかり。
下がった私に手が当てられる。穏やかに光が放たれ、私の疲労と傷が癒える。聖女は優しく全てを慈しむ。
私はすぐに飛び出した。穏やかな優しさを振り払い、冷たき戦塵へ。さあ、魔王。お前はそんなものか。
思いは剣を伝う。かつてと同じように。私の色鮮やかな思い出が、魔王の心へと触れるように感じた。
魔王の口元は怒りで歪んでいた。何が神の愛、人の愛、と。彼の剣からは怨嗟の声が伝わって来る。
私たちの肌には少しずつ裂傷が増えていった。私が死ねば仲間三人が彼を殺すのだろうと考えた。
だから私は引くことは考えなかった。魔王は恐ろしい相手だった。ハノイに近づけさせまいと。
牽制までしている。私より間違いなく強い。それでも絶望できないのが、彼の嫌う愛ゆえだ。
この戦争には勝つだろう。だが問題は時間との勝負だ。私は間に合うだろうか。刻限まで。
殺ったぞ、と思った。だが魔王の体が反る。私は崩れかけた体勢を無理に立て直そうと。
魔王の手には黒い光。狙いは、ハノイの操作盤のようだった。だが私では間に合わぬ。
賢者の牽制。魔王の腕が裂かれたが、その光が輝きに陰りを見せることはなかった。
そして黒き力は放たれた。盾の傭兵は遠い。重武装がここに来て仇となっていた。
終焉を覚悟した。着弾の刹那、白い影が飛び込み、代償として深紅に染まった。
私は手に力が入るのを感じた。世界がとても緩慢に流れていくように感じた。
無防備な首筋が見えた。これで終い。だが私の体もまた意識から乖離する。
首へと迫る刃筋。だがそれが僅かにぶれた。必殺の剣線から、致命的に。
それは疲労故だろう。私はいつから油断してしまったというのだろう。
嘆き悲しみがこれまでにない彩りをもって迫り来る。厚みに乏しい。
そして首を裂かれながらも、魔王は私の体へと刃を潜り込ませた。
魔王は説く。愛とは、その甘さだ。背後にある抗い得ぬ優しさ。
それが毒となり、今お前の腹から血を流させているのだ、と。
私は膝を着いた。剣が音もなく私の後を追って血だまりへ。
賢者と傭兵は善戦していた。だがまさしく、その動きは。
精彩を欠くように見えた。ハノイの呪詛が私たちまで。
届いてしまったのだろうか。私は腹に熱さを感じた。
それはまさしく愛だった。ひとりの聖職者による。
盾が割られ、杖が折られた。私は両の目で見た。
確かに両の足で立ち。私は愛剣を握っている。
どこか他人事のように。私は両手を掲げる。
足が私を運び、そして私は振り下ろした。
私は生き延び、彼は死に向かっていく。
だが彼の求めた愛は、私のものより。
ずっと甘く、人を狂わせるだろう。
三人はまだなんとか生きていた。
私は彼らの命を繋ぎハノイへ。
コンソールは複雑であった。
私には難解な文字だった。
だが恐怖心はなかった。
いくつかのボタンを。
私は押していった。
世界は広いまま。
ここまで来て。
間違うなど。
未来永劫。
世界は。
さぁ。
終。
了
ハノイ 伽藍堂 @garan448
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