野溝七生子『眉輪』

野溝七生子『眉輪』展望社、2000年。


「おんなこどもの古事記」。

とんでもないものを読んでしまった。

いや、このエッセイは基本海外文学を読んで書くものだったのだが、これはここに残さざるを得ない。やばい。語彙がなくなる。


この小説を読んだきっかけは、拙作『歌声』とほぼ同じ時代を舞台にしていて、文章がすごいという評判を聞いたからなのだが、もう冒頭からバチバチに決まっていてノックアウトさせられてしまう。


「もう、さうなのだ。みどりの揺籃の中からすでにその額には、凶悪な宿世の星の光芒凄じく、きらきらと象嵌されてゐたのだ。」「秋十月、兄君、木梨軽太子が、その追放の地で、彼の”美しい命ベエル・ヴィイ”なる衣通媛王と共に、自ら失せ給うたといふ報せをもたらして」


もう、なんだこれはとしか言えないのだが、大正時代に書かれたというこの小説の文体、外来語も古事記の言い回しも変幻自在に操り、「竪琴」を弾く語り部によって語られるという体で進められる。ちなみに2000年の出版の際、漢字は新字、かなは旧かなである。


個人的には、この小説が題材にしている、まさしく雄略天皇の即位前に起きたできごとについては、拙作で取り上げたため、関連する古事記・日本書紀など読んでいるので、あらすじは頭に入っている。紀元5世紀後半、のちに雄略天皇と号されるワカタケル王の家族、大王家の一族の血で血を洗う愛憎劇・復讐劇である。ギリシア悲劇で言えばアトレウス家のような、憎しみを憎しみが薙ぎ倒す物語。タイトルロールは、大王家のうち、病に倒れた大草香王の子、眉輪王、七歳。拙作では存在を抹消されている存在だが、古事記・日本書紀には確実に登場するキャラクターである。


この感想文を書くにあたり「新編日本古典文学全集」(小学館)の古事記と日本書紀を読み返してみたが(拙作を書くにあたり購入した)、わたしもそうだが、野溝七生子も記紀双方の要素を取捨選択して自分の作品をつくっている。


記紀双方で共通する、「穴穂大王(ワカタケルの同母兄)が大草香の妹をワカタケルの妃にするよう、大草香に使者(根臣ねのおみ)を送る。大草香は快諾し、そのしるしに押木玉鬘おしきのたまかづらを使者に託すが、使者はその宝物を自分のものにしてしまいたくなり、大王に大草香は(大王を侮辱して)断わったと偽る」というあらすじはそのまま、その後巻き起こる愛憎劇(大草香は殺され、大草香の妃は無理矢理穴穂の妃にされ、大草香の妹はワカタケルの妃にされる)を鮮烈な文体で描く。


もともと映画の脚本として書かれたらしいことは久世光彦の文章にあり、それも納得の、役者の身体を通して発せられることによって強烈な力を持つであろう、つよいことばがバンバン出てくる。上に書いたように、女性ふたり(大草香→穴穂の妃(小説中には名前が出てこないが、古事記で言う長田大郎女ながたのおおいらつめ)、大草香の妹・若草香)とこどもである眉輪が物語の中心にいるのだが、この三人が舞台上の前面で、観客に向かって叫ぶような、強烈な表現力でことばを発する。女性であっても、口を極めて相手を罵り(美しい語彙で)、子どもは純真に、純真であるがゆえに曲がってしまっても無鉄砲で、滅びへの道を猛烈な勢いで走っていく。意思がつよいひとびとばかり出てくるので、そのひとびとがぶつかる様は激突というほかなく、ぶつかったあとは一方が確実に死に突き落とされる。


記紀の物語をなぞっていても、書かれた大正時代の価値観には縛られているが、いま読んでもその文体・台詞・キャラクターの意思の強さには目を見ひらかされるものがある。若草香について、「年増で醜い」とした日本書紀ではなく、美人とした古事記のほうを『眉輪』が取っていることからもわかるように、非常に耽美主義であり、小説全体からも作者の美意識を感じられる。そういった点は自分にはないので、感嘆した。

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