ウィリアム・トレヴァー『異国の出来事』

ウィリアム・トレヴァー『異国の出来事』国書刊行会、二〇一六。


一番好きな作家は、と聞かれたら、かれかドーアを上げる、それくらい好きな作家です。この本が出た年に、八十八歳で亡くなった、アイルランド出身、アングロアイリッシュ(カトリックが人口のほとんどを占めるアイルランドの歴史のなかで、英国がこの国を支配していたとき、英国から移り住んだプロテスタントのひとびと)のひと。現代最高の短編作家と賞するひともいるとか。


日本で独自に編まれた短編集で、訳者は栩木伸明さんというのですが、この方の訳文も最高です。トレヴァーでまず最初の一冊は? と聞かれたら、この方の訳し・編んだ『聖母の贈り物』をおすすめしますが、日本でのトレヴァーの紹介に尽力され、それが成功していると言っていいと思います。まあ欲をいえば、いま刊行が続いている「ウィリアム・トレヴァー・コレクション」(国書刊行会)は「ウィリアム・トレヴァー全集」であってほしかった、というのがファンとしての本音ですが……。


さてこの本の話。栩木さんが訳した短編集としては三冊目ですが、「旅」のあいだのできごとが中心の短編が揃っています。作家自身イタリアが好きだったのか、イタリアの都市の話が多いですが、最初はイランのエスファハーンですし、最後はシエナ……と見せかけてアイルランドの田舎についての話です。少年少女や青春時代がキーになった物語が多いのも特徴でしょうか。わたし自身、この本を三年かけて読んでいたので、正直前半部分は記憶が曖昧なのですが(笑)、ぼんやりとページをめくりながら思い出すのは、各話の登場人物の個性というより、物語で行間から生まれ、たちのぼった情感についてです。そう、この作家、凡庸な登場人物、凡庸な道具立てでも、読んでいくうちに、文章の裏側にあざやかな感情や真実が見えるのです。そして、ことばにならないような深い余韻と、じわじわとしみこんでくるような滋味をこころに感じる。


そのうちの一遍「ザッテレ河岸で」は、冬のヴェネツィア、失恋した娘と妻をなくした父が一緒に滞在する話。父は同じホテルのドイツ人のむすめたちにちょっかいをかけたり、行き交う船を見たり、それなりに身勝手に、楽しんで過ごしているように「見える」。一方娘のほうは、父に嫌気がさしたり、自分の人生に嫌気がさしたり……。あるとき娘が打ち明け話を始める……。そこまでの描写はとても淡々としています。ただ、ひたひたと水面下でなにかが起きている。それが、打ち明け話で爆発する。その戦慄が描かれ、しかしふたりは決定的な断絶に至るのではなく、気遣いを差し出し合い、それでもわかりあえず、それぞれの部屋に戻る。そのとき、わたしは、娘にも父にも共感――というよりも、納得――をもち、結末のあとの余韻に打たれます。


小説に共感は必要か、というテーマはおもしろいですが、この作家について言えば、とくに必要ありません。年齢性別階級国籍、さまざまなひとが現れて、そっと打ち明け話をする、そんなイメージです。けれど、語り口のおかげで、読者は納得することができる。「ああ、人間ってこうだよな」という。この描写で、この情景で、このしぐさをして、このセリフがある。その背景には膨大な情報があり、読者はそれを薄々察しています。けれど、クライマックスや結末で、作家の筆が示す情感を得て、ようやくある真実を見つけ出すことができる。


ハッピーエンドやほがらかな終わり方の作品はほとんどありません。だって人生って世界って、そういうものでしょ、とでも言いたいかのように。でも、不快な終わり方ではありません。苦いコーヒーやチョコレートのように、豊かな香りと深いなぐさめが得られます。まあ、そうじゃないアンハッピーエンドもたまにあるので要注意ですが……。


アイルランドが好き、行ってみたい、行ったことがある、という方にもおすすめです。最後の一編はアイルランドが舞台。それも、キラキラした夏のお話。でも苦い(笑)。

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