アンソニー・ドーア『すべての見えない光』
アンソニー・ドーア『すべての見えない光』新潮社、二〇一六年。
ドーアの本は三冊目だ。一冊目は高校生のときに図書館で読み、大学に入って、大学のちかくの書店で見つけて購入した。そのときわたしは初めて千円以上の本を自分のお金で買った。『シェル・コレクター』という短編集。何度も読み返した。好きすぎて、まだ翻訳されていない長編があると聞いて、洋書を図書館で探して、冒頭だけコピーして、読もうとして挫折。”About Grace”。二冊目も、刊行されてすぐに買ったと思う。『メモリー・ウォール』という、これも短編集。
新刊が出れば無条件に買う作家が、海外文学で何人かいる。アンソニー・ドーア、もう亡くなっているがコレクションの刊行が続いているウィリアム・トレヴァー。中国系アメリカ人のイーユン・リー。この三人に、あらすじが気になれば、インド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリ。
アンソニー・ドーアの魅力はいくつかあるが、まずは文体。とてもうつくしい文章が、翻訳を通しても伝わってくる。かれの場合は翻訳者にも恵まれた。亡くなった岩本正恵さん。そして今回は藤井光さん。
次に作品を貫くスタンス。題材や思想やテーマと言ってもいいかもしれないが、作品世界を見つめるまなざしや期待が、とてもここちよい。多くは自然、植物や鉱物、海や森の景色を扱い、そして人間の底の部分の、食い違いや醜さ、一方での純粋さや善良さを描く。
『シェル・コレクター』にわたしの一番好きな短編がある。「世話係」という、アフリカの悲惨で残虐な内戦を生き残り、大陸を越えて、ある海辺の別荘で冬の留守番をする男の物語。かれは故郷でおぞましい戦争をくぐり、しかし、傷つき、のたうちまわったあとに、うつくしいものを手に入れる。
『すべての見えない光』も、物語の構造としてはほぼ同じと言えるかもしれない。舞台は二次大戦中のドイツとフランス。主人公は白髪で、機械や無線に天才的な能力を発揮する孤児の少年ヴェルナー。そして、幼い頃視力を失い、自然史博物館の錠前係の父にいとおしまれて育った、本の好きな少女マリー・ロール。冒頭は一九四四年のサン・マロ爆撃。破壊される家々、戦争の暴風に心身を蝕まれるひとびと。時系列は前後して、ふたりの人生の始まりから、冒頭にいたるまでの物語が提示されていく。
当初、本のあらすじを読んだわたしは、ふたりの主人公が出会ったあと、戦後を中心に作品が展開されるのかと思っていたが、まったくそんなことはなく、冒頭に至るまでの過程に、五〇〇ページ程度の全体のうち、ほとんどが割かれる。物語は行きつ戻りつするが、最初から最後まで息の詰まるような緊張感があり、ほんの二、三ページの短い章の重なりを、ぐいぐいと読み進めることになる。しかも、何度も読み返したくなるような、こころに深く沈ませたくなるようなことばを使った文章もある。時間はかかるが、まったく不快ではなく、たいせつに一ページ一ページを読みたくなる。
ドーアは、この小説を刊行するまで、ベストセラー作家ではなかったという。しかし、この長編を執筆するのに十年をかけた。短編集を出しながら。そのことが可能な環境があることに感謝したい。
短編集で得られた満足感を数倍にしたような圧倒的な読後感が、この小説にはある。ラスト五〇ページは一気に読んだ。
ナチスという、人間のおぞましさを体現するような機構の内部に取り込まれ、子どもでありながら加害者になるヴェルナー。かれの友人のフレデリックが、徹底的に破壊されるのに加わってしまうくだりは、中盤の白眉だろう。「世話係」にもあった、人間のおぞましい行いが、一貫してこの小説を覆う。
一方、かれは妹のユッタを愛し、マリー・ロールは父や大伯父、サン・マロのひとびとに愛される。鳥を観察するのに夢中なフレデリック、海で生き物に触れることをやめられないマリー・ロール……そのきらきらとした部分が、こまやかな描写の積み重ねで提示される。
終盤、ふたりは出会い、ことばを交わす。しかしヴェルナーは加害者だった。それが、ふたりの運命をわかつ。二度と後戻りのできない場所まで。
ラジオが、無線が、目に見えないなにかが、人間と人間をつなぐ。どんなに破壊が繰り返され、何度戦争が起こっても。いまは携帯電話で。七十年前は無線で。目に見えない光。盲目の少女が語る深海。いったいどうすればよかったのか。おぞましい行いのなかで、善良でいること。遠くからの声に耳をすませること。その事実と思いの奔流のなかで、わたしは呆然とする。
「沈黙と風のほうがはるかに大きいのに、どうしてわざわざ音楽を作るのか。」――三六二頁
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