激しい抱擁。



 ロペルス王子が戻ってきたのは日が昇りきる少し前で、彼は一緒に昼食をとエリカを誘い、食堂に招いた。

 腕を奮って振舞うと、エリカの為だけに、王子自ら料理の腕を披露してくれた。

 悔しいが美味しい。

 変なものばかり食べているような印象がついてしまったが、彼の舌も料理の腕も確かなのは認めなければいけない。

 このままでは胃袋を掴まれてしまう。

 エリカは危機感を抱いた。

 エリカだって、多少は料理の経験もあるし、それなりに美味しいものを作れるほうだとは思っていたが、ロペルス王子は次元が違う。職人技と言っても過言ではないほどの腕の持ち主だ。

 豊富な食の知識と経験を活かし、エリカの祖国、レーベンの技法に似せつつ、少し違う新鮮なジャガイモ料理は、衝撃だった。

 エリカがジャガイモ料理を気に入ったことを告げると、夕食も是非振舞いたいと彼が言う。

 悔しい。けれども、嬉しそうな表情で、エリカの為に振舞いたいと言う彼を拒むことは出来ない。

 エリカはとても複雑な気持ちになる。

 彼はエリカにとってとても理解できそうに無い部類の人なのに、少しずつ、彼を知れば、好意を抱きそうになる。

 気持ち悪いものばかり食べる人なの。あんな人と結婚生活なんて無理よと自分に言い聞かせようとしても、あまり効果は無いようで、もう少しだけ、あと少しだけ、と言い訳して、答えを先延ばししようとしている自分に気付く。

 欠点は食の好みと美的感覚くらいしか思い浮かばない。

 それを差し引ける程に、とても、好ましい人だと思いそうだ。

 優しくて、エリカのことを一番に考えてくれる。

 博識で、忍耐強く、根気のある人。

 好奇心が旺盛で、エリカを受け入れてくれる。

 彼がエリカに不満を見せるのはやはり食に関することだ。

 つまり、生きる根幹において、彼とは合わない。

 たったそれだけの話。

 だけども、それが全てだ。


 王子の手製の包み焼きの野菜は、野菜自体が彼の栽培したもので、とても美味しかった。

 卵を使ったスープはとても優しく、どこか懐かしい味だった。

 食べて幸福を感じるなんて何年ぶりだっただろう。長い間食事を苦痛に感じていたエリカにとっては驚くべきことだ。

 ゆっくりと湯に浸かりながら、夕餉のことを思い出す。

 未だ王子のことは理解できないが、彼と過ごす時間は嫌いではないと思い始めた。

 優しい瞳、心地よい低音の声。優美なしぐさ。優しく触れる手。時々感じる不気味さを、忘れさせるほど、惹かれている。

 ばかばかしい。

 エリカは自分の考えを振り払うように浴槽を出る。

 ありえない。あんなに気持ち悪いものを平気で食べるような人と結婚なんて無理に決まってる。

 大体味見と称して初対面のエリカの手を舐めた人だ。

 思い返すと少し腹が立つ。

 エリカはドロテアを呼び、濡れた体と髪を拭ってもらう。

 身の回りの世話は全て彼女の仕事だ。

 淡い赤の寝衣に着替え、沈むほど柔らかい寝台に飛び込む。

 微かに甘い花の香りがする。


【よい夢を】


 一言だけ書かれた紙が、枕元に置いてあった。

「彼が来たの?」

 ドロテアに訊ねる。

「はい。エリカ様は入浴中だとお断りしましたが、居ないほうが都合がいいと」

「ふぅん」

 変な人。

 優しい香りがふわりと眠気を誘う。

「もう寝るわ。おやすみなさい」

 重い瞼には逆らえそうに無い。

 そう思い枕に顔を沈めれば、ふわりと毛布を掛けられた。

 とても肌触りがいい。そして、これも優しい花の匂いがする。なんの花だろう。生憎エリカの数少ない植物の知識ではなにも浮かばない。

 ゆらりゆらりと意識が移ろい、気付くと水の溢れる庭園に居た。

 この場所はどこだろうと、暫く考える。

 いつか行きたいと思っていた場所。森羅の絵で見た場所と似ている。

 天下を統べる龍の国。そんな御伽噺のような場所。

 龍の皇帝はとても美しいと聞いている。森羅には、人の統べる国と、龍の統べる国の二つがあると。龍が人を統べ、人を人が統べる。

 天下はすべて龍の王のものだと聞く。伝承の中の話だ。

 池の中心に屋根の付いた空間がある。レーベンとは全く違う建築で、黒と金で構成され、ところどころに龍がある。

 綺麗。

 エリカは思わず柱に触れる。

 きっとこれは夢だ。夢の中ならなんだって自由だもの。

 触れてみると、意外にも柱は石ではなく、木で出来ているようだった。

「エリカさん」

 突然の声に驚く。

「ロ、ロペルス王子!?」

 どうして私の夢に出てくるのよ。

 思わず叫びそうになる。

「ああ、夢でもあなたに会えるなんて……至福です」

 突然の衝撃に、抱きしめられたと気付くまでに少し時間が掛かった。

 夢だから、なにもかも自由なはずなのに。どうして王子に抱きしめられているのだろう。

「ああ、エリカさん……夢ならば、あなたに触れることも許されるのですね」

 うっとりとした様子で、屈んだ彼はエリカの髪を撫でる。

「夢に見るほど焦がれるなんて……ああ、夢だとしても、こんな気持ちは初めてだ」

 優しく頬に触れる手は少し冷たい。

 これが願望なのだろうか。

 王子に触れられたいと願っていたのだろうか。

 エリカは自分に驚く。

 夢中になっていたのはエリカの方なのかもしれない。いつの間にか、彼に触れられることを望んでいたのかもしれない。

「夢なら多少はしたなくても許されるわよね?」

 思わず王子の頬を両手で包む。

「エリカさん?」

「夢なら全部許される、でしょう?」

 そう言って、唇を重ねる。

 唇から伝う熱が妙に現実味を帯びているが、きっとこれは脳の錯覚に違いない。

 離れれば、王子は少しぼんやりとした様子でエリカを見つめる。

「あの……もう一度しても?」

 今度は彼が遠慮がちに訊ねる。

「ええ、許してあげる」

 素直じゃない。

 夢の中でくらい、もう少し素直になれればいいのに。

 優しい手が、エリカの頬に触れる。

「私は、あなたほど美しい人を知りません」

「そう?」

「ええ。あなたは、美しくて美味しい……それに愛らしい人だ」

 王子の唇が、優しく額に触れた。

「あなたを手放したくない」

「じゃあ、ちゃんと捕まえて」

 傍に居たいのは、こっちの方。

 そんな言葉は言えなかった。

 ゆっくりと、唇を重ねられる。伝う熱がもどかしくて、もっと欲しいと望んでしまう。

「このままあなたを隠してしまいたい」

「あら、私なら、自分の恋人を自慢したいけど?」

 ロペルス王子は見栄えが良い。食の好みと、時折見せる妙な言動さえなければ、優しいし、恋愛小説に出てくる紳士のような振る舞いさえ見せてくれる。

 少なくとも、隣に立っていて恥ずかしい外見ではない。少し背が高すぎるけれど。

「では、私はエリカさんの自慢になれますか?」

 真っ直ぐ、見つめる瞳は、少し不安の色を見せる。

 彼はとても賢くて、才能溢れる人のはずなのに、エリカの前では自分に自信が無いような振る舞いをする。

「それは、ロペルス王子次第じゃなくって?」

 夢の中なのに、エリカは彼に意地悪ばかり言ってしまう。

 もう少し素直になってもいいじゃない。

 もう、気付いている。

 惹かれている。

 けれど、まだ、彼の全てを受け入れる覚悟は無い。

 それに、彼に自分を曝け出す勇気もない。

「では、一生あなたを手放さずに済むように、あなたの自慢になる努力をしましょう」

 また、優しい口づけをされる。それと同時に、激しい抱擁。

 触れる手は優しいのに、伝う熱は焦げそうなほどに熱い。

 もっと、と強請るように、彼を抱きしめると、突然温もりが消えてしまった。

「ロペルス王子?」

 気付けば自分を抱きしめている。

 もう、彼の姿はない。

 どういうことだろう。

 あたりを見渡すが広い庭園の姿があるだけで、王子の名残さえ見つけ出すことは出来なかった。

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