少し暗い緑色の瞳



 朝食の後、エリカが案内された温室は大きな穹窿の玻璃の窓の美しい空間だった。もしかすると、エリカの暮らしていた宮の半分ほどの広さはあるかもしれない。

 入り口は緑で生い茂っており、驚くほど大きな樹も多い。エリカよりも太い樹もかなりの数を目視することが出来る。

 木々には蔓が撒きついており、花々はエリカを観察するようにエリカのほうを向いていた。

 どこか不気味で、それでも美しい空間。とても手間を掛けて作られたと一目でわかる。


「さぁ、こちらへどうぞ」


 ロペルス王子が美しい笑みを浮かべ、優美なしぐさで手を差し出す。

「とても大きな温室なのね」

「そうでしょうか? 私はこの規模の温室を三つ持っていますが、父は八つほど管理しています。母は有毒の植物専門の温室を一つだけ、ですかね。母はどちらかと言うと、植物よりも毒そのものに関心が強いようで、常に新種を求めています」

 手を取るのを躊躇っていると、ふわりと、彼の手が触れた。

「お手を拝借しても?」

「え、ええ」

「よかった。ここは私の自慢の温室です。是非隅々まで案内させてください」

 彼は心底嬉しそうに笑む。触れた手はとても大きく、すらりと長い指に嫉妬さえ覚えそうになる。

「三つある中でここが一番自慢ってことかしら?」

 私を誘ったのだから、そうでなくては許さないという雰囲気を醸し出せたかはわからないが、エリカはできる限り気取って訊ねた。しかし、ロペルスの態度は崩れない。

「そうですね。大体同じように整え、育てていますが、ここが一番初めに作った温室ですので、ここが一番の自慢ですかね」

「三箇所とも同じように作ってるの?」

「ええ。病気や災害に備えて薬効のある植物の確保と、万が一温室が損傷を受けた場合に備えて。特に、この国でも私の温室にしか無い植物が沢山あるのですよ」

 彼は誇らしそうに言う。

「たとえば、そちらの木の下にある、白い花はこの国では私の温室にしかありません」

 見慣れた小さな花を示されて驚く。

「あら? レーベンではそこらに生えてる雑草みたいな花よ?」

 見慣れすぎた花。むしろ繁殖力が強すぎて、庭師を悩ませる花だ。

「ええ。ですが、レーベンとの交易を禁止されていた当時に入手した思い入れの強い花です。実は、エリカさんとの婚姻を望んだきっかけの花でもあります」

「え?」

 少し恥ずかしそうに言った彼にエリカは驚く。

「レーベンには、この国には無い植物が沢山あります。あの特殊な恵まれた地。そして、薬効のある珍しい動物たち。私はそれが欲しかった。結婚なんてどうせ、国同士の政治的な役割しかないと考えていました。しかし、あなたを一目見て、そんなことは全部忘れ去ってしまいました。エリカさん、私は、あなたが手に入るなら、この二十年かけて作り上げた温室さえ失ってもいいと想う程に、あなたに焦がれています」

 真っ直ぐエリカを見つめる、揺れる瞳は嘘を吐いていない。

「……私は、結婚なんてしたくありませんでした。今だって、まだ、抵抗があるし、一刻も早く国に帰りたいと願っているのに……ロペルス王子ともう少し、一緒に過ごすのも、悪くない……なんて、言い訳ですわ……まだ、あなたの感覚を受け入れられそうにないけど……今みたいな時間は嫌いじゃないの」

 お顔は好み。声も好き。優しく触れてくれる手も、時々不安そうにエリカを見つめる少し暗い緑色の瞳も好き。

 少し食の好みが変っていることと、時々不気味な動き方をすることになんとか目を瞑れれば、そう悪くない相手なのかもしれない。

 しかし、最大の欠点があの異常な食事なのだからこればかりは妥協できそうに無い。

「エリカさんがレーベンに帰りたいと望まれるのなら、私がレーベンに行く覚悟です」

「……いや、クリーヒプランツェには跡継ぎが他にいないんだからその選択肢は無しでしょ」

 エリカは呆れて彼を見る。

「ああ、そうでしたね。しかし、私はもう、エリカさん以外の女性を妻に迎えるつもりはありませんから、どちらにしろ、この国の王家が絶えるのは時間の問題です」

「親戚とか居ないの?」

「……いとこがひとり居ますが、パルファンの皇太子ですからねぇ。クリーヒプランツェは彼にだけは任せられませんから、やはり王家を途絶えさせたほうが民のためにもよろしいかと」

 彼は悩ましいしぐさで言う。

 これは卑怯だ。

「そう言う重大な判断を私に押し付けるつもり?」

「いえ、ただ、エリカさんが帰ってしまわれないように脅迫、ということで」

 にっこりと笑む彼に、思わずどきりとする。

 綺麗な笑み。

「……普通の、まともな食事が出来るようになってから言って頂戴」

「困りましたね。それは、つまり、エリカさん。私に死ねとおっしゃるのですね」

 そうは言ってない。

 そう反論する前に、ロペルス王子は不気味な瞳でエリカを見る。

「生きること、即ち食べること。生を追求するのは生物の本能です」

 ロペルス王子は強く力説する。怖いほどの気迫があった。

 怖い。

 エリカは思わず一歩後ろに下がる。

「ロペルス王子! 大変です!」

 突然の声と、草をかき分ける音に驚き振り向く。

 赤毛の青年がとても慌てた様子で駆け寄ってきた。

「シャルル? どうしました? 今日、この温室はエリカさんをお招きするので研究ならば他の温室を使ってくださいとお願いしたはずですが」

 ロペルス王子は明らかに不機嫌そうに、シャルルと言う青年を見た。

「す、すみません。ですが! 夢想花が咲きました」

「なっ……あの二十年間一度も蕾さえ付けなかった夢想花が?」

「はいっ、先ほど温度点検のついでに様子を見ると、黄と青の花が」

 シャルルは興奮した様子で話す。

「記録では夢想花は白い花を付けるとありましたが……突然変異か、未だ解明されない何かがあるのか……記録しておいてください。私は、まだエリカさんに温室を案内し終えていませんので」

 ロペルス王子はそう言うものの、花が気になって仕方が無いと言う様子だった。

「なっ……ロペルス王子が植物よりも人間を優先させるなんて……天変地異の前触れか……疫病の前兆か……」

 とんでもなく失礼なことを言っている自覚は全く無い様子でシャルルはちらりとエリカを見る。

「この方が?」

「ええ。レーベンの姫君、エリカ・リヒトさんです。私の妻になる女性ですので、あまり脅かしたり、じろじろ観察したりしないでください」

 一番脅かしたりじろじろ観察している本人に言われたことに納得いかない節があるが、エリカは黙ってシャルルを見た。

「彼はシャルル・トロッケン子爵です。私の助手であり、教え子、ですかねぇ」

「え? ロペルス王子は先生もしているの?」

 彼の穏やかさは人に何かを教えるのにはとても向いていそうではあるが、王族に師事しようなどと普通は考えたりしないだろう。

「この国で一番熱心に植物を研究されているのは間違いなくロペルス王子ですので、私が教えを乞い、住み込みで研究させていただいています」

 シャルルはどこか誇らしそうにそう言う。

「何より、研究設備が使い放題は大変魅力です」

「シャルルは隠し事が出来ないというか、素直で、本音がただ漏れですので好感が持てますが、時々本気で殺意が沸くようなことまで言います。しかし、本人に全く悪気が無いのが問題です。エリカさんも妙なことを言われるかもしれませんが、極力気にしないであげてください」

 ロペルス王子はどこか彼の保護者のような部分があるのかもしれない。

「無理よ。私もあんまり忍耐強いほうじゃないもの。言われたら倍返しと炎のお見舞いよ」

「……火災には気をつけてくださいね。この国は、燃えやすいものが多すぎる」

 シャルルがぶっきらぼうに言い放つ。

 国土において植物の占める割合が多すぎる。あらゆる建物には蔦が這い、一瞬で火の海になりそうな地だ。

 少し心配そうな表情のロペルス王子と、はやく花の元へ戻りたくてうずうずしている様子のシャルル。

「二人で見てきたら? 私、適当にその辺うろうろしてるわよ?」

 耐えかねてそう告げると、ロペルス王子は一瞬嬉しそうな顔を見せた後、困惑を見せる。

「しかし、折角お招きしたのに案内もしないなど」

「私がいいって言ってるんだから行ってきなさい。その花、とっても楽しみだったんでしょ? それに、ここなら珍しいものも沢山あるし、私も退屈しないわ」

 一人の方が気楽かもと、別に気を使っているわけではないことを強調しておく。

「では、エリカさんも夢想花を一緒に観に行きませんか? 非常に稀少な花で、実を付けることも滅多にないのですよ」

「そんなに稀少なの?」

「私が二十年間休まず世話をしても蕾さえ現れなかったのですよ?」

 笑う彼にエリカは驚く。

「王子自ら温室で植物の世話をしているの?」

「え? ええ。人任せにしては稀少な発見を横取りされる果もしれませんし、自分で育てたほうが愛着が湧きます」

「とかいって、ロペルス王子は人任せにして植物が枯れることを恐れてるだけでしょう? お優しい人だから、庭師の失敗を見ていられないんですよ」

「私が自分で育てた花のほうが美しいですからねぇ。母も、私の育てた花を気に入ってくれますし、喜ぶ相手が居ると一層世話のし甲斐があるというものです」

 どうやら彼は基本的に、庭仕事が好きらしい。

「にしても、そんなドレスで温室に入ってくるなんて、汚れても知りませんよ? 夢想花の周りは舗装してませんからね」

 シャルルはエリカを見て言う。

「おや、困りましたね。是非エリカさんにも花を見ていただきたかったのですが……ああ、お嫌でなければ私が抱きかかえますが?」

 名案だと言わんばかりの嬉しそうな表情でロペルス王子は言う。

 エリカは思わず頭を抱える。

「貴重な発見はお二人で楽しんできて頂戴。私は、このあたりで小さい可愛いお花でも眺めてるから気にしないで」

 丁度すぐ近くに、白くて鈴のような形の可愛らしい花が沢山生えていた。

「それ、熊も瞬殺する猛毒を持ってるので素手で触らないように」

 シャルルが呆れたように言う。

「え? そうなの?」

「花弁には毒はありませんが、葉と茎、根に毒があります。口に含むとかなり強烈な苦味と、激痛が襲います。葉は触れるだけでもかなりの激痛がありますので触れないように」

 王子の説明に、触れるだけでも激痛なのに口に含んだのかと呆れる。

「ついでに加熱しても食べられません」

「食べないわよ。ほ、ほら、あっちにも紫の可愛い花があるじゃない」

「近付くと痺れる毒を撒き散らすので、近付かないように。吸い込みすぎると三日は動けなくなります」

 シャルルが淡々と言う。

「……ここ、危険物しかないの?」

「全て薬効のある植物です。使い方ですね。毒にも薬にもなります。ああ、あちらの赤い果実は朝食にあった恋果ですよ。白い愛らしい花を咲かせます。根に少々媚薬効果のある成分が含まれていますが、口に含まない限りは心配はありません」

 どこに何があってどの植物のどの部分にどんな成分が含まれているのか、ロペルス王子もシャルルも全て把握しているようだ。

 エリカは驚いて二人を見る。

「よくこんな広いところの植物を見てすぐ分かるわね」

「毎日見ていますし、我々は植物が専門ですから」

「このくらい子供でも分かる。クリーヒプランツェじゃ、薬草は生活の一部だ」

 シャルルは不機嫌そうにそう言って、ロペルス王子を見る。

「王子、急がないと花が萎むかもしれませんよ?」

「そうですね。開花からの時間を計れると貴重な情報になるのですが、既に難しいかもしれませんね。エリカさん、本当にお一人で大丈夫ですか?」

「ええ、不用意に何にでも触れるなってことなら大丈夫。ここで大人しくしてるわ」

 エリカはそう言って、少し広まった空間に置かれた長椅子に腰を下ろす。

 丁度円形に開いた空間は薔薇などのエリカにも分かる花を眺めるのに丁度いい場所にあった。

「なるべく白熱しないように気をつけて早めに戻ってきますね」

「ごゆっくり」

 二人が奥へ歩いていくのを見つめながら、エリカは思う。

 レーベンにも温室はあったはずだ。

 エリカの済んでいた城にも、エリカの部屋に飾るための花を育てる温室があった。

 しかし、エリカは一度もその温室に入ったことがない。むしろ、庭師の仕事は汚いと思っていた。

 あんなもの、身分の低い人間の仕事だ。

 けれども、そうではないのかもしれない。

 ロペルス王子は、王位の継承者なのに、自分で温室の管理をしている。

 エリカのあの小さな温室と、城中の庭を管理するのに、庭師が三十人も居た。

 けれども、彼はエリカの住んでいた宮の半分はある温室を三つも管理している。植物の世話も自分でしている。

 それだけじゃない。とても、研究熱心で、民と国のことをとても考えている。

 エリカとは違う。

 少しばかり気持ち悪い趣味を持っていて、変な人かもしれないけど、とても忍耐強くて根気の要る作業を延々と続けられて、人のことを考えられる優しい人だ。

「私には、勿体無い、かも……」

 贅沢ばっかりして、わがままばっかり言ってきた。

 こんなエリカを欲しいと望んでくれる人。

 まだ、知らないことばかり。

 けれども、知れば知るほど、欠点が惜しく、少しくらい譲歩するべきなのではないかとさえ思えるほど、いい人。

 そう、考えたことに、エリカ自身が驚いた。

(私、流されてる?)

 逃げ出すことばかり考えていたのに、今となってはロペルス王子のことをもっと知りたいと願っている。

 彼のことは嫌いじゃない。

 けれども、本当に添い遂げられるのかと訊ねられれば自信が無い。

 あたりを見渡せば、とても手入れの行き届いた空間だと分かる。

 ロペルス王子は本当に、この空間の植物を大切に育てているのだと、詳しくないエリカにもはっきりと理解できた。

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