第8話・大変

「篠塚君! 大変だよ!」

 ある日の昼休み。

 弁当を忘れた僕が食堂の隅っこで一番安いきつねうどんをすすっていると、大橋さんが血相を変えてやってきた。

「どうしたの?」

「あ。ここでご飯食べていい?」

「いいけど」

「じゃあお弁当食ーべよ♪」

 大橋さんは僕の前の席に座ると持ってきたお弁当を楽しそうに広げる。

 小さなお弁当箱には手作りのおかずが詰まっていた。

 おいしそうだ。

 だけど今のところ大変っぽくはない。

 大橋さんは卵焼きをぱくりと食べて、おいしそうな笑顔になる。

「やっぱり卵焼きは甘い方がおいしいよねー」

 僕としては甘い卵焼きは邪道だ。

 って、そうじゃなくて。

「ねえ大橋さん?」

「うん。なあに?」

 大橋さんはもぐもぐしながら首を傾げた。

「いや、大変だって聞いたから、なにが大変なのかなーって」

「あ。そうだ。大変だったんだ。ううん。大変なの。大変なんだよ篠塚君! あ。今のなんかのタイトルっぽい」

 大橋さんは自分で言った言葉に感心している。

「そうなんだ。とりあえず今のところあんまり大変そうじゃないけど」

 僕は落ち着いてうどんをすすった。

 大橋さんの言葉を真に受けていたら一生食事にありつけない。

 大橋さんは冷静な僕につまらないとむっとする。

「違うの。もうとっくに大変なんだよ!」

「誰が?」

「わたしと篠塚君、ううん。世界中の皆が!」

「それは大変だね」

 僕はつゆをたくさん吸ったおあげを半分食べた。

 すると大橋さんは頬をぷくっと膨らませる。

 どうやら僕の反応が予想と違っていたらしい。

 きっと僕は昔のアニメみたいに飛び跳ねて驚くべきだったんだろうけど、人がいる食堂じゃそれもしにくい。

 大橋さんはぷいっと横を向いた。

「もういい。篠塚君には教えてあげない」

 大橋さんは拗ねながらきんぴらごぼうをパクパク食べる。

 一度こうなると大橋さんは大変だ。

 一晩寝て忘れるか、こっちが謝らないと事態は収束しない。

 まだ午後の授業もあるし、ふて腐れ続けられたら面倒なので僕は大橋さんのお話に集中することにした。

「ごめん。ちゃんと聞くから。なにが大変なの?」

「……なんだと思う?」

 大橋さんはまだ信じてないという目で僕を試していた。

 僕は内心溜息をつきながら考える。

「えっと、イースト菌のイーストは東の意味だと思ってたけど違った。とか?」

「ブー」

「野球のフォークとスプリットの違いが分からないとか?」

「違いまーす。わたしがそんなくだらないお話するわけないでしょ」

 大橋さんは益々不機嫌になる。

 ないでしょって……。

 思い当たる節しかないんだけど……。

「……ヒントくれる?」

「ええー。どーしよっかなー」

 大橋さんはまだ不機嫌だという具合に窓の外を見ていた。

 こんなに聞いていても言わないってことはやっぱり大変じゃないはずだ。

 じゃあなんだろ?

 巻き戻しって言葉が分かるかどうかで年齢が分かるとか?

 それとも昔の人はゲームカセットをふーふー吹いてたけど、サビの原因になるからあんまりやらない方がいいとかかな?

 でもそれが大変かと言うと……。

 僕が黙って考え込んでいると、大橋さんは覗き見るように少しずつこっちを向いた。

 膨れていた頬は元の小顔に戻り、なんか悪いことしたかなーと不安そうになっていった。

 大橋さんにとってお話できないこと自体が大変なことなのだ。

 落ち着きのない視線がちらちらと送られる。

 そして最後にはやれやれと可愛く肩をすくめた。

「……もー。しかたないなー。じゃあヒントあげるね」

「うん。ありがとう」

 大橋さんが折れると僕はホッとした。

「ヒントはね…………。…………あれ?」

 大橋さんは首を傾げた。

 …………まさか。

 大橋さんはえっとえっとと焦り出し、それから頭の後ろを掻いた。

「なにが大変なのか忘れちゃった…………」

「僕らと世界が大変なのに?」

 僕が白い目で見つめるけど、大橋さんはけろっとしてる。

「まあ忘れるようなことだから大変じゃないってことだよ。うん」

 それを本人が言っちゃうのか……。

 大橋さんは照れ笑いを浮かべながら僕のうどんに箸を伸ばした。

「ヒントのお礼にそのきつねあげとわたしの卵焼き交換してくれる?」

 突然のトレード要請だけど、僕はあまり驚かなかった。

 一々驚いてたら大橋さんの話し相手は務まらない。

「ヒントもらってないけどね。でもこれ食べかけだよ? いいの?」

「じゃあ」と言って大橋さんは卵焼きをちょこっとかじった。

「これでおあいこってことで♪」

 大橋さんは卵焼きをお弁当の蓋にのせ、僕のおあげをぱくりと食べた。

「はむ♪ うーん、おいしー♪」

 大橋さんは一切の躊躇なく僕の食べかけおあげを食べてしまった。

 僕は蓋の上に置かれた卵焼きを箸で掴んでみた。

 ちょこんとだけ食べられたそこに大橋さんの口が当たったことになる。

 変に意識すると胸がどきどきと高鳴った。

 顔を上げると大橋さんの視線とぶつかる。

 大橋さんは不思議そうに小首を傾げた。

「食べないの? 甘い卵焼きって苦手?」

「……ううん。食べるよ」

 僕は促されるように卵焼きを口に運んだ。

 きっとこれほど緊張しながら卵焼きを食べることは死ぬまでないだろう。

 食べてみるとやっぱり甘かった。

 でもいやな甘さじゃない。

 そしてなにより感想を期待する大橋さんの顔を見てるとドキドキする。

「どう?」

 大橋さんの質問に多少混乱気味の僕はこう答えた。

「大変な味がします」


 追記 その後、大橋さんはリベンジと称してなにかと卵焼きを食べさせてきます。

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