第6話・境界線

 僕の家は隣の市と隣接した町にある。

 帰宅する僕の隣にはさも当たり前のように大橋さんがいた。

 歩くたびに大きな胸が揺れるので、視線をそっちに引っ張られないようにしなくちゃいけない。

 お話がお好きな大橋さんは今日もきょろきょろと辺りを見渡し、「あ」と声を上げる。

「ねえねえ篠塚君♪」

「はい。なんでしょう」

 僕が隣を向くと、大橋さんはトコトコと歩いていき、鉄柱をぽんぽん叩いた。

「これこれ♪」

 鉄柱にはN市と書かれた青い看板がくっついている。

 楽しそうな大橋さんには悪いけど、僕にとっては見慣れた標識にしか見えない。

「標識? あ。分かった。標識って誰が作ったのかってこと? それは多分国交省が――」

「そうじゃなくてこっち!」

 僕の指摘は外れていたらしく、大橋さんは足下をトントンと踏む。

 僕は首を傾げた。

「……タップダンス? 座頭市?」

「ちがーう!」

 大橋さんは頬を膨らませてかぶりを振った。

 そして右手で鉄柱を握ったまま左腕を広げた。

「こーれ! 境界線です!」

「はあ……。境界線……。それがどうかしたの?」

 僕としては見慣れた光景なので大橋さんが何を言ってるか分からない。

 大橋さんは境界線の奥へ行ったり手前に行ったりした。

 観光客が県境とかでやるやつだ。

「こっちがK市でこっちがN市でしょ?」

「うん。そうだね」

「じゃあ、ここは何市?」

 大橋さんは境界線の真ん中に立って首を傾げた。

「……え? えっと……どっちだろ?」

 僕も再び首を傾げる。

「今わたしは何市にいるの?」

「それは……」

「あなたはどの市にいるのですかって聞かれたらなんて答えたらいいの?」

「えっと……」

「わ、わたしは今ちゃんと存在してるの?」

 自分で言ってて不安になってきたらしく、大橋さんは涙目になって鉄柱を抱き、ぷるぷると震えだした。

「大丈夫だって。大橋さんはちゃんと存在してるから! 僕が保障するよ!」

 それを聞いて大橋さんはようやくホッと一息ついた。

「よかった……。地球上から消えちゃったかと思ったよー」

 大橋さんは確かめるように自分に胸を揉んだ。

 女の人って自分の存在が不確かだと胸を揉むんだ……。

 いや、多分これは大橋さんだけだな。

 大橋さんはまたなにか思いついた顔をした。

「……あ。今わたしが怪我をしたら、どっちの市の救急車が来てくれるの?」

「え? それは多分…………どっちだろ?」

「きっとあれだよ! たらい回しだよ! こっちの管轄じゃないからって回されるんだよ! 世の中のたらい回しはみんな境界線で起きてるんだよ!」

 大橋さんは再び震えだした。

 どうしてそう次々と不安を探してこれるんだろう?

「落ち着いてよ。多分世の中のたらい回しは受け入れ体勢の不備のせいで起きてるから」

「なんで受け入れ体勢の不備が起きるの!?」

「きっと行政が時代についていけないんだってこんな話はどうでもいいよ」

 僕は大橋さんに近づき、手を伸ばした。

 大橋さんは震えながら手を取り、こっちへとジャンプする。

「助かったぁ……」

「大袈裟だなぁっておっと!」

 大橋さんは涙目で僕に抱きついてきた。

 大きな胸が僕にぶつかりむにゅりと形を変える。

 僕はなんとか平常心を保とうと頑張った。

 たかが境界線一つでこんなにはしゃげるのは世界広しと言え大橋さんくらいだろう。

 少しして落ち着くと、大橋さんはハッとして僕から離れた。

 そして頬を染め、口を尖らせる。

「い、今のはあれだから……。助けてのハグ。だからなし。ノーカン!」

「よく分からないけど、うん。いいよ。ノーカンで」

 僕が頷くと大橋さんは安堵した。

 かと思えばまたハッとして境界線を見つめる。

「わたし……、すごいこと思いついちゃったかも……」

 これ以上すごいことってなんだろう?

「嫌な予感しかしないけど、なに?」

「あのねあのね。境界線がどこでもない場所だとするでしょ?」

「うん」

「だったらここをわたし達のものにしちゃうの」

 無理だと思うけど……。

「……うん。それで?」

「大事なのはここからだよ」

 大橋さんは真剣な顔で僕をびしっと指差す。

「この境界線をね」

「うん」

「内緒で太くしちゃうの」

「……え? ……あ」

「そしたら日本中、いや世界中がわたし達のものになっちゃうんだよ!」

 大橋さんは目をキラキラさせながら両腕を広げる。

「……確かに全部の境界線を僕らのものにしたら可能……かな?」

 なんだかすごくスケールの大きな話だ。

「でしょ! もしそうなったらわたしはお菓子屋さんに住む♪」

 いきなりスケールが小さくなった。

 大橋さんは笑いながら境界線を跨いだ。

「この作戦は二人だけの秘密ね? 知られたら奪い合いになっちゃうから」

「……うん。分かったよ」

 本気で言ってるのかどうか分からないところが大橋さんの大橋さんたる所以だ。

 僕は苦笑しながらも大橋さんに続いて境界線を跨いでふと思った。

 こんなあるかないかよく分からないもので世界は区切られている。

 もし境界線がなくなったらこの世界はどうなるんだろう?

 僕は想像したけどよく分からなかった。

 そうなったら楽しみなような、でも怖いような気もする。

 きっとこれは必要で、ないと困るんだ。

 でも本当はない方がよくもある。

 境界線自体が境界線になってる皮肉に僕はやっぱり苦笑した。


 追記。境界線はその線に面する両者のものであるらしい。

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