第5話・しおり
ある日の昼休み。
図書委員になった僕は図書室で本の上に積もった埃をはたきでは落としていた。
教室にいてもどうせひとりぼっちだし、やることもないので暇つぶしだ。
それにしても古い本の匂いってどうしてこう独特なんだろう。
かび臭いと感じる人もいるだろうけど、僕はこの匂いが好きだった。
横に横にと進んで行くと、肘に柔らかい感触が襲った。
「え?」
驚いた僕が隣を見ると、大橋さんが顔を赤くしてむっとしていた。
「もう……。篠塚君ってば……」
大橋さんは大きな胸を掬うよう持ち上げる。
まさか、いまの感触って…………。
「ご、ごめんっ!」
僕は慌てて身を退いた。
「最近気にしてるんだから、あんまり触らないでよ」
大橋さんは自分のお腹をもにゅっとつねった。
なんだお腹か……。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
それと同時になんだか損した気分にもなる。
服の上から見る分には太ってるどころか痩せてるように見えるけど、まあこういうのは本人にしか分からないか。
大橋さんは本を一冊とってパラパラとめくった。
「わたし本読むとすぐに眠くなっちゃうんだよねー」
「そういう人って多いよね。僕はそうでもないけど」
「だから好きな本でも読むのに時間がかかっちゃうの。本当はもっと読みたいのに、どんどん意識が遠のいてって、気付くと寝ちゃってる。あれはもう魔法だよ。催眠魔法!」
そんなに?
僕は苦笑しながらもはたきをぱたぱたやっていた。
すると大橋さんはなにか思いついた顔になる。
大きな目を輝かせ、口を三角にするあのお話顔だ。
「ねえねえ篠塚君♪」
「なに?」
もうこのねえねえにも随分慣れてきた。
「しおりって、誰?」
「へ?」
誰って……え?
僕は混乱してるのに大橋さんはお構いなしだ。
「だって本を読むのを中断する時ってしおりを挟むでしょ?」
「うん。まあ……」
「だからそのしおりって誰なの?」
「誰って……。いやそういう名前のものとしか……」
「でもそれなら『本留め』とか『ザ・ワールド』とかそんな名前でもいいじゃない? なのにしおりって全然しおり感がないよ!」
「……言われて見れば確かにしおりにはしおり感がないかも」
「でしょ? きっとこれ人の名前なんだよ。しおりさんが作ったからしおりなのに一票。ドーナツみたいに」
いや、そもそもドーナツさんは存在しないから。
「う~ん。でも作ったからって自分の名前にするかな? その方式だとうどんはうどんさんが作ったことになるし」
「たしかに。パンツはパンツさんが作ったことになるね」
大橋さんは腕組みしてうんうんと唸った。
この子はちょくちょくトラウマを抉ってくるな。
それにしても腕を組まれると大きな胸が強調されて目のやり場に困る。
しばらく唸っていた大橋さんはなにか思いついたと人差し指をぴんと立てた。
「分かった!」
分かっちゃったか。すごいな。
「きっとこうだよ。まずしおりを作った男の人がいてね。これの名前どうしようって悩んでたの。『画期的なものを作ってしまった。俺は俺の才能が怖いぜ』とかいう感じの人」
たかだが本に挟むだけのものを作ってそこまで自分に才能を感じるその人が怖いよ。
「でねでね? その人はずっと悩んで、ある日恋をするの!」
「あ! その人がしおりさん?」
「違います」
違ったか……。
話の腰を折られた大橋さんはぷうっと膨れた。
「恋人の名前は別の、えっと結衣ちゃんとかでいいや。で、結衣ちゃんと発明家の間には可愛い女の子が生まれるの」
「あ! その子が――」
「違います」
「違うよね。うん。ごめん」
大橋さんはまたぷっくりする。
「その子はえっと、カオスちゃんとかでいいや」
いきなり現代っぽさが出てきた。
「で、その発明家と結衣ちゃんは可愛いカオスちゃんと仲良く暮らしてました。そんなある日、発明の特許で得た莫大な利益を目当てに女の人が近づきます。これがしおりさん」
ようやく登場した。
「え? それってつまり愛人ってこと?」
「そうそう。男の人って一時の感情で大事な家庭を捨てちゃうでしょ?」
大橋さんはじとりと湿った目で僕を見る。
「ぼ、僕はそんなことしないよ。けっこう一途だし……」
「まあ、その前に篠塚君はモテないだろうけど」
言葉のナイフが胸にグサリと刺さる。
大橋さんはイタズラっぽく笑って続けた。
「ともかく、このしおりさんって人が悪い女なの。でも男は馬鹿だから色目を使われてぞっこんになっちゃう。そんなある日、しおりさんは言うの。『私はあなたと結婚できなくてもいいわ。でも、私を愛してるって証拠が欲しいの』って」
なんか昼ドラみたいな展開だなぁ……。
「この泥棒猫の言うことを聞いちゃう発明家がまだ名前の決まってない発明に彼女の名前をつけた。それがしおりです。家庭という名の本の間に挟まる邪魔な存在。しおり」
「しおり……」
「しおりです」
変な空気が流れた。
ふと顔を上げると誰かが刺しっぱなしにしたしおりが本に挟まっている。
なぜだかドキドキした。
「ちなみにわたしは浮気する男の人が大嫌いです」
……なぜだかドキドキした。
追記 しおりの語源は枝折る。『し』を『おる』にあり、元は道に迷わないように枝を折ったことにあるそうです。
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