彼女は強くてかわいい子

ヤツハシ

1. 因縁

 ほのかに甘く香るハイキックの閃きと共に、俺は膝から、硬く冷たいコンクリートの舗装へと崩れ落ちた。

 その目からはもう落ちてくる涙も涸れ果てて、ただただ辛い現実を受け入れる以外に選択肢はあり得なかった。

 暗くなっていく視界の縁で、彼女が既に表情もなく、何事かを呟くのを見て、そして聞いた。自分をこんな目に合わせた悪魔の囁き―――せめてその囁きだけはしっかり記憶に刻んでおこうと思ったのだ。



「―――今度はきっと、本気で相手してね、トモヤ君……」



 *************************************


 きっかけは全く「青天の霹靂」という言葉がふさわしかった。

 

 サークルの会合をいつもの飲み屋で終わらせた後、俺は自転車を押して、まだ行き交う人の多い繁華街の交差点を渡ろうとしていた。

 少しく飲み過ぎたのか、歩行者用信号の緑色のLEDライトと、その向こう側のカラオケボックスの看板の白色光の輪郭がぼんやりとぼやけて見えていた。

 交差点の向こう側には市内を縦断する大きな川が流れているが、交差点の喧騒にかき消されてその流水の音は聴こえてこない。

 

 この分だと、交差点を渡り切って、周りに人が少なくなっても自転車に乗るのは危ないなと直感的に思った。

 もとより飲酒運転。しかし日本の大学生のなかで、そのことを気に留めている人はあまりにも少ない。自動車に比べれば、スピードも出ていないから。痛ましい死亡事故が実際に起きていることは知識として頭の中にはあるが、その意味が本質的には身についていない。

 俺だって例にもれない。所詮はそんな若者。自分が今、その両手で制御している「自転車」という道具。それで誰かを傷つけたり、傷つけることによって自分が傷ついたりすることは、自分には起きない他の世界の現実だと、思っていた。



「……うあっ!」


 まずは女性の声。

 ほどなくして、何か重いものにぶつかったような、鈍い振動が、ハンドルを握る両手から伝わってきた。

 ちょうど交差点を渡り終えて歩道に入ったところ。上がパーカー、下がデニムのミニスカート姿の、茶髪の若い女の子が尻もちをついて、歩道脇の植え込みの中に座り込んでいた。


「あっ……と、すみません……大丈夫ですか……」


 大事をとって、自転車にすぐ乗ろうとしていなくて良かった。ただ自転車を押しているだけなのに、人にぶつかってしまったようだ。純粋に申し訳ない気持ちになり、自転車のスタンドを立てて、彼女の手を引いて立ち上がらせようとした―――


 瞬間、彼女は自分で素早く立ち上がり、いきなり紺のシャツの胸倉をつかんできた。

 彼女の身長は俺よりも頭一つ分小さく、彼女は顔をこちらへ上げず胸の方へ目を向けているので、自然と彼女のつむじを見下ろす形になった。

 俺は予想もしなかった展開に驚き、無意識のうちに左脚を後ずさった。その瞬間。


 今度は俺の方が尻もちをつかされていた。


 彼女は握った胸倉を放していなかった。先ほどまでと立場は逆転し、俺が見上げる番になった。


 彼女は背中から街灯の明かりを受けていてその表情ははっきりとは読めなかったが、どうやら……笑っているらしい。それは、その後に発せられた言葉の声色からも伺えた。



「……やっと会えた。嬉しい」



 *************************************


 やっと会えた、と言われても、俺にとってその顔は見知ったものではなかった。

 立ち上がって確認しても、やはり身近な人物ではなさそうだった。


「えっと、あの、ごめんねほんとに。怪我とかなかっ」


 言い終わる前に、彼女のまくられた左腕が差し出された。白い前腕のちょうど真ん中辺りから、細く赤い筋が流れ落ちていた。


 ずっと胸倉は掴まれたままだ。


「怪我、あるよ。これ、どうする?」


 見た感じ、そこまで重い傷ではなさそうだ。おそらくは植え込みの中に倒れる際に、植物の枝が刺さって切ったのだろう。

 そして先ほど素早く立ち上がった様子から見て、どこか体の他の部分を捻挫したり、骨折したりしているということもないと思われた。

 しかし小さくても、この子に怪我をさせてしまったのは事実である。


「……ごめんな。今の時間でも開いている病院、あるかな。とりあえずちょっとそこのドラッグストアで消毒液を買っ」

「いい。そんなのいらない」


 彼女はかぶりを振った。そして次にこんなことを言い出した。


「それより、私の頼みを聞いてよ。私が反撃する機会を、ちょうだい」


 反撃する、機会?

 まず日常生活で『反撃』という言葉を使う場面がそうそうない。ましてや『反撃する機会』は、より聞き慣れない日本語だ。


「……待て待て。なんだよそれは。とりあえず消毒するからそれまでどうか待っ」

「だめ。反撃する機会がこの怪我の落とし前。だから、今からあなたは私と戦うの」


 好戦的な物言いとは対照的に、口元はずっと緩んでいる。そのアンバランスさが不気味だった。ましてや、その因縁をつけてくる相手は、自分よりも年下かもしれない、『普通の』女の子なのだった。

 不気味さと、いつもと違う非日常的な出来事の連鎖、そして微かなアルコールの残滓によって頭がくらくらしそうだった。


「……あんた。一体何がしたいんだ」

「私は、私の力があなたにどれだけ通じるかを確かめたいの。ね、いいでしょ……」


 ―――どうやら、ぶつかったのはだったらしい。

 本当のところ何を考えているのかは全く計り知れないが、因縁をつけて、俺と喧嘩したいということなのだった。

 女の子の当たり屋……聞いたこともなかった。新手の美人局なのかもしれないとも思ったが、こんな回りくどいことはしないだろうし、現に彼女の周りには全く協力者の影はなかった。

 完全な1対1。自分は男で相手は女。普通に考えれば、適当にあしらってしまえばそれで終わるような関係に思える。だが、わざわざ相手からふっかけてきた辺り、何かの格闘技に覚えがあるのは確かなようだ。

 胸をつかみ、小外刈りで俺を転ばしたところから考えると柔道かもしれない。しかし何故俺に喧嘩など。


 疑問だらけの様子が顔にも浮かんでいたのだろうか。

 彼女は俺の胸倉からようやく手を放すと、小走りで交差点から離れる方向へと駆けていき、少し進んだところで振り返って、右手は川にかかる橋を指さし、左手で俺を手招きした。


「ほらほら、こっち!この橋の下で待ってるからね!」


 言葉ではなく、拳を交えればいろいろな疑問も解けるのであろうか。

 相手が与しやすそうな女性であることが、かえって嫌な予感を掻き立てる。



「……まさか女の子との勝負から、逃げたりなんて、しないよね?」



 明らかに挑発であるが、そこまで言われると仕方がない。俺は呼ばれるままに、自転車のスタンドを蹴って再び押し始め、橋の方へと歩を進めていった

 

 それが俺の心をすり潰してしまう、悲劇の始まりであったとも知らずに。

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