第52話 指標になりうる顧客



5月20日2時

「おい、全員で三星ベルト買ってもらえ。すぐに倍になるからと言え」三田支店長の叱咤が飛ぶ。

「今日は各課で三星ベルト一本な、すぐに電話して買わせろ!」

支店内に3つある営業課の各課長がオウムのように同じ内容を繰り返す。

そして一斉に客先に電話をかける営業マンたち。まあいつもの光景である。

「おい、大田。井上さんにはもう電話したか?」大久保代理が聞く。

「はい」

「で、どうだった?」

「あ、5000株買ってくれました」

「そうか・・・カラ売りやナ」

「おい大田、井上さんは買ったのか?」他の課の営業マンがまた聞きにくる。

「はい、買いました」

「そうか・・・ということは様子見やな」


この井上さんという汽船会社の部長さんが今回の話の主役である。


そもそも証券マンは3年目くらいになると400から500名の顧客数を持っている。どの顧客も「儲けたい」という気持ちで一杯の権化のような集まりである。「損をしたい」客は当然0である。


しかしこちらサイドから眺めていると悲しいかな500名の中で全然ツキのない顧客が存在する。それは人間なので時には儲かり時には損をするのが当たり前であるが、母親のおなかの中に「ツキ」を置き忘れてきたような顧客がたまーにいるのである。


井上さんは気のいいおじさんなんであるが一度も儲かったことがない。こちらが「○○株行きましょう!上がりますよ」と言っても「いや、もう少し様子を見る」と言っている間にぐんぐん上がり続けて行き、忘れたころに井上さんから連絡があり「やっぱり買うことに決めた」と言って買った日を境に昨日までの急騰ぶりがうそのように暴落していくのである。見事としかいいようがない。まさに名人芸であった。


しかも暴落して何ヶ月間も塩漬けにした後に業を煮やした井上さんが「もう、損切りして新しく別の株を買うよ」と言って売ったとたんに、神様がどこかで見ているのであろうかと言うほどのタイミングで急騰するのである。

この一番高値で掴んだ株を一番安値で投げる行為を証券会社用語で「ジャンピングキャッチ&アンダースロー」と呼ぶ。野球ならスーパーファインプレーなのであるが株の世界ではドツボを表す。


株の世界では「当たり屋につけ」という格言がある。つまり勝っている人間に乗っかれというわけであるがさっきも言ったととおり勝ち続ける人はそんなにもいない、すなわち不安定なのである。


しかし井上さんは負ける!確実に負ける!見事と言っていいほど負ける!

この能力は裏を返せば非常に貴重である。なぜかというと単純に井上さんの逆をやれば儲かることになるからである。

つまり彼の売り買いこそが完全な指標である。


いつごろかこの噂は他の支店の連中の耳に入ることになりいつも新銘柄を仕込む指示が出た後には各支店から太田君に電話が入るようになった。


あなたの周りに「井上さん」いませんか?もしいたら貴重な情報源なので大事にしてください!

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