日英同盟
世界史上これほど奇異な同盟は未だかつてなかったであろう。
ここでこの同盟が成立した状況を述べなくてはいけない。
本同盟が締結した1902年当時のイギリスと日本の国力差と国際的な立ち位置はまさに『月とスッポン』以上の隔たりがあった。
まして一方は白人種、片方は黄色人種、対立するこの2つの人種間で結ばれた初の同盟がこの日英同盟であった。
ここでその不可能を可能とした史実を挙げるために一人の人物の名を出さねばならない。
『柴五郎 中佐』
1860年会津若松藩生まれのこの男がいたからこそ当時不可能と言われた日英同盟が1902年に結ばれた、このことは今の日本で語られることがまずない。
時に1900年
舞台は北京
当時北京には英国を含む11カ国(日本、イギリス、アメリカ、ロシア、ベルギー、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、スペイン、オランダ)の領事館があった、各領事館は租界地という同じ限られた地区内に領事館を設けていた。
もちろん日本領事館もその中にある。
中国大陸では当時義和団という徒手空拳でもって威力を誇示した武闘派集団が北京周辺に存在していた。
彼らは古の諸葛亮孔明を崇拝し「扶清滅洋」をスローガンに日清戦争に負けた清王朝を最後まで支持して列強各国の在北京領事館を襲撃する企てを暖めていた。
日本の幕末で言うところの西洋列強に対抗する攘夷運動と同じ考え方である。まず手始めに義和団は北京と外港であった天津をつなぐ鉄道を爆破してこれを破壊した。このことによって北京市内の各領事館は外界と孤立状態になった。
1900年5月、外界から孤立した11カ国の領事館が20万余という義和団によって一斉攻撃を受けた。
これを迎え撃つ各国の守備兵の人数は全部の国を合わせてもわずか500名というあきらかに劣勢の状況であった。
その中で英国領事館を最期まで少数の部下で守り通したのが柴五郎であった。
当時イギリス領事館には女子供を含む一般市民も多く避難していた。
各国から来た兵士たちがほとんどもうあきらめかけていた中で最期までサムライ魂で迫りくる義和団兵からイギリス一般市民を守りきったのはこの柴五郎の部下の安藤大尉の部隊であった。
柴五郎は北京大使館に赴任して6年になる、つまりほかの10カ国の司令官よりも在北京の滞在期間が一番長くまた中国語が堪能だったので地元の「地の利」と「人の和」を築き上げていたのである。
柴五郎は義和団の包囲網が縮まる中での司令官会議中は彼は新興国である日本の立ち居地をよく理解して一切の積極的な発言を控えた。
しかし次第に戦況が不利になるにつれ、あわてふためく他の国の司令官たちの中で一番冷静であった柴五郎の落ち着いた態度と理論的な作戦が彼の意思とは関係なく次第に会議の場の中心となっていった。
彼は各領事館を放棄して背後の北京城に篭城するようすすめ各国の部隊に守備のための的確な配置を与えた。
篭城戦の不利は味方の弾薬の数が限られていることにある。
無駄玉を使わせないために柴五郎はわざと負けたふりをして敵を北京城内に誘い込み、敵で広場が充満したときに一斉射撃で殲滅させるような作戦を展開した。
柴五郎は篭城戦というものを今までに2回経験していた。
1度目は戊辰戦争の末期、政府軍が会津若松城を攻めたときのことである。当時の彼はまだ10歳であった。
父や兄たちが包囲された若松城に立てこもり最後は銃弾が尽きて降伏するのを見ているのである。
そのとき彼は幼少であったために山菜取りという名目で山の中に避難させられており、帰ってきたら母親や姉たちが男たちの足手まといになることを察して自害しているのを見た。
柴は篭城の悲惨さを身をもって知っていたのである。
2度目は海軍の秋山真之とともに駐米武官としてアメリカにいたころにスペインとアメリカの米西戦争に従軍している。
このときのキューバ島のサンチアゴ要塞の閉塞戦とその後孤立した要塞がいかに脆かったかをこの目で見てきている。
いずれにしても後世に「北京の55日」という有名な映画にもなったこの戦いは各国の正規軍が援軍として到着するまでの2ヶ月間を柴五郎が中心となって篭城して凌ぎきったのであった。
また絶え間なく聞こえてくる爆撃の音で怯えるイギリスの婦女子たちに気を使いユーモアを交えて明るく接する柴五郎にすべての一般市民はこの上も無い信頼感を持ったのであった。
当時のイギリスは、膨張するロシアの満州などへの権益確保に対して攻撃的であった。その中で東洋の国の日本がその尖兵となってこれを阻止することはお互いの国益にかなっていた土壌がすでにあったのである。
しかし「崇高なる孤立」をモットーとして今までどの国とも同盟関係を構築しなかったイギリスにとって単に利害が一致するからという理由だけで最近近代化されたばかりの日本と同盟を結ぶことは考えにも及ばなかった。
つまり信用するに足りるかどうかわからない新興の東洋の国との同盟は躊躇されたのである。
そこに柴五郎率いる日本陸軍の北京での奮戦を目の当たりにしてイギリスは日本を真に「信用するに値する国」との判断を下したのである。
柴五郎中佐は義和団事変のあと、その勇気ある行動に対して10カ国の国から勲章を授与された。
これによってロンドンタイムス紙は「軍人の中の軍人、コロネル・シバ」と絶賛し彼の名前は明治時代初期に初めて明治天皇や伊藤博文などよりも世界中で有名になった日本人なのである。
しかしこのことが日本国内であまり知られなかった理由はかれは薩長を中心とした新政府から見ると逆賊の会津藩出身であったからであった。
誠に残念である。
また当時のイギリスは1850年から50年間の時間を費やして情報収集のために世界各地を海底ケーブルで結んでいた。今で言うところのインターネット網の構築である。
北京で起こった出来事はこの海底ケーブルを伝わって瞬時にイギリス本国に打電された。
一方日本国内では戦時の情報伝達にいち早く取り組んだのが前述の児玉源太郎である。
彼は戦時中の命令伝達のために大本営のある東京からまず福岡まで電線を巡らせ、その後壱岐そして対馬を経由して釜山まで海底ケーブルを引いて繋いだのである。
その後は釜山から陸路でソウルまで繋げ、続いてピョンヤンまでこの通信網は完成した。そして日英同盟が締結するとピョンヤンから北京までを繋いでイギリスの既存の通信網に繋いで東京とロンドンまでが直通したのである。
日本はこの同盟によってまさに「タダ」でイギリスの情報網を使う事に成功したのである。
この物語のイギリスによる各港でのいやがらせや、バルチック艦隊の各港の動向把握はすべてがこの海底ケーブルによってもたらされた情報によるものである。
日本はまさに当時世界最高の情報インフラを児玉源太郎の発案でこの同盟によって手にしたのである。
ちなみにイギリスの相手国のフランスはこのような情報網の重要さに全く気がつかなかったので当然情報インフラは世界に持ってはいなかった。
ましてロシアに至っては想像に難くないであろう。そう考えると情報戦として日露戦争の帰趨は最初から決まっていたように思えるがいかがなものであろうか。
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