焦燥


一方日本海軍のほうに話を移す。


日本海軍はバルチック艦隊の動向について昨年10月にリバウ港を出発して以来常に情報戦を展開してきた。


もちろん情報源のメインは日英同盟のよしみでもたらされる世界中に耳と目をもつイギリス情報部であった。しかしマダガスカル島を発った後の艦隊は、最後にマラッカ海峡からシンガポールに向けて航行する姿を4月8日に見たという報告のあと、ぷっつりと消息が途絶えていたのである。


おそらく海軍の補給の常識と露仏同盟関係から「次はフランス領ベトナムのどこかの港」との予測は立っており八代六郎中将率いる艦隊にサイゴン、ハイフォンなどベトナムの沿岸沿いの町に情報網を張っていたが有力な情報が無いままにいたずらに日が過ぎていたのである。


「いったい露助の艦隊はどこに行ったのだ?」


「我々に怖気づいてロシアに帰ったのではないか?」


「いや日本を大きく迂回しているのではないか。」


バルチック艦隊の目的が「ウラジオストックと旅順にいる太平洋艦隊と合流して日本海軍を殲滅すること」はわかっていたがこの大遠征の途中において合流すべき太平洋艦隊は全滅していたのである。おそらく洋上にいる彼らもこの情報をどこかで手にしていたと推測されるので彼らの目的そのものが変わった引き返す可能性もあったのである。


歴代日本海軍の中で最も智将といわれた秋山参謀は、毎日の日課のようにバルチック艦隊が日本海に現れてからの戦い方を100万回も頭の中で繰り返していた。彼は海軍兵学校の同期の友人である小笠原長生から教えられた彼の家に伝わる能島水軍の攻撃方法を模倣して7段構えでの敵の殲滅方法を編み出していたので必ず勝つ自信はあった。また彼自身が発案した4個の機雷を100mのワイヤーでつなぎ海流を計算して放流し相手の艦を攻撃する新兵器「連携機雷」にも自信があった。よって彼は100万回シュミレーションをしてもバルチック艦隊に負けるイメージは湧いてこなかった。しかし肝心の敵がどこにいるのかわからないようでは話にならない。


秋山の考える一番悪いパターンは敵は日本艦隊の目を盗んで太平洋を大きく迂回して、もうすでにウラジオストック港に到達しているのではないかという考えであった。


こうなってしまったらウラジオストックを根拠地にされて日本列島の周辺の制海権は握られてしまい、連合艦隊は日本本土から大陸に送る物資や兵員の輸送船の護衛に専念しなければならない。


そう考えて秋山参謀はあらかじめ日本列島の周辺を碁盤目のように区切って何百という数の漁船を改装した偵察船を配置して情報を得ようと試みていたがどの区域からも一向に知らせが入ってこないのである。あれだけの大艦隊が人目を避けて秘密裏に航行できるはずがないのだが4月8日にシンガポール沖で確認された以後は音信がぷっつりと途絶えている。


ある日焦燥感にさいなまれて艦橋にて考え込む秋山を見て東郷平八郎は言った。


「秋山参謀長そう悩むな、敵は予定通り対馬に来る。」


「長官、なぜそう言いきれるのですか?」


「なあに、おれの運と勘だよ。」


「運と勘・・・でありますか。」


「ああ、おれはきわめて運と勘のいい人間でな。とにかくおれの幕僚になったからにはおれの運と勘を信じろ。だからお前は敵さんが対馬に来たときのことだけを集中して考えるように。」


「わかりました。」


と幾分気持ちが楽になって答えたものの秋山は

「何千万という日本国民の命を一人の人間の運と勘に頼っていいものなのだろうか。」

という思いは拭いきれなかった。


しかし古来から歴史に名を残した大将軍には実際の能力とともに他を寄せ付けないある種の特殊能力が存在していたように思う。


同じだけの武芸の技量を持ちながら他の将軍を差し置いて頂上に上り詰めるからには当然の事ながら何か他の将軍たちと違う点がなければならない。その点東郷は自分自身でも感づいていたのであろうが運もいいし勘もいい提督であった。


東郷には逸話が多い。


日露戦争が始まる10年前の日清戦争の劈頭であった、東郷はその時は巡洋艦浪速の艦長をしていた時の話である。


黄海を航行している浪速の前に清の陸兵と武器を満載したイギリスの商船が現れたのである。この船は高陞号(こうしょうごう)といって清国が兵員輸送船としてイギリスからチャーターしたものであった。東郷はこの船に対して停船命令を出してすぐに臨検のために仕官を送り込んだのであるが甲板上で乱闘が始まったのである。


戻ってきた士官の報告を受けた東郷は抵抗するこの船を魚雷で撃沈することを決めた。戦艦と商戦では相手にならない。


1発の魚雷が高陞号につきささり轟沈してしまった。イギリスの船長や航海士は救助されたが多くの清国の兵は船とともに海の藻屑になってしまった。


この事件は有名な「高陞号事件」といい、この報を受けたイギリス政府は「無抵抗な商船を戦艦が攻撃して沈めるとはなんとう野蛮人たちだ!」と日本政府に猛抗議したのであった。


しかしその後、東郷のとった行動は国際公法に照らしても違法性がないということがわかり当のイギリスも認めたのでる。


東郷は若いときに公費でイギリスに渡り国際公法の勉強していたので彼はこの行動には自信があったのである。

しかし日本国政府は当時の日本のおかれていた立場からひやひやしてことの成り行きを見守っていた中、処罰の対象候補となっていた東郷は処罰どころか「冷静に国際公法を守った武人」として逆に賞賛されることになったのである。


強運である。


強運といえばそもそも現在彼が連合艦隊司令長官の椅子に座っていること自体も彼の運のよさの現れである。


もともと日露戦争が勃発する前の常備艦隊司令長官は同じ薩摩出身の日高壮之丞大将であった。


常備艦隊司令長官とは平時の呼び名でそのまま戦時に移行したら呼び名が変わって「連合艦隊司令長官」となるのである。


日露間の風雲急を告げる時期に、ある日日高は階級が下の山本権兵衛大佐に呼び出される。山本は同じく薩摩出身であったがこの時は自分の出身の薩閥の海軍を梃入れするための刷新人事に奔放されていた。


彼は単に薩摩出身というだけで何の勲功もない大先輩に当たる将軍たちをまるでゴミ箱に捨てるようにバッサリ切り捨てていたころの話である。


日高は山本の呼び出しをてっきり日露開戦時の連合艦隊司令長官の指名と思い込んで喜んで彼の部屋に入った。


そこで山本は大先輩の日高に対して連合艦隊司令長官不適任の烙印を押されてしまった。日高は激情して持っていた短剣で

「山本、こんなに恥をかいたのは生まれて初めてだ。黙ってこの短剣で俺を刺し殺してくれ!」

と哀願したのである。


「ところで俺の後任は決めてあるのか?」

と言う日高に対して


「はい、後任には舞鶴鎮守府の東郷平八郎を考えています。」

と答えた山本に対して


「他のやつに負けるのはともかくなぜあのでくの坊の東郷に俺が負けなければならない!」

と詰め寄ると


「東郷さんは大本営の命令を忠実に守る人だ、しかし貴方はその場の自分の判断で動く性格だ。近代戦というものは確実に海軍も陸軍もチームプレイに変わる。中央の司令を着実に守る人間ほど信頼できるものはない。」という山本の言葉に日高は納得したという話である。


新しく連合艦隊司令長官に決まった東郷の推挙の理由を明治天皇が山本に尋ねた。


明治天皇もそのまま日高が長官になると思っていたからである。


山本は一言


「彼は運のいい人間ですから。」

と説明した。


いずれにしても舞鶴鎮守府にいた閑職の東郷が山本権兵衛という触媒に触れて時代の晴れ舞台に再登場したのである。


これを強運と言わずしてなんと表現したらよいのであろうか。


秋山も連合艦隊内ではかなり変人と思われた人物であったがこの東郷平八郎という男はその変人で鳴る秋山も一目置くほどの大変人であったと思われる。


しかし世の中は凡人が評価できない変人ほど大きな仕事を成し遂げている事実は歴史を振り返っても明らかである。


いずれにしてもカムラン湾を抜錨して今から日本に向かってくるバルチック艦隊は好むと好まざるとに関わらず、この日本を代表する2人の大変人の指揮する日本海軍連合艦隊と戦う運命が待っていたのだ。

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