無題
雨霧 夕
「どこへ行こう」
ぽつりと。誰かに聞かせるためではないような微かな声だった。おそらく独り言だったのだが、それに気付くより先に、反射的に私の喉は え、という音を発していた。やはり独り言だったらしい。私の声が自分の言葉に対するものだと気付いたその人は、あ、いや、すみません、と照れくさそうに苦笑いして顔を赤くしながら頭をかいた。それに私も、いえ、こちらこそ……と軽く頭を下げ、被っていた帽子をさらに深く被り直した。恥ずかしくて顔を隠したかったのもあるが、それ以上に眩しかったのだ。何が。水面に反射した陽の光がか。木漏れ日が煌めくのがか。いや、違う。一番眩しかったのは、今私の隣でベンチに腰かけ独り言を言った、この青年である。
何かに向かおうとする人は輝いている。それは例えば若さや情熱、希望といった言葉が似合うような人に多いのだが。そして隣の青年はその典型であった。一目見ただけで眩しさに目を眇めたくなった。輝いている人の側にいると、自分の空っぽさが際立って、惨めさを再認識させられる。それが同年代の人ならなおさらだ。早いところここから去って逃げようと、立ち上がりかけた時だった。
「良い天気ですよね、今日」
件の青年に話しかけられた。振り向くと目が合った。人の良さそうな笑顔と優しげな細い目が印象的な顔をしていた。ああ、もう勘弁してほしいなんて心底げんなりしながらも、そうですね、と取り繕ったような笑顔で答えた。そして
「……どこかお出かけですか」
なんて訊いてしまった。なぜ会話を続けようとしてしまったのだろう。私は早くここから立ち去りたいはずなのに……。
一人困惑していると、青年はまた微笑んだ。
「いや。当てもなく、ただなんとなく家を出てきただけですよ。どこに行くつもりがあるわけでもなく……ああ、」
不意に青年が言葉を切った。次第に顔が赤くなる。
「さっきの独り言、全部聞こえてたんですね……恥ずかしいなあ」
なんて頬をかいた。私は私で、ええ、まあ、なんて答えながら、ああ、だから私はあんな質問をしたのかと一人で頷いていた。
しばらく沈黙が流れた。私たちの座るベンチの前の広場を走り回る小学生くらいの子どものはしゃぎ声を聞きながら、私は自分にもあんな無垢な時代があったはずなのに、その頃のことは忘れてしまっている自分がいることにもの悲しい気持ちになっていた。
覚えていない。覚えてはいないが、純粋で無垢だったであろうあの頃の私が、今の私の無様な姿を見たならどう思うだろう。嗤うだろうか。悲しむだろうか。怒るだろうか。それとも……。
ふと、隣の青年が気になった。眩しく、輝いているように見えるこの人は、あの子どもたちを見て何を思うのだろう。
ゆっくりと、視線を隣に向け、青年の横顔を見る。
何もなかった。ただぼんやりと目に映る景色を見るだけの姿がそこにあった。何を思い、考えているのかなんてとても読み取れはしなかった。
「……あんな頃が」
戸惑ったまま見つめていると、青年がおもむろに口を開いた。
「あんな頃が、俺らにもあったって、なんだか信じられないですよね。先のことなんて気にもせず、ただその瞬間だけを楽しんで生きていた頃があったなんて……。そんな風に生きたいけど……」
「……もう、覚えてないですもんね。あの頃どんな気持ちで過ごしていたか……。子どもなりに嫌なこともあったはずだけど、それにどう向き合って立ち直って……目の前のことだけ見て生きて……」
「あの頃のことなんてもう曖昧にしか覚えてないけど、でも不思議と……戻りたいって、思いますよ」
「あの頃のままでいられたら、ってね」
「まあ、もうそうも言っていられない歳になっちゃいましたけどね」
そう言って青年は笑った。どこか諦めたような、それでいて必死に前を向こうとしているような……清々しい笑顔だった。
ああ、ここか。彼と私が違うのは。彼が輝いているのは。
彼は前を向いているのだ。未来を見て、進もうとしているのだ。口では過去に戻りたいと言いながらも、それが叶わないことを知り、その上で前へ進もうと決めているのだ。
過去を称賛し、未来から目を背けているだけの私とは……まるで違う。
「……あなたのような人に、私もなりたかったな」
え?と青年が聞き返すが、私は、いえ、独り言です、と答え腰を上げた。
「帰られますか」
「はい。そろそろ駅に向かわないと、電車の時間があるので。……それじゃあ」
軽い会釈を交わし、何歩か歩き出した時だった。後ろから呼びとめられた。
「あの!」
振り向くと青年はベンチから立ってこちらを見つめていた。
「俺……俺みたいになりたいなんて言われるほど出来た人間じゃないけど、あなたにそう言われて少し……嬉しかった。だから、あの、」
口ごもり、頭をかいて話す青年は、先ほどまでは大人びて見えたのに、今は年相応の私と同年代の男子のようだった。
「俺みたいでも、なんでもいいけど……自分のなりたい自分が見つかるといいですね、お互い」
「そう、ですね。ありがとう」
答えると、青年は少し照れくさそうに笑った。人の良さそうな優しげな笑顔だった。眩しかった。
軽く手を振り、今度こそ別れた。
私はうまく笑えていただろうか。
なりたい自分もわからないし、未来も見えないけれど、まずは彼のような笑顔ができるようになりたい。そこから始めてみるのも、きっと間違いではないだろう。
無題 雨霧 夕 @yuu-amagiri
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