020▽血の淫楽


 「── ちぃっ」


 椿の華奢きゃしゃ肢体したいが、巨影の拳にね飛ばされると、ほぼ同時に。


 同じく階段を走って上がってきたアヤトが、舌打ちしながら何かを投げた。

 小さな金属の煌めきが、投擲とうてきとは思えない程に真っ直ぐな軌跡きせきを描く。


 それと、ほぼ同時に。

 ── バンっ、と硬い革製のボールが弾むような音と共に、椿の身体は塔の石壁に勢いよくぶつかって、跳ね返った。


 石畳まで5メート以上の高さ。

 真っ逆さまに地面へと落下し、頭から石畳に叩き付けられれば、重傷を免れない。


 しかし、椿が頭から地面にぶつかる寸前に、アヤトの放った小さな金属片 ── 鈍色のコインが飛び込んだ。

 一瞬で、コインの金属の煌めきが爆発的に拡大すると、巨大な蜘蛛の巣のような銀色のネットが形作られ、椿の体を受け止める。


 「紅葉、回収っ」


 「まかせてっ」


 アヤトの言葉に従い、セクシーなバニー姉が飛び出した。鎖でできたハンモックに突っ伏したような格好の妹を肩の上に担ぎ上げ、壁際に退避する。


 アヤトは、それを一瞥いちべつで確認すると、きびすを返してフードをかぶると、黒い巨体をじっと見上げる。


 「まさか4階層に、こんな上位の魔物ヤツを配置とはね」


 ── <牛頭巨人ブルヘッド>。

 名前の通り、牛面の巨人といった外観の魔物だ。

 石床を踏みしめる両足は、偶蹄類特有のひずめと逆関節でありながらも、腕は人間のような関節構造で、手には5本指もある。


 最大の脅威は、その大きさだ。

 立ち上がり直立した今は、2階建て住宅くらいの背丈。少なく見積もっても8メートル、ひょっとすれば10メートルに届いているかもしれない。


 見上げる感じは、ちょっとした丘か小山だ。


 「二階層分まとめてつぎ込んだ、って感じか。

 なるほどね、下がからのはずだ」


 アヤトは苛立たしげに舌打ちして、顔をしかめる。

 その背中に、紅葉の優しげな声がかけられた。


 「マスター……椿、とりあえず右腕以外は大丈夫そう。

 攻撃を受けた瞬間、ちゃんとスタッフで身をかばったみたい」


 「そうか。 訓練のおかげだな」


 紅葉が妹の華奢きゃしゃな身体を触診していると、切れ切れの呼吸で、少女がかすれた声を絞り出す。


 「ね、姉さ……ん、……あれ……なんで?

 ん……っ 身体の、力が……」


 「いくら防御したとしても、マスターがいなかったら、貴方1死ワンデスよ。

 頭くらい砕けてたわ」


 「わた、し……一体……?」


 ね飛ばされた衝撃で記憶が混乱しているのか、場違いな程、きょとん、と不思議そうな顔をした少女が、かすれ声を漏らす。

 彼女は、姉に促され、長柄スタッフを支えにするように、上体を起こす。

 片手を肩から脱力したように、だらんと垂らし、杖にもたれ掛かるように座り込んでいる椿。


 アヤトは、歩み寄りながら片手の袖をまくる。


 「その声、ノドか肺だな。

 腕以外にも骨が折れてるかもしれないな。

 一応、吸っておけ」


 アヤトが、紅葉に抱きかかえられた椿の隣に片膝ついてしゃがむと、青いウインドブレカーのそでをまくり上げて、自分の右腕を差し出す。


 「え、マ、マスター……っ こ、こんな所でぇ……!?」


 椿は、かすれ声をうわずらせた。

 血の気の引いた顔色に、わずかに羞恥しゅうちの朱色が差す。


 彼女は、口元を両手で押さえると、慌てて男の生肌から目を逸らした。


 ── と、少女の紅潮した顔が、氷水でも浴びせられたかのように、一瞬で強張り、青ざめた。


 彼女の視線が、かしずくようにしゃがんだ小兵な男性の向こうに、黒く艶やかな獣毛に覆われた山のような巨体を見つけたからだ。


 「── ひ、ひぃ……っ」


 椿は、目尻に涙を浮かべ、慌てて逃げようとする。


 それを、姉が後ろから強く抱きしめて制止すると、耳元に優しく語りかける。


 「大丈夫、大丈夫。

 マスターがいるのだから、何も怖い事はないわ」


 しかし、少女のおびえの表情に刺激されたのか、巨大な牛面は荒々しく鼻息を吐くと、拳を振り上げた。


 ── グォォォンっ!


 人間というよりもゴリラのような太く節ばった腕が振り上げられ、大きさは1メートル半ほども有ろうかという、巨大な獣拳が風をうならせる。


 「や、ぃやぁ……っ」


 椿が、先ほどの恐怖を思い出したのか、身を強張らせ、小さな悲鳴を漏らす。


 ── ドウォォン……っ! と、<天祈塔バベル>に重低音と共に震えが走り、壁や天井から細かな石片が落ちてくる。


 自動車の鉄の車体ボディをも一撃で粉砕する巨大落石 ── そんな勢いで迫る黒い巨拳は、しかし、突如と出現した金属の網に阻まれていた。

 塔の石壁から石壁に渡る、太い鉄の鎖で出来た網、鉄の鎖を何十条も並べ、交差させた、鉄鎖の防御ネット。


 いつの間にか、アヤトが上体だけ振り向かせ、鎖の網に──巨獣の方に片手を掲げていた。


 攻撃を阻まれた巨獣は、不機嫌そうに荒々しい鼻息を立て、再度拳を振り上げる。

 ── ガシャァァン! ガシャァァァン!

 巨大な牛人が何度も拳を打ち付けるが、頑強な鎖金網は揺れるだけで、破れる気配もない。

 紅葉は、腕の中で身を強張らせる少女の髪を優しくなでつけながら、安心させるようにささやく。


 「マスターは、『鉄鎖の魔術士』。

 金属を操るのだから、守りはまさに鉄壁よ?

 簡単には破れないわ」


 アヤトは椿に向き直り、再び自分の右腕を差し出す。


 「さあ、今のうちに吸っておけ」


 「あの、マスター……わたし、腕だけで……そんなにひどくは……」


 「ばか。それ、交通事故と同じだ。

 衝撃がデカイと、最初は痛みが麻痺してるけど、後からあちこち痛みだすぞ」


 「や……でも……」


 「なんだ、 『吸いたくない』 のか?」


 アヤトが、呆れたようにつぶやく。


 それは、ある種、魔法の言葉だった。

 椿の ── DDシリーズと名付けられた半吸血鬼デミドラの、固く閉ざされた心の扉を開く、魔法の鍵。


 「あ、あぁ……っ」


 自分たち『魔女』は、人造吸血鬼は、『吸血鬼であり』 、 『吸血鬼でない』 。

 そんな特殊な生い立ちのせいで、長い年月、抑制され、抑圧され続けてきた 『本能』。

 おぞましい存在とののしられ続け、邪悪な存在だと刷り込まれたせいで、今でも罪深く感じる 『その衝動』。

 長年、奥深くに封じ込めるのが当たり前だった、『吸血鬼の名の由来となった欲求』 に火がつく。


 ── それを曝して良い、と言う。

 ── 受け止めてやろう、と言う。


 主人の甘受の声が、言葉が、態度が、否応なく欲望をたぎらせる。


 「あぁ……っ あ……っ! ああぁっ!」


 ── 『吸いたくない』 だって?


 そんな訳ない。

 そんな訳がない!


 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。

 我慢してきたのだ。 

 辛くて、苦しくて、── 『ひもじくて』。


 どうしようもない欲求を、ずっとずっとずっとずっと、抑え込んで生きてきたのだ。


 少女の、人では異色である、赤い瞳が爛々とし。

 興奮で紅潮しきった顔が、歓喜に震える。


 生肌からうっすらと香り立つ男の体臭と、それに潜むほのかな血の美香。

 どろりとした濃厚なその風味を思い起こすだけで、喉が鳴り、口の中に唾液が溢れ、そしてあさましい程に 『牙』 が伸びた。


 「んっ! んん~~~!」


 気がつけば、目の前の 『ニンゲン』 に貪りついていた。


 ぶつん、という一瞬の抵抗の後、口の中に芳香が広がる。

 次ぎに露わになるのは、舌の上に広がる、濃厚で複雑な味わい。


 のどを潤す、久しぶりの『生』の血液。

 日頃口にする、冷え切った献血パックの、誰の物とも知れぬ血でない。

 まさに、自分の飢えを満たすために用意された、人の生き血。

 凍えるような死体同然の肉体を、奥底から暖めてくれる、暖かな人のぬくもり。


 「んっ ん~~~っ!  ん、ふぅ~~! んはぁっ」


 牙 ── ドクターの言うところの吸血歯 ── の中の細管を通り、口の中で溢れ、舌の上で踊り、のどを鳴らして味わう、真っ赤な体液。


 男の生血いきち嚥下えんかするたびに全身に熱が行き渡り、活力が溢れると共に、細胞の一つ一つが喜悦に震えているのが分かる。


 ひとくちすするたびに、背筋に電流が流れ、身体のあちこちに、『うずき』 のような感覚がわき上がる。痛みとくすぐったさの中間くらいの、むず痒さ。そのせいで思わず身体を小さく揺らし続けてしまう。淫靡いんびに男を誘う娼婦しょうふのように身体をくねらせてしまう事を、わずかに残った冷静な部分が恥ずかしくも思うが、同時に自分の身体が主人である男性の血を歓んで受け入れる事 に、運命みたいな物を感じて嬉しくも思う。久しぶりに生の血を啜り、 乾ききった身体が潤う様は、まさに生き返った心地。全身の感覚がすさまじく鋭敏になっていて、汗の流れる感覚や、火照った身体をでるわずかな風すらも、身体を震わせる程のものに感じる。そのたびに、目の裏でパチパチと火花のように弾け続けている。あまり 強すぎる快楽に、脳がショートしているのではないかと、椿は最後の理性で思う。 しかしそれは残り香のようなもので続けている内に四散して、すぐに分からなくなった。残ったのは、ただただ甘い熱。湯あたりのように、ひどく頭が熱く重く、ぼんやりとしてくる。


 ああ、できるなら、このままずっと……。

 ずっと、ずっと、ずっと ──


 「── おい。

 大概にしろっ」


 ビシっ、と鼻に強い衝撃。


 「── ふにゃっ」


 いきなりの痛撃に、椿は寝ぼけたような声。鼻を打つ強い痛みと共に、彼女の朦朧としかけていた意識が引き戻された。


 「ふにゃ、じゃねえよ。 いつまで吸ってるんだ、バカタレっ

 確かに吸えとは言ったが、ちっとは加減しろ! 遠慮なくジュージュー吸いやがって、俺をミイラにするつもりか!?」


 目を白黒させている椿に、アヤトは苛立たしげな声をぶつける。


 「うぅ……でも、さっき、楠木のお姉さんが、血を吸われたら気持ち良くなるって言ってたから……その。

 だから本当は、マスターも、吸われて気持ち良いいんじゃないかなって……?」


 「そんな訳あるか、アホ!

 あれはただの人間の話。

 俺ら異能者は、吸血鬼と根っこから反発する存在だ!」


 「で、でもぉ……姉さんたちも、みんなも、マスターの血が一番おいしいって……」


 「それは、お前らがそろって異常なだけだ。

 あ~~……腕どころか肩までぴりぴりするし……一気に血が減って、頭も痛てぇ」


 さっきまで、浅ましい欲望を鷹揚おうように受け止めてくれていた主人が、今や一転して不機嫌極まりない、つれない態度。

 椿は、自分の全てを受け入れ包み込んでくれるような、彼のその優しさに打ち震えていただけに、態度の落差に泣きそうになる。


 「うぅ……」


 天国から突如として追い出されたような、一転して悲しい気持ちになった椿が、あられもなく伸びた牙を縮めていると、背後から姉の手がなぐさめるように触れてきた。


 「ん、ん~……ちょっと、汗ばんでるだけかな?」


 いや、なぐさめるにしては、あちこちをまさぐってくる姉の手に、椿は逃れるように身をよじる。


 「な、何ですか、姉さん?

 あの、今ちょっと敏感なので、腰とか太股とか触らないで欲しいです……」


 「まあ、大丈夫そうね……。

 あ、ほら、気持ち良すぎると、たまにらしちゃう子がいるじゃない? だからちょっと確認を、ね」


 「な、な、なんて事言うんですかっ

 本当に、なんて事言いますかっ

 もらしてません! もらしてませんよ! わたしそんな粗相そそうなんてして ──」


 羞恥しゅうちに顔を赤くして、妙にあせって否定する少女の、けたたましい叫びをさえぎるように、ギャリギャリと、またキィキィと、耳障りな金属音が響き渡った。


 悲鳴じみた異音の方を振り向けば、巨大な魔物を阻んでいた鎖の防御網が、金切り声の断末魔をあげている所だった。

 魔物の2本の巨腕で左右にこじ開けられ、防御網が引き裂かれつつある。それを構成する鉄の鎖のリングが次々と引き割れて、跳ね飛んでいく。


 ── グゥルルル……っ  ガアァァァァァ!!


 魔物が牛の口で雄叫びを上げると、鎖の防御網はついに左右に引き裂かれ、打ち捨てられる。

 牛頭巨人ブルヘッドが荒い鼻息を吹き鳴らしながら、ひずめの足を一歩踏み出し、石床に響かせる。


 それに応じるように、青い魔術士が、一歩踏み出した。

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