006▽にぎやかな車内


 日暮れが近づいたとはいえ、高速道路にはいまだに陽炎が揺らいでいた。

 帰宅ラッシュで混雑する九州高速道から有料道路にルートを換え、西へとひた走る白いミニバンが一台。

 高架のアスファルトの継ぎ目のたびに車体が小さく揺れ、エンジンとタイヤの音と共に、規則的に車内へ響く。

 そんな、眠気さえ誘う程に単調な音が支配する車内で、甘い吐息が漏れた。


 「あぁんっ はぁっ」


 さらには、布のこすれる音がなまめかしく響き、ピチャピチャとめ回す淫靡いんびな音が追従する。


 「んっ あはっ すごい、美味しい……っ」


 女の声には、男にびる粘質さと、甘える熱っぽさが混じっていた。

 ちゅっと音を立ててすするたびに、女はわざとらしい程に大げさに身体をくねらせ、熱っぽい息を吐く。

 彼女は、何度も舌先をわせ、その感触と味を堪能たんのうし続ける。しばらくして、唾液の糸を引きながら口を離すと、代わりに男にしなだれかかるように身体を密着させた。


 「── あらどうしたの、椿もいいのよ?

 マスターにおねだりしなさい」


 妖艶に微笑む彼女 ── 紅葉というバニーガールの格好をした美女が、男を挟んで反対に座る少女に声をかける。


 「む、無理ですっ

 わ、わたし、そんな恥ずかしい真似っ 人前で出来ません……っ」


 スレンダーで小柄な身体にバニーガールの衣装を纏う、三つ編みの少女は顔を真っ赤にして慌てて首を振る。


 「あら、残念。せっかくの役得なのに……」


 紅葉がそう言って、もう一度口を付けようとすると、男はため息混じりに制止する。


 「── お前も、そろそろ止めろって」


 「ああぁんっ

 ねぇ、マスター……まだ時間があるんだから……もうちょっと良いでしょ?」


 無慈悲に引きはがされてもなお、紅葉は名残惜しげに甘えた声をあげ、先ほどから何度も口づけしていた男の箇所 ── 彼の右のひと差し指 ── に手を伸ばす。

 より正確には、口づけではなく、噛んでいた場所である。

 その証拠に、彼の指には血のにじむ穴が二つ開いている。


 「カンベンしろよ。

 ただでさえ寝不足で頭痛いんだ。これ以上吸われたら、俺が使い物にならなくなる」


 アヤトがため息混じりにつぶやき、人差し指の側面に開いた二つの穴を撫でると、魔法のように傷口が塞がる。

 しかし、紅葉は自分の指をくわえ、まだ物欲しそうに眺めていた。


 「あーあぁ、もう終わり?」


 「ああ、もう牙をしまえ」


 「はーい……」


 紅葉は、おねだりを無下にされ、少し不機嫌そうな顔を作りながら、牙を引っ込める。

 比喩では無く、文字通り、牙が伸び縮みした。

 吸血のために伸びていた犬歯がしまわれると、少し尖った八重歯にしか見えず、こうなるともはや『普通の人間』と変わらないように見える。


 「── ねえ、エロい事おわった?

 そろそろ仕事の話ししていい?」


 頃合いを伺っていた、女性の声が前列の座席から聞こえる。

 アヤトは血を吸われていた指を撫でながら、ため息混じりに反論する。


 「エロくねえよ、ただの栄養補給だっ」


「エロいでしょ? 吸われるとスゴく気持ち良くて、トリコになっちゃうらしいじゃない」


 「……あのなあ、人を淫血いんけつバカみたいに言うなよっ」


 しかし、前の座席に座る人物は聞こえてないのか、気にしていないのか、ガサガサと書類を探し始める。

 アヤトがしばらく相手の反応を待っていると、くるりと座席が列ごと回転して、ワンボックスカーの2列目と3列目が向かい合わせの形になった。

 アヤトが3列目の中央席に座り、それに向かい合うように、反転した2列目の中央席に座っているのが、先ほどの声の主だ。


 薄茶色の髪に半ばから軽くカールがかかった、年は20代後半の、スーツ姿の女性。楠木セイラ。

 彼女も、アヤトと同じく寝不足なのか、どこか気怠そうだ。


 「はい、これ今回の資料」


 彼女が差し出したのは、クリア樹脂ファイルに挟まれた数枚の書類。

 アヤトが受け取ると、彼の横に座る椿が、興味深げに覗き込んでくる。

 彼が、書類の見出しだけ目を通すような感じで次々とめくっていると、バッグの中を探していたセイラが、困ったようにため息をつく。


 「ああ、しまった……っ。

 一部しか持ってきてないわ。それ、回し読みして」


 「いえ、結構ですよ、セイラさん」


 そう応えたのは、セイラの隣の席に行儀よく座っていた、メイド服の女だった。

 歳は20前後。黒を基調としたシックなエプロンドレスに映える、長い銀髪。年中を氷で閉ざされた北方の国を思わせる、白い肌。目元はゴーグル型サングラスで隠されているが、それを除いても整った顔立ちであった。


 「詳細はマスターが確認していただければ、それで。

 白雪たちは、概要をお聞きするだけで十分です」


 自身を白雪と言ったメイド服の美女は、受け答えする声も、鈴を転がすような可憐な物だった。


 「いいの? そんな雑な処理で。

 いつもいつも思ってたけど、アンタ達ってコイツに色々任せすぎじゃない?

 大丈夫なの、こんなので?」


 セイラが疑念たっぷりの声で、アヤトを指さしながら、隣に座るメイドに問いかける。


「……信用無いなぁ」


 アヤトが眠そうな目をしばたたかせ、10ページ程度の書類を斜め読みしながら、苦笑とともにつぶやく。


 「信用ないも何も、アンタって所詮、異能者でしょ?

 この前、異能者なんて逆立ちしても吸血鬼には勝てない、とか聞いたわよ」


 「まあ、当たらずとも遠からずって感じだな……」


 「ほら、全然頼りにならないじゃないっ」


 まるで鬼の首をとったかのように断言するスーツ姿の女性に、青いウインドブレーカーという時期外れた格好をした少年が、抗弁というより弁明のように反論する。


 「いや、まあ、ほら、何だかんだで俺が一番、経歴というか、キャリアが長いからな」


 「それも、微妙に疑わしいんだけど」


 セイラがアヤトに疑惑の目線を向けていると、その隣で美人メイドの白雪が微苦笑。


 「まあセイラさん、そうおっしゃらずに。

 実際にマスターの見識は、我々よりもずっと広く深いのです。

 危険が伴うだけに、専門家からアドバイスをいただく、というのは当然ではありませんか?」


 「専門家の、アドバイス、ねえ……」


 セイラが、さも疑わしいとばかりの目を向ければ、アヤトは緊張感ない大あくびを一つ。

 彼女は、額に手を当て、深々とため息。


 「専門家のくせにまるで頭良さそうに見えないし、説明も大雑把で感覚的で、ちっとも知性的じゃないし……ってか、まともにアドバイスしている所すら見た事ないし……

 アンタ一応大学生よね?

 レポートとか小論文とか書いた事あるのよね?

 論理的な説明とか、ちゃんと出来るはずよね?」


 この際に疑わしい所を全て問いたださんばかりのセイラの言葉に、反論をしたのは三つ編みのバニー少女。


 「そんな言い方酷いですっ

 マスターだって、試験勉強がお忙しい中、こうやってお仕事がんばってるのに」


 椿としては、アヤトをかばい立てしたつもりの言葉だったが、本人の意図に反して火に油を注ぐ事になる。


 「はぁ、試験勉強?

 今、まだ8月末でしょ?

 大学は休講中で、夏休み期間じゃないの?

 普通、大学の試験って前期の終わりくらいで、7月半ばとかの、夏休み前くらいじゃなかったけ?」


 「おい、ちょっと余計な事を ──」


 アヤトが慌てて黙らせようとしたが、間に合わない。


 「── マスターは夏休みの間も、毎日毎日、サイシのため、サイシのため! って、お勉強も大変だったんですよ!

 その上、こうやってお仕事もがんばってるんですっ

 マスターは頑張り屋さんで、とっても偉いんですぅっ!」


 おそらくは、『サイシ』の意味も意義も何も分かっていない椿は、ただ純真な心持ちでアヤトの苦労を訴えた。


 「はぁ!? 再試ですって!

 アンタ、あんな底辺Fランで赤点とか取ったの!?」


 まるで逆効果でしかなかったが。


 「いや……、ち、違うんだ……今回はたまたま調子が悪くて……」


 「調子悪いもなにも、大学一年の前期なんて、大した内容がでるわけでもないでしょうが。

 3ヶ月板書取って、それを読み返してたら合格パスするレベルでしょ!」


 「いや、まあ、それはそうなんだけど……」


 「で、いくつ?」


 「……え?」


 「いくつ落としたの、って聞いてるの」


 「えっと、その……5科目……かな」


 「── 5科目っ!

 一つ二つくらいならまだしも、五つも落としたの!?

 バカじゃないの、アンタ!

 あんな名前書いたら通るレベルの、Fランのバカ学校で赤点取る時点でアレなのに、さらに5科目も落としたの、このバカは!

 まさかそれ、現代文とか数学とか歴史とか英会話とか、中学高校のおさらいみたいな科目入ってないでしょうね?」


 「………………」


 アヤトは容赦ない問い詰めに、思わず言い淀んで目をそらす。


 その傍ら、セイラの爆発の引き金を引いた張本人である、バニーの少女が暢気に首を傾げていた。


 「……ところで、『Fラン』って何なんでしょう」


 「Fランですか……F、F?

 ……Fから始まる言葉ですと、レディーが言ってはいけない4文字のアレしか思い浮かびませんねぇ、ふふっ」


 F×××という、中指立てるジェスチャーと同義のアレである。

 白雪が小笑いしながらつぶやくと、運転席でハンドルを握るもう一人の銀髪メイドが冷たく注意する。 


 「姉さん、はしたないです」


「だって姫百合、『エフ』の上に、『ラン』ですよ?

 どうしたって、そっちに想像がいってしまうではありませんか」


 そんなメイド姉妹のじゃれ合いに、横から訂正の声が入った。


 「違うわよ!

 Fランはね、このバカでも合格するくらいの『バカ大学』って事よ!」


 セイラは、憤然とした声で答えた後、深々としたため息で自分自身を落ち着かせて、呆れと諦めの混じった言葉をつぶやく。


 「……まあアンタは所詮、女子部隊専属の男子マネージャーというか、お世話係だもんね。

 役に立つ、立たないは、二の次か……」


 「まあ、そういう立場で間違ってはないけどなぁ。

 なんか、楠木の姉ちゃん、今日はやたら刺々しいな……」


 アヤトがぼやくと、その隣に寄り添うセクシーなバニー、紅葉も頷く。


 「生理で、ホルモンバランスとかが悪いのよ、きっと」


 暢気な二人と相反し、頭痛と苦虫を同時に噛みつぶすスーツ姿の女性はぼやく。


 「ああ、もう……っ!

 今から色々突っ込まれると思うと、気が重いのよ……っ」


 「はあ……?」


 その言葉の意味がわかるまでには、もう少々時間が必要だった。

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