第21話 漂流3日目 8月20日 その2

そして続く言葉に全員が耳を疑いました。


「我々名取短艇隊はこれより回漕と帆走で一路フィリピン本島を目指す!」


この意味は、けが人を満載したカッターで東京から神戸間に匹敵する約600キロを回漕(オールを手で漕ぐこと)と帆走(風があるときに帆をたてて進むこと)で踏破しようということです。


軍隊の上官命令は絶対服従です。


しかしさすがにこの時はあちこちで


「絶対無理だ」


「フィリピンまで何キロあると思っている」


「不可能だ」


などと大きな声ではありませんが明らかに全員から不満の声があがりました。


特に漁師出身者などは「遭難時にはむやみに動くものでない」と頑として言うことを聞こうとしなかったし「昨日の通信筒のメモにも動かぬようと書いてあったではないですか」と抵抗するものもいました。


しかし小林大尉は全員に諭すようにゆっくり言いました。


「味方の駆逐艦は輸送作戦を優先させるので我々を助けに来るかどうかわからない。


また実際に来ていたかもしれないが撃沈された可能性もある。


カッターが沈没海域に3隻浮いていたのは味方の飛行機が昨日確認している。


木でできたカッターは絶対沈まないものであるのは海軍の常識である。


誰かの反対意見のように味方が救助に来ればいいが、もし我々がこのまま動かずにここにいて救助がこなかったら全員飢えと暑さでまちがいなく死ぬであろう。


その時、我々は戦死ではなく行方不明の扱いとなる。

戦死と行方不明ではおまえたちだけではなく、おまえたちの家族を見る近所の目も変わる。


まして巡洋艦といっしょに沈んだ久保田艦長以下の将兵も同じ行方不明扱いになるのだ。


われわれに根性がないために死んでいった仲間まで不名誉な行方不明者にしてもいいのか!」


全員静かに聴いていました。


この言葉のあとは誰も文句を言い出しませんでした。


それどころか


「お願いです小林大尉、どうか我々をフィリピンへ連れて行ってください」


「そうだ、何とかフィリピンまで行こう!」


「やってやれないことはない!」


と前向きな意見すら出てきたのです。


しかし実際は「言うは易し行うは難し」で沈没地点のこの位置からフィリピン本島までどう少なく見積もっても600キロはあるし、だいたい着の身着のままで海に飛び込んだわれわれは長距離の航海に必要な海図やコンパスや六文儀などの機械はおろか食べ物や飲み水すら満足にないという状況で、果たして犠牲者を出さずに無事フィリピンまで行けるのかなと正直私自身も心配したものです。


幸いカッターの中には樽の中に非常用に45名分の乾パン(親指大のビスケットのようなお菓子)があるのは確認していましたが昨日、おとといと2日間すでに食べている分を差引いて60名に対して一週間分ほどの量しかありません。


乾パンとは日清戦争のあと日本陸軍が長期遠征に行った兵士の補給用に従来のおにぎりにかわる携帯食として開発したものです。


特長は最長で5年間保存可能なこと、栄養価が高く、食後ものどが渇きにくいというもので完成後は陸軍だけではなく海軍でも採用されてすべての軍艦のカッターに配備されていました。


現在でも自衛隊や地震などの災害救助用の補給食として使われています。


小林大尉は自分の説明に納得した隊員たちを見回して


「水はスコールの雨を飲んでとにかく凌げ、食料は乾パンを節約して30日分に伸ばすように」と指示しました。


また3隻とも艇長が乾パンの入った樽の上に腰をかけて乗っかり、ちゃっかり乾パンをくすねるような不届き者が出ないように見張りをするよう指示しました。


およそ船の世界の常識として、漂流した場合の最後は食べ物に飢えて死ぬよりも先に残った食べ物をめぐって乗組員の反乱が起こり殺し合いの果てに全滅する例が多いそうです。


私もこのことを兵学校で習って知っていたので食料が少ないカッター内でできるだけ反乱が起きないようにするにはどうしたものかと真剣に考えました。


小林大尉も同じ意見で、私に「おい松永、全員をリラックスさせることができるいい案があれば何でもいい、どしどし意見してくれ」と頼みにきたものです。


みなさんもご存知のようにフィリピン海上といえば赤道直下です。


昼間の太陽は「暑い」という表現では足らず「痛い」と言ったほうがいいくらいの日差しで軍服から露出している肌をまるで突き刺すような感覚が襲ってきます。


このような過酷な日中にさらに体力を消耗する回漕作業はいたずらに疲労を高めるだけなので

「昼間は夜に備えてできるだけ眠るように」と命令が出ました。


そして日が落ちて涼しくなってから次の朝まで24人が1時間、その後交代して別の24人が1時間、これを繰り返して計10時間回漕することに決まったのですがさてどちらが西か東か見当すらつきません。


もちろん太陽が出てくる方角が東で沈む方角が西ですからある程度の方向はわかるのですが広い海の上ではたった1度角度が違っても正しい位置に船を進めることができないことなど全員が知っています。


ここで小林大尉は全員に質問をしました。


「いいかよく聞け。子供のころからの迷信や言い伝えでも何でもいい。とにかく方位や天気を特定するのに役に立つことわざや言い伝えの言葉を思い出してくれ。思い出したら階級の上下なく遠慮せずにどんどん意見するように。以上!」


この言葉のあとに実家が漁師の兵から、

「おばあちゃんに昔言われたことがあります。『辰巳の雷はこわくない』と。

なぜかと言えば地球の自転上、東北方向(辰巳)に光っている雷は遠ざかるだけだからです。」


またあるものは

「さき(南西の方向の空)が悪いと雨」と言います。


「遠くの音が良く聞こえれば雨」


「夫婦喧嘩と北風は宵のくち」


「あはは!」


このようにいろいろな言葉や言い伝えが飛び出し続けたのです。


言い伝えを思い出して言う方もそれを聞く方もまさに命がかかっているので真剣そのものでした。


1人の士官が言いました

「真西に行けばフィリピン群島ですね。それではオリオン座とさそり座を使いましょう。オリオン座は天の赤道付近にあります。さそり座は天の赤道のやや南寄りにあり、これらは地球上のどこでみても必ず東方からでて西方に沈みます。これらの星座が東にあれば背を向けて進み西にあれば向かって進めば確実にフィリピンがある西に進めるわけです」


海軍兵学校では3年半にわたり航海術を学んだわれわれ士官ですがそれはあくまでも軍艦内で立派な装置や地図があることが前提の授業でした。今はそのような文明機器を頼ることなく航海しなければならないので昔の遣隋使や遣唐使時代の船乗りの心境がよくわかりました。


いつも高い艦上から眺めていたやさしい海面が急に悪魔のように思えてきたのです。


夜、星が出てから星座の位置で方向を確認後、フィリピンへの10時間の回漕がはじまりました。


元気に艇長の掛け声のもと漕ぎ手全員が声を出してスタートです。


カッターとは難しい乗り物で、特に最初の漕ぎ出しは全員の息が合っていないとスピードがでません。


しかしさすがに訓練を受けたものたちです。


「オー」「エス」


「オー」「エス」


と掛け声のもとぐんぐんスピードを上げていきます。


全員が玉の汗を流し、顔を真っ赤にしながら交代しながら10時間を何とか漕ぎきりましたが全員が久しぶりの回漕なので手が豆だらけになったようです。


私は艇長の仕事として掛け声を出すだけでしたから回漕後、豆ができた手をさする隊員に


「みんなすまない、がんっばてくれ」


と声は出さずに心の中で謝るのみでした。

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