第2話 私のおいたち 1

 私のおいたち


 私、松永市朗は大正8年(1919年)に九州の佐賀県三養基郡三川村という農村で生まれました。

 佐賀県は福岡県の隣にある県でその中の三養基郡は県庁所在地の佐賀市と鳥栖市の間にあります。

 今では佐賀県は人口も増えどんどん発展して町になってきたようですが、約90年前にあたる大正8年はまだまだ田んぼや畑が広がるのんびりした田舎の時代でした。

 子供のころの私は体格が同じ年頃の少年よりかなり小さかったのですが勉強そっちのけで毎日元気に野山を走りまわる典型的な「腕白小僧」でした。

 今のようにパソコン、テレビなどの娯楽がない時代の子供たちはもっぱら外に出て近所の友達と外が暗くなるまで遊ぶのが常でした。

 特に私の生まれた三川村というところはまわりを山に囲まれた地形で自然が多く、春になると小川で鮎や鮒を釣り、夏になると同じ川で水泳をし、秋には稲刈りの横に積まれたわらの中に入ってかくれんぼをしたり、冬にはこま回しや凧揚げをして遊んだものです。

 またこの時代の男の子は戦争ごっこが大好きでよく神社の境内で2つのチームにわかれて日露戦争の戦いをまねた陣地争奪戦をやったものでした。

 私は近所では相当いたずらばかりしていたようで、よく喧嘩して泣かせた相手の家に、おばあさんがかわりにあやまりに行ったという話を後で聞かされました。

 もの心ついたときから私の母と妹はお父さんの勤務する場所に一緒についていったので残された私は小学校と中学校時代の生活はほとんど祖母との2人暮らしでした。

 私のお父さんは松永貞一といい、海軍の軍人で第一次大戦の時にヨーロッパの地中海に出征していたときに私が生まれました。

 その後、お父さんは昭和16年に始まった太平洋戦争ではベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)司令官としてマレー沖海戦を指揮して航空機だけでイギリス海軍自慢の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを2隻撃沈したことで一躍有名になりました。


 また私のおじいさんも若いころはは日本陸軍の兵隊で明治37年に始まった日露戦争に参加しました。

 中でも日露戦争中一番大きな犠牲をはらった戦いの「203高地攻略戦」で有名な乃木将軍のもと輸送の任務で従軍した話をよく聞かされたとおばあちゃんは語っていました。

 このように、私の家系はもともと軍人の家系なので、男の子である私の心の中には自然に「大きくなったらお父さんやおじいさんのような立派な軍人になる」という意識が芽生えました。

 特に船が好きだった私は海軍に行きたい、そして兵隊ではなくお父さんのような兵隊を指揮する立場の将校になりたいと思い出したのです。

 船が好きになったのは、私が佐賀県立三養基中学校一年生のときに父が勤めていた台湾の澎湖島に行ったとき、山口県の門司港から台湾の基隆港まで初めて大きな船に乗ったときのことです。

 佐賀県の山の中で育った私は、「世の中には、こんなに大きな船があるのか」と思ったほどの船でしたが、後で聞くとお父さんはもっと大きな軍艦をたくさん指揮しているということがわかったのです。

 門司港から台湾の基隆港まで3日間の船旅でしたが、大きな波に揺られるこの船旅の間、私はいつも甲板に上がって360度広がる海の広大さと美しさに感動していました。

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