匿名希望、犬を飼う。[ふつかめ]

「――ぅん? ここは……?」

 目が覚めると、希望は荒れ地にいた。ほのかに明るい空、見渡す限りの人、人、人。希望には理解できない言語を話しているようだ。

 辺りを見回すと、指導者らしき男の姿がある。切羽詰まった口調で、何やら民衆に語りかけていた。そしてその反対側からは、土煙と共にかすかながら蹄の音。

「もしかして……モーセ……?」

 指導者らしき男の姿は頭以外見えなかった。しかしその直後、彼が杖を振り上げると、すさまじい水音と同時に、民の歓声がどっと響いた。

 人の波をかき分けて希望が見ると、目の前に広がっていたと思しき大海原が、人100人は優に通れるほどの幅で裂け、指導者と人の群れはその道に踏み入っていく。希望もまた、人波にもまれてその奇蹟の中に入った。

 見回せば、今にも流れんとする水が垂直にとどまり、あの男率いる一団のためだけに形づくられた奇蹟の道。希望も思わず感嘆の声を漏らす。

 ……2kmは歩いただろうか。異変が起こった。

 水壁の上部が少しずつ流れを得、海の裂け目が崩れようとしていたのだ。上を見ながら歩いていた希望は何となく勘づき、周囲の民に呼びかけたが、いかんせん言語の壁は厚く、必死の声が届くことはなかった。やがて波が現れ、海が戻り、希望ら民衆は――


「――はっ!? 何だ夢かぁ……って、なんで顔湿ってんの……?」

 今日は土曜日。しかし旧約聖書っぽい夢のせいで、普段よりも少々早く目が覚めてしまった。体を起こしてメガネを手に取り、しっかり拭いてからかける。すると、自分の膝辺りの上でポチが丸まって寝ていた。

「ポチかぁ。舐められたな、きっと」

 寝息をたてているポチを見つめ、希望は30分ほどそのままベッドに座っていた。


「今日も来ちゃいました、希望さん」

「こんなに毎日来てて大丈夫なの……? まあいいや、入って」

 御己が訪ねてきた。昨日もあのまま1時間強ポチを見たり遊んであげたりしていたが、今日も朝の8時くらいから匿名宅にやってきた。

 昨日御己がもらってきたドッグフードをお皿にあけ、軽くふやかす。昨晩のようにそのままあげては、子犬のポチには硬すぎるかもしれない、ということらしい。もっとも昨日は誰もそんなことは考えていなかったので、普通に食べていたようだが。

「おいしそうに食べてるんでよかったっスけど。ダックスっスかね、この子」

 御己はスマホを懐から取り出し、検索し始めた。慣れた手つきに、希望がおお、と声を漏らす。

「私スマホ持ってないんだよね……で、どうどう? できればもう少し調べてほしいんだけどさ」


「――えっと、まずポチの犬種なんスけど、豆柴? なのかなぁと。

 あと、まだちっちゃいので、家の中で遊ばせておけばいい、らしいっス。歳がわかんないんでアレっスけど……だいたいお散歩は3か月くらいからが普通らしいっスよ。でもここじゃ散らかってて危ないかもっスね」

「ギクッ……気をつけます~」

「じゃあ、僕んち、来ますか?」


 御己の家は歩いて10分くらいのところにあった。今日は両親が用事で外出しているのだそうだ。そこまでの10分間、ポチはわずかに震えながらも周りに興味を示し続けていた。彼の部屋は、学習机に棚とだいぶ落ち着いている。希望の、分厚い本や細かな紙きれなんかが散らばった部屋と比べると、こちらのほうがポチの安全にとっても断然よさそうだ。

「BB弾は危ないんで片づけますけど。庭にもたくさんありそうなんで、とりあえずはこの部屋の中でいいんじゃないっスか?」

「入っちゃって大丈夫なのかな……? とにかくありがと」

 さっきまで真剣に調べ物をしていた顔から一気に子供に戻ったように、御己は笑ってみせた。本当に楽しそうに見えた。

 一方のポチはというと、邪魔するものも何もない部屋を駆け回っている。床がフローリングだが、ちょっとした敷き物があってよかった。滑って転ぶ心配がない。

 ちょこまかと走り回るポチの小さな姿を、希望は笑みを浮かべながら眺めていた。午前11時のことであった。

「あっそうだ希望さん、この子ってなんで希望さんちにいたんスかね?」

「さあ……? わかんないけど……。確かに」




書いてたら設定忘れてうううううとなりました

設定はちゃんと考えて世に出そうね(自戒)

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