第二章 逃げた黒猫と転校生 7

間瀬、雛菊ませ ひなぎくさん?」

 授業中で教師の少ない職員室。

 無駄に広いその場所に響き渡った自身の名前に、間瀬雛菊はびくんと肩を跳ね上がらせる。

 それから、パソコンを動かしたり資料の整理を施しているはずの、教師達の視線を振り切って、震えた声でこう返す。

「は、はい!」

 その二言に力を込めて、胸元にある鞄を抱きしめる。

 細い肩に針金を仕込んだかのように、精一杯張らせて緊張をする生徒に目を細め、苦笑する。

「そんなに緊張しなくていいわ。間瀬、雛菊さんね?」

 彼女は目の前に立ちすくむ新しい生徒の名を呼んで、手元の資料に視線を落とす。ずり落ちてきた眼鏡をあげ体重を後ろに掛けると、古い椅子が音を立てた。目元が霞んで見えるのは、年齢のためかもしくはただ単に寝不足なのかその両方か。一通り書類に目を通し、再び生徒に視線を戻した。

 間瀬雛菊は全身を強張らせたままの状態で固まっていた。書類上では高校二年――実際にそうなのであろうが、まるで小リスのように体を縮める風貌の彼女は実年齢よりもいくらか幼く小さく見えた。

 日本人形のように綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭の黒い髪と、黒目がちな大きな瞳。それと対をなす白い肌は、彼女のコントラストを際立たせていた。小さな背。華奢な体は力を込めたら折れそうだ。不安と緊張でコンクリートのように体を固める少女は、長年少年少女を見続けているベテランである彼女の目にも、充分幼く可愛らしく映った。

「可愛らしい名前ね。雛菊なんて。春に生まれたのかしら?」

 皺に入り込んだ頬を抑え、目元を落とす。この問いかけに意味はない――ただの話題つくりであり、少女の緊張をほぐすためのものだ。

 目の前の少女は困ったように目元を落とし、

「は、はい……三月生まれです」

 と、震えた声でそう言った。

 教師は持っていた書類をぱたん、と下すと、 

「そう。ご両親は素晴らしい名前を付けてくださったのね。紹介するわ。もう、知っていると思うけれど――私は二学年の学年主任の――」

「大迫、さつき先生、ですね?」

 こちらが名乗るよりも先に自身の名前を言ったその生徒に、彼女は睫を瞬かせた。

「知ってくれてるの?」

 彼女の問いかけに、生徒は「はい」と目を細めた。

「先日伺ったときにお聞きして、素敵な名前だなぁ、と思いまして――五月生まれなんですか?」

 邪な感情などたった一滴も含まれていないような純粋な瞳でそう言われ、彼女は「えぇ」と頷いた。

「五月の、真っ只中に生まれたの。知っててくれて光栄だわ」

 柔らかい口調でそう言うと、目の前の生徒は白い頬を桜色に染めて微笑した。

 よろしくね、と荒れた右手を差し出すと、少女はおずおずと腕を伸ばした。小さな手。自身の手もそれほど大きい自身はないが、その手の平がすっぽり包んでしまうほどの大きさ。

 その手の小ささに驚いて、ぱっと開いてそっと離す。顔を上げると、少女ははにかんだように笑っていた。花の咲いたようなその笑みに思わずつられて笑ってしまう。なんとも可愛らしい生徒が転入をしてきたものだと思いながら、足元に転がしておいた紙袋を取り出した。

「これね、制服のサンプルなの。サイズ合わせて貰っていい?」

「は、はい」

「多分Мでいいと思うんだけど……廊下の奥に更衣室があるから、そこでちょっと着てみてね」

「はい」

 それと転入における簡単な話と説明を行い、「失礼します」とその場を去る。扉の前で立ち止まり、腰を曲げて頭を下げると切り揃えられた髪の先が頬を掠った。


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