第二章 逃げた黒猫と転校生 5
静かな教室に、かつかつと黒板を叩くチョークの音が響き渡る。それと反響するかのようにして発せられる、面白くもない教師の声。
適当に板書を書いて、適当に言われた場所にチェックと入れて、芝原直人は、小金井彬の背をシャーペンの先でつんつんと突いた。
「なぁなぁ、アキラ。要するにさぁ、ロミオとジュリエットって、お互いがお互い一目ぼれなんだろ?」
まるで机を抱き込むかのような怠惰な姿勢を作る直人を視線だけでちらりと見て、小さな声で「そうだね」と答えた。
「冒頭では、ロミオには別に好きな人がいるみたいだけど――一目見た瞬間に好きになってるね。それから」
ちらり、とこちらに背を向け板書を続ける教師の様子を伺って。
「ジュリエットも。ジュリエット自身は、最初ロミオだって気がつかなかったみたいだけど」
委員長のその言葉に、直人は怠惰な姿勢のまま、後ろ髪を掻きあげる。
「ふうん。随分安っぽい恋愛小説を書くもんだな。海外の大作家さまは」
「安っぽいも何もないでしょ。だってこれ、五百年以上前の作品なんだから」
「ああ、そうなの?」
「そうだよ」
ここで、教師の腹がこちらを向くことを確認して、一度会話を中断させる。何事もない様な優等生の顔で、真面目な振りで話を聞いて。
再度脂の乗り切った背中が向けられたその時に、「なぁアキラ」と名前を呼ぶ。
「そういうのって、本当にあるものなのかね? 一目惚れだとか、運命の恋だとかって」
どこか遠い目をして呟かれたその言葉に、「知らないよ」と彬は返す。
「知らないけど、あったらあったで面白いとは思うけどさ」
優等生の意外な意見に、「そーかぁ?」と直人は首を傾げる。
「ありきたりじゃない?そういうの。漫画や小説の世界じゃ、そんなアイデア出尽くしちゃってるじゃん」
そういった長髪の彼の意見に、委員長は賛同する。
「そうだけど。でもそれは、漫画や小説の世界だからじゃないの? 漫画や小説の世界だから、ありきたりのような気がするんだって」
優等生の彼の意見に、どういうことだと聞き返す。
彬は、器用に空中で、くるくるペンを回転させると
「例えばさ」
某国民的アニメよろしく、パンを咥えた黒猫を追いかけ学生服で青空の下を駆け抜ける。
黒猫の足は速かった。彼とて、足に自身がないわけではない――が、野生動物が相手となると、話は全く別だった。
細い金髪が風になびく。長い手足を大きく動かし、柔らかい草を蹴りあげた。ボタンのはだけたブレザーの間を、ぬるい風が抜けて行った。
黒い猫はどんどんどんどん遠くなる。自身が追いかけられていることを自覚しているのだろうか。黒い影が校舎の角を回り込み、息も絶え絶えの彼も曲がると、そこには黒猫が本来彼のものであるはずのコロッケパンの袋を噛みしめて佇んでいた。
はぁはぁと全身で息を切らす彼のことを、嘲笑うかのように目を細めると、「にゃあ」と一言声を出し、くるりと尻尾を回転させて再度土を蹴りあげる。
タカはぴくりとこめかみを引きつらせ、額に滴る汗を拭う。
いい度胸じゃねぇかと呟いて。
「もし、もしもだよ――もしもタカちゃんが、遅刻しかけの転校生と、どっかの曲がり角でぶつかって」
息を切らすことも忘れて春の陽気を駆け抜ける。さすがに黒の皮靴では走りにくいと麻痺を仕掛けた脳裏で思う。
黒猫は止まらない。彼の動きも止まらない。止まれない。止まることができない。
誰もいない校内を、春の空の下を、桜の木々の間を抜けて。
「まるで漫画や小説みたいにして、一瞬で恋に落ちたりしてみたら」
一向に止まらない、止まることのない黒い尾を追いかけて。
熱のこもったネクタイを緩め、ブレザーの裾を靡かせて、長い腕をまっすぐ伸ばす。
黒い猫が角を曲がる。計算尽くされた九十度。校舎の壁と、名前の知らない巨大な木とのその間。
「それはそれで、めちゃくちゃ面白いと思わない? それこそまるで、運命の恋みたいじゃないか」
黒い猫を追いかけて曲がった瞬間、胸に感じた柔らかい衝撃。視界が闇色に包まれる。磁石のように付いたそれが離れ、跳ね返り、尻もちを付く。絵にかいたような青い空にはそれをそのまま切り抜いたかのようなまっ白い雲が浮いていた。
跳ね返ったまま尻もちを付く彼を同じような体勢で、目の前に座りこむ少女。綺麗に切り揃えられた――いわゆる「おかっぱ頭」と呼ばれる類の黒髪が乱れ、桜の花びらがはらりと落ちる。ぴかぴかと音がなるくらい新品のセーラー服のスカートの間から、真っ白な足が覗いていた。
その白い脚の主が自分自身の体勢に気がついて、スカートの裾をばっと押さえて顔を上げる。髪の色と同じ、黒い髪と黒い瞳。それと対をなすかのように、淡いバター色の頬が桜のような桃色に染まる。
「もっ……」
彼女はわたわたと転がった鞄を手にとって、抱き抱えたまま立ち上がる。ひどく小さいと彼は思う。そして華奢だ。鞄を抱えて縮こまっているその様は、まるでリスかハムスターのようでもある。
「申し訳ありません!」
制服の上からでもわかる、充分細い腰をきっかり九十度曲げて頭を下げる。黒髪が落ちて頬に当たり、太陽の光を反射した。
タカは尻もちをついたまま、見たことのない黒髪の少女を見上げていた。
彼女は焦るような慌てたような――どちらもそうそう変わらないが――そのような表情を浮かべたまま、細い眉を寄せている。
可愛らしい、まるで日本人形のような顔に困ったような色を浮かべ、その黒目がちな大きな瞳で、すがるように座りこんだままの彼を見下ろした。
あの、というのは鈴のように小さく呟かれた彼女の声。
彼は彼女の黒目をじっと見つめ、それからなんだ、というようにして、空色の瞳を彼女に向ける。
彼女はなぜか怯えるようにして更に鞄を抱きかかえ、ひどく申し訳なさそうに
「職員室はどちらでしょうか」
と呟いた。
彼はぱちぱちと両目を開閉し、意味もなく空を見上げ、それから「あっち」と右手を自身の背中の方向へ向けた。
「表門じゃなくて、裏門の方にある」
すぐにわかると思う、という彼の言葉に、彼女は再度腰を折った。
「あ、ありがとうございます」
彼女は感謝の言葉を述べて、そして再度腰を降り、彼の指した方向に駆けだした。黒いスカートの襞が風に舞う。
タカは、去りゆく黒髪を見送って、それからいまだに軽い衝撃の残る胸元を抑えて座りこんでいた。ほとんど体重を感じさせないかのような華奢な体。拳を握ると、赤いネクタイに皺ができる。
碧眼を開いたまま、呆然とした状態で座りこむ。にゃあ、という声で我に返ると、先ほど彼女の座りこんでいた場所には黒髪の彼女の代わりに黒い毛を持つ野良猫が座りこんでいた。その口にあるのは、封が開けられ中身だけになってしまったコロッケパン。
もしゃもしゃと、満足げに――本来彼のものであるはずのコロッケパンをかじる猫。
青い双眸をぼんやりと見開いたまま彼はただ――ぼんやりとその場に座り込んでいた。
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