第二章 逃げた黒猫と転校生 3
のたのたと青い空の下を歩く彼とは対照的に、ぬるい温度に満たされた教室内には、腹の突き出た中年の教師の声が響いていた。
「井上ー」
「はぁい」
「上地ー」
「はーい」
「大河内ー」
返ってくるはずの声が聞こえない。餅のように垂れ下がった頬を持つ教師は、ぐるりと教室内を見回して、再度生徒の名を呼んだ。
「
呆れかえったかのようなその声に、狭い教室の端から一本の手が上がる。
「先生ー。大河内くんはいませーん」
そう言ったのは、黒い髪と黒い目を持つ純日本人の容姿を持つ、いかにも優等生然とした男子生徒だった。規定通りの制服を規定通りに着込んだ、このクラスの代表でもある。
委員長のその声に、ぽってりとした教師は「またか」というように眉を寄せる。「まったく、仕方のない奴だ」と呟いて、生徒の呼名を再開する。
教卓の向こうから聞こえるその声をBGМにして、芝原直人は目の前に座る委員長――
彬は教師に見つからぬようにして、こっそり肩越しに反応を示した。
「何?」
「なぁ、お前、本当に合コンいかね?」
「いくわけないじゃない、そんなの。いくなら芝ちゃん一人で行きなよ」
「だってタカの奴、やっぱいかねーっていうんだもん」
「タカちゃん、そういうの嫌いじゃん。合コンどころか、授業にだってでてないし」
呆れるようにそういって、右後ろにある空席を視線だけでこっそり見やる。
「だってさぁ、アキラぁ――」
「そこー、うるさいぞー」
未練たらしく呼ばれた名前を遮ったのは、呼名の終わった教師。
中年教師は「出席名簿」と書かれた黒いファイルをぱたんと閉じると、
「まったく、このクラスはどうしてこう、うるさい奴が多いんだ」
はぁ、と長い溜息と共に吐かれた言葉。いつのまに近くまでやってきたのだろう、直人の長髪を、その黒いファイルでぺしんと叩くと、再度教卓で向かい歩き出す。
「はいはい、教科書を開けー」
予習はやってきただろうなー、というその声に、教室全体からげんなりとした声が上がる。
直人は再度彬の背中をシャーペンの先でツンツン突いて、「やってきたか」と問いかける。「当たり前じゃん」というその声に、優等生の優等生たる所以を見る。
不穏な空気の流れた生徒たちに、教師は「まったく、お前らは」とげんなりと声を発した。
「ほらほら、さっさと教科書を開け。今回から、新しいとこ入るぞー。今回の題材はー」
そこで一度声を止め、芋虫のような太い指で白いチョークを手に取った。ぎぎぎという不愉快ですらあるような音をたて、やたらと達筆に英語を書きこんだ。
題字を書き終わると同時にチョークを元の場所に置き、白い粉の付いた両手をぱんぱんはたく。それから大きくでっぱった腹を揺らし、教卓に両手を置いた。
「Romeo and Juliet――ロミオとジュリエット! 皆、タイトルくらいは知ってるなー」
教師の問いかけに、あちらこちらから声が上がる。
「はーい、せんせー。煙突掃除の男の子の話でーす」
一人の生徒の言葉に、教師は脂の乗った首を左右に振った。
「合ってるけど違うな。それはまた、違うロミオだ」
「はい、先生」
「はい、委員長」
そういわれて立ち上がったのが、彬。委員長は黒い髪をゆらりと揺らし立ち上がり、涼しげな目元を崩すことなくこう答えた。
「イングランド出身の劇作家、シェイクスピアを代表する恋愛小説です」
「ご名答。座っていいぞ」
ぱちぱちぱちという拍手音をBGМにして着席をする、彬。
「小金井の言うとおり、ロミオとジュリエットは世界を代表する世界最高の恋愛小説だ。このクラスには確か――」
その、埃と手垢で濁った眼鏡を光らせて、後ろの方にぽつんと残る空席を見やる。
「イギリス当たりの血が混ざった奴がいたはずだが」
去年の答案は散々だったがな、と付け加えて。
「簡単なあらすじを説明するぞ。いつだったか、ディカプリオが主演を張って映画化していたから知っているやつも多いと思うが――舞台は、十四世紀イタリア。そこでは、モンタギューとキャピュレットという二つの名家が血で血を洗う抗争を繰り返していた」
そこでぐるりと教室全体を見回して、言葉を続ける。
「主人公はモンタギュー家の一人息子であるロミオ。ロミオは気まぐれにキャピュレット家のパーティーに忍び込み、キャピュレット家のジュリエットと恋に落ちる」
安易に恋に落ちすぎじゃねーの、というのは、生徒の誰かのその言葉。
教師は「静かにしろ」とばかりに教室全体を見回した。
「そして二人は永遠の愛を誓うのだが、運命という名の荒波は、いとも簡単に二人の間を引き裂いた。これは」
はぁ、と意味もなく嘆息して――教師は開いたままの教科書に目を落とした。
「最も美しく、儚く悲しい、最高のラブストーリーだ」
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