第二章 逃げた黒猫と転校生 2

 何年も、何年も、待ち続けて――


「行かねぇ」

 友人が発した言葉に、大河内貴は舌打ち交じりにそう呟いた。

 カルキ臭のする水道水を呑みこんで、水の溢れる蛇口を閉める。水道に突っ込むように伏せていた頭をあげ、口元についた水滴を拭った。

 どこにでもある公立校の、敷地内。その狭い敷地内の一角に設置してある、水道。

 校舎の壁に張り付くように設置してあるその蛇口は、風に吹かれた砂やら誰のものかもわからないような手垢やらがついてべたべたとひどい状況になっていた。

「えー?」

 そう言ったのは、軽い表情をした長身の、長髪の男。背丈があるくせに細身の体自体も軽そうだが、実際、中身も軽いということを、付き合いの長い彼は知っていた。

「いいじゃん、いこーよ。可愛い女の子、来るってよ」

 長髪の彼は、ぐっ、とタカに近寄ると、その肩を抱きこんで頭を寄せる。

 が、タカはまるで虫でも払うかのようにして彼の体を押し返すと、

「行かねーっていってんだろ。何が楽しくて、他の学校の女と合コンなんぞしなくちゃいけねーんだよ」

「お前、合コンからそれを取ったらなにも残らないじゃねーか。出会いだよ、出会い! 出会いを求めてんの!」

 大げさなジェスチャーを口返しながらそう力説をする友人を、まるで汚物を見るかのような汚い瞳を向ける、タカ。

「じゃあお前一人で行けよ。俺は行かない」

「メンバーが足りねーんだって。あと一人」

あきらでも誘えよ。どうせあいつ、暇なんだろ」

「誘ったけど、彬がこんな誘いに乗るわけねーじゃねーか」

「まぁな」

 適当に出した幼馴染の、その表情を思い出し、あっさりと納得をする。水滴についた両手をひらひらと仰ぎ乾かして、それから水道脇にかけておいた青いブレザーの上着を手に取る。襟のあたりに桜の花びらが付いていることに気がついて、それを払う。彼らの頭上には、日本の国花がよく晴れた青空に散らばるかのようにして、桃色の花を咲き誇らせていた。

 タカは青いブレザーに腕を突っ込み、校舎の窓に向かい直る。あちらこちらに跳ね上がっている金髪は自前のものだ。高級な宝石のような青い瞳は、いつもどこか拗ねたような色を浮かべていた。

 ついてしまった皺を伸ばすかのようにして制服の襟元を正し、長髪の幼馴染に向き直る。

「俺だって乗らねーよ。他の奴誘えばいいじゃねーか」

「それでもいいけど、お前の方が都合がいいんだよ」

「なんで」

 金色の眉を寄せ、幼馴染に問いかける。

 長髪の彼――名前を芝原直人しばはらなおとという――は、さも当然というかのように、両肩を竦めてこういった。

「お前のほうが女受けするからさ」

 芝原直人のその答えに、タカは明らかに不愉快というような表情を作った。

「お前、中身はあれだけど、黙ってればイケメンだからな」

「黙っていれば、ってなんだよ」

「そのまんまの意味だよ、天然ヤンキー」

「黙れ。俺はヤンキーじゃねぇって何度も言ってんだろ」

 いらいらとそう言って、跳ね上がった金髪とちょいと摘まんで持ち上げた。生まれた時から彼に付きまとう金髪と碧眼は、彼の特徴であり一種のコンプレックスでもある。幼いころは、うんざりするほどからかわれた。

 タカは摘まみあげた前髪をそのままぴょん、と跳ねあげて、さっと直人に背を向けて歩き出す。直人は大股で歩き出したタカの背中を追いかけると、

「タカぁ―。お前、本気でいく気ねーの?」

 ぽん、と背中に置かれたその手を、汚いものを扱うかのように払いのける。「いかねぇ」と一言呟いて。

「可愛い子くるよー?」

「しらね」

「タカぁ。お前さぁ、そろそろ彼女の一人でも作ろうとか、そういうことって思わないわけ?」

「思わねぇよ」

「まじで!?」

 自分の顔を両手で挟み、信じられないとばかりに声を張り上げる、直人。

 そのオーバーすぎるリアクションに、タカは再度顔を顰めた。瞼を閉じて息を吐き、大股な足を更に開く。

「大体、お前、俺がそういうの苦手なの知ってんだろ」

「知ってるけど。嫌いじゃないじゃん」

「嫌いじゃないけど」

 そこでふと足を止め、天を見上げる。

 暖かく降り注ぐ太陽と、光る空。美しい桃色の花びらが宙を舞い、踊っている。

 タカはそれを視界に入れて、目元を和らげた。

「それだったら俺は、こっちの方が、なんぼかいいな」

「桜なんて、いくら食っても腹いっぱいにならないじゃん」

「うるせ。歩く猥褻物に植物のよさなんてわかんねーんだよ」

 まるで刃物のようなその言葉に、直人は「ひどい!」と顔を歪めた。

 そんな、傷ついたような表情を作る幼馴染を置いておき、タカはずんずんと足を進めた。

 余鈴がなる。キーンコーンカーンコーンという、どこの学校にでもあるような、ありふれた軽い音だ。

 足元にある小さな小石を蹴飛ばすと、芝原直人があれ、というようにして大河内貴に声をかけた。

「タカ、教室いかねーの?」

 もうすぐ、授業始まるじゃん、という幼馴染のその問いに、タカは碧眼を歪めてこう答えた。

「次の授業、英語だろ? パス。かったるい」

「……お前、ハーフの癖に英語の点数ひどいもんな。前回何点だったっけ。20点くらい?」

「うるせーぞ。大体、俺はハーフじゃねぇ」

 そう毒づいて、長髪の幼馴染を教室へ向かうように追い払う。

 響き渡る本鈴。先ほどまでのざわつきが嘘のように静まり返ったその場所で、大河内貴は嘆息をする。「女だってよ」と呟いて。

「愛だとか恋だとか、くだらないと思わねぇか?」

 なぁ。

 というのは独り言であり、なおかつ、美しく咲き誇る花々に対する語りかけだ。

「せっかく綺麗に咲いてんだから、もっとよく見てやればいいのに」

 そこで苦笑――

 適当に着崩された制服の、適当に緩められた赤いネクタイを指先で弄び口角を上げる。

「見てみろよ、なぁ」

 弄んでいたネクタイの先をぴっ、と弾き、澄んだ碧眼を天に向ける。

 ぶわり、と足もとから湧き上がるかのような風が彼の前髪を揺らし、桃色の花を撒き散らした。

「「桜が綺麗だ」」



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