第二章 逃げた黒猫と転校生

第二章 逃げた黒猫と転校生 1

 とんとんとんというノックがされて、聞こえてきたのは父のように慕っている、使用人長の声だった。

「坊ちゃま」

 という声と共に、返事をするよりも先に部屋の扉が開かれる。

 アーサーは机に向かい頬杖をついたまま、振り向きもせずに背中越しに返事を返す。

「なんだ?ヨハン」

 広げられた辞書に目を向けて、握ったペン先で金色の頭をぽりぽりと掻いた。緑のシャツと白のセーターは、つい先日揃えたものだ。ここ数カ月、急に背丈の伸び出したアーサーでは、あっというまに着るものがなくなってしまう――おろしたてのこの服も、一体いつまで着られるのだろう。ヨハンは、ごそごそと動く少年の背中を見つめ、うっすらと微笑した。

「はい、坊ちゃま。坊ちゃま宛にお手紙が来ていました」

「手紙ー?」

 アーサーは肩越しにほんの一瞬空色の目を投げて、それから再び手元に戻した。

「そんなの後でいいよ。そこら辺置いといて」

 後でみるよ、というのはアーサーの返答。

 ヨハンは「はぁ、」というようにして首を傾げ、人のよい瞳を瞬かせる。

「ですが坊ちゃま」

「なに? だって、またどっかの勧誘の……」

「from Japanとなっていますが……」

 スパァァン!

 From Japan。

 その言葉を聞いた瞬間に、アーサーは立ち上がりヨハンのそれをひったくった。

 にやにやという笑みを浮かべるヨハンと、なぜか頬を紅潮させてこそこそと背中を丸める、アーサー。

「おやおや、坊ちゃま。そこら辺に置いておいていいのではなかったのですか?」

「ダメ! これは、ダメ!」

 アーサーは熟したリンゴのような表情でそう叫ぶと、期待と緊張の入り混じった様子でその封を慎重に開けだした。


『from Japan――Botan Saito』


 アーサーは、以前父が連れてきた日本人の娘に御執着だった。それも、傍からあからさまにわかるほど。

 ヨハンの記憶にあるアーサー少年は、とても不器用で天の邪鬼な、腕白という呼び方では可愛らしすぎるほど元気な子供だった。

 それがどうだ。今、こうして部屋の隅で顔を真っ赤に紅潮させて、こそこそと意中の者からの手紙を見るアーサーの、空の机に広がるもの。

 ぎっしりと異国の文字の書かれたノート。異国語の辞書。辞典。ヨハンの記憶が正しければ、これらはすべて極東にあるアジアの島国のものである。

(これはこれは……恋はなんとやら、と、申しますか……)

 そこでまた微笑――

 ほのぼのとアーサーの金色を見つめていると、背中を丸めて熱心に手紙を読んでいたアーサーが、ぱっと顔をあげて使用人長の名を叫んだ。

「なぁヨハン!“サクラ”とは一体なんだ?」

 青い瞳で年相応の表情を作る、アーサー。 

 ヨハンは目をくるくると回転させ、「はて」と首を傾けた。

「“サクラ”ですか?」

「そうだ。日本では今サクラが満開で、とても奇麗だと書いてあるんだ。でも、その“サクラ”がなんだかわからないんだ」

「サクラは日本の花ですね」

「花?」

「そうです。花です」

 ヨハンはそう言うと、アーサーの部屋にある本棚の一番上から、古びたアルバムを取り出した。

 それを机の上に広げ、ぱらぱらとページをめくり、後半に差しかかったところで止めてそれを指した。

「これがサクラ――“Cherry blossom”です」

「Cherry blossom……」

 アーサーは使用人長の指先を凝視して、彼の言葉に耳を傾けた。

 サクラ。日本を象徴する、もっとも日本で愛されている美しい花。

 春に白や淡紅色、濃紅色の花を咲かせ、古くから親しまれている花。

 アーサーはそこに張られた白黒の花びらをじっとみて、「これは、綺麗なものなのか」と問いかけた。白黒の写真では、一体実物がどれほどのものなのかわからない。ヨハンはにこにことした笑いを浮かべて「はい」と頷いた。

「以前、旦那様にお伴させていただいた時に一度拝見しました。サクラの木はとても大きな花ですね。それでいて、優雅で、壮大で……例えるのならまるで……」

「まるで?」

 ヨハンは考え込むようにして天井を見上げ、それからふっと目元を緩めた。

「女王の花、と呼ぶにふさわしいですね」

 女王の花。

 アーサーは青い瞳をキラキラさせて、極東からの手紙と、花の写真を見比べた。

 サクラ。Cherry blossom。日本の国花。女王の花。

「ふぅん……」

 アーサーはそう言うと、その指先を辞典の花に滑らせた。

「それを、ボタンは今、日本で見ているんだな」

「そうでしょうね。春は、サクラの季節といいます。日本では、春になるとあちらこちらでサクラの花が咲き誇ります。写真で見る限りではよくわかりませんが、実物は、比べ物にならないくらいに素晴らしいものですよ」

「そうか……」

 アーサーは目元を細め、それから視線を外に投げた。

「俺もいつか、見てみたいものだ。ボタンと共に、女王の花が咲くところを――」

 今日は空がとても青い。この国も春を迎え、庭園の花々が咲き誇っている。

 異国の彼女は、今一体何をしているのだろうか。

 一体、次はいつ会えるのだろう。

 いつ、彼女と共に花を愛でることができるのだろう。

 一年後か。

 数年後か。

 それとも、数えられぬほど、時を過ぎたそのあとか――

 少年は待った。

 少女に再び出会うことを。

 少女と共に、異国の花を愛でることを。

 何年も何年も何年も。



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