第一章 太陽の少年と異国の姫君 8

 ベッドの上に枕を二つ乗せ、顔を寄せて入り込んだ。

 誰かと寝るのは久しぶりだ。一人でいるとひどく寂しいこの部屋も、二人でいれば寂しくはない。ベッドなんて狭いくらいだ。

 うつ伏せに寝そべったまま本を開き、ああでもないこうでもないと言葉を交わす。

「アーサーさん、アーサーさんの名前は、王様の名前なんですね」

「そうだぞ。俺の名前は、アーサー王から取ったんだ」

 牡丹はとても大人しく無口な少女だったが、とても物覚えのよい、聡い少女だった。

 時々黙りこんでしまうこともあり、聞き取れずに全身から疑問符を出してしまうこともあったが、きちんと話せば大体のことはわかるし、ジェスチャーを使えば大抵のことを理解できた。

「アーサー王ってすごいんだ。巨人を退治したり、世界のどこかにある聖杯を探して大冒険をするんだ!」

 身振り手振りで興奮気味に説明をする、アーサー。

 牡丹はしばらくの間瞳をキラキラとさせてアーサーによる自慢話を聞いていたのだが、ふらっとベッドと抜け出して、部屋の脇にある大きな本棚から一冊の本を抜きだしてきた。

 植物図鑑だった。

 再び布団にもぐりこんだ牡丹が、ぱちぱちと瞬きをしながらばらばらとその厚いページをめくり続けた。一体何ページ捲ったのだろう。本の中央辺りで手を止めた牡丹が、「これです!」と言って指差した。

「Peony?」

 彼女が指示したのは、ピンク色の、花弁がいくつも重なったような、丸い花だった。

「これが、わたしの名前なんですよ」

 寝ころんだまま胸を張り、どこか自慢げにそれを語る少女。

 アーサーは頬杖をついたまま辞典を覗きこみ、それを問いかける。

「Peonyって、日本語でボタンていうのか?」

「そうですよ。牡丹の花は四月ごろになると、とても綺麗に咲くのです。私の家には牡丹の木があるんですよ。母様が付けてくれた名前なんです」

 嬉しそうに楽しそうに話す彼女は、珍しく饒舌だった。

 にこにこという笑顔を浮かべる牡丹の横顔を見つめて、アーサーはこう問いかける。

「お前の母さんは、日本にいるのか?」

「はい。母様はあまり体が丈夫でないので、本国でお留守番をしています。そういえば、アーサーさんのお母様はどちらにいらっしゃるのですか?」

 さりげなく口に出されたその疑問に、アーサーはほんの少しだけ視線を逸らす。

 ぎゅ、と唇を結び、右に支えていた頬を左側に移動させた。

「知らない」

「え?」

「なぁ、ボタン。そんなのどうでもいいからさ。今日はもう寝ようぜ」

「……」

「明日、俺が町を案内してやるよ。もう、疲れた―っていうくらいに」

 だから、今日はもう寝よう。

 アーサーはそう言って部屋の電気をぱちりと消した。


 

 次の日。

 アーサーは朝早くから牡丹を連れ回した。

 屋敷から出て、外へ連れ、端から端まで行ける所まで連れて行った。

 それほど面白いものはないというのが彼の考えであったのだけれど、日本の少女は、このイングランドの町並みが、とてもとても気に入ってしまったようである。

 牡丹はとてもおとなしい少女だったが、とても好奇心に溢れた知識欲の旺盛な子供だった。

 行くところ見るところ、すべてにおいて興味を示し、疑問を持った。

「あれはなんですか?」

「これはなんですか?」

「これは、どうやって使うものなのですか?」

「あれは何をするところなのですか?」

 アーサーはそれらの疑問の一つ一つに回答し、答えていった。

「あれはパブだよ。大人がお酒を飲むところなんだ」

「これは劇場。あそこで芝居が演じられてるんだ」

「これは切手。手紙に貼ると郵便屋がどこまでも持って行ってくれるんだ」

 浮かびあがる疑問を答えることは面倒だったが、その反面とても楽しいことだった。

 何に対しても興味を抱くその少女は、自転車に乗ることでさえ大騒ぎだった。

「アーサーさん、これは一体なんですか? 乗り物ですか?」

「お前、自転車もしらねぇのかよ。今、大ブームなんだぜ?」

「そうなのですか? どうやって乗るのですか?」

「後ろ乗れよ。お前、鈍くさそうだから俺が運転してやるよ」

「後ろに……うわぁぁぁぁっ!」

「ちょっ、お前! 抱きつくなよ! あぶねぇじゃねぇか!」

 大声を上げながら坂道を転げていった。橋を渡り、川を覗き、町を越えた。

 

 日本の低い建物に慣れてしまった牡丹には、見るもの見るものすべてが大きく、素晴らしいものに見えた。

 どれもこれも綺麗で、神秘的で、美しかった。

 花も、家屋も、庭園も、街並みの隅々まですべてが精錬されていた。

 牡丹はアーサーの背中にしがみ付き、自転車に流されるそれらを澄んだ瞳に焼き付けた。

 まるで絵画のようだった。

 城のような家屋と、絵巻にでてくるかのような花々。どれもこれも、そのまま物語の一角に登場してもおかしくない。今にも登場しそうなものだ。

 牡丹はアーサーにしがみ付いたまま、青い青い空を見上げた。少しだけ空が陰る。太陽が中央を過ぎていた。いつの間に、こんなにも時間が過ぎたのだろう。

 街角に取り付けられた大時計の針は、いつのまにやら正午をとっくに過ぎていた。

「アーサーさん、次はどこにいくのですか?」

「次はぁ? うーん……あ、そうだ!」

 後ろに牡丹を乗せて、器用にくるくるとペダルをこぎながら両手を離し、それをぽんと打ち付ける、

「教会。お前、教会っていったことあるか?」

「教会、ですか?」

「そう。教会」

 ところどころに絆創膏の付けられたアーサーの両足は、颯爽と自転車のペダルを漕いで町の外れまでやってきた。あと数メートル、あの木を越えれば隣の町だという辺り。

 周辺よりもほんの少し盛り上がった、小高い丘のその上に、その教会は存在した。

 絵本のような風景ばかりが目に映ある英国の中でも、ここはまた、ひときわ目立つものである、と牡丹は思う。

 周囲と隔離されたかのような、小高い丘。緑の芝。城を切り取ったかのような塔と、まっ白い宮殿。宝石のような細かい細工の施された扉をあけると、色とりどりのステンドグラスが二人を出迎えた。

「うわぁぁぁ……」

 目の前に広がる光景に、思わず感嘆の息を漏らす牡丹。

 骨董を並べたかのような白い椅子、白いテーブル。すべてがすべて素晴らしく見えるその中で、ひときわ美しく輝いていたのは、なにものでもないステンドグラスだった。

 天に届くほど高くそびえる天井の、一番高い場所から低い彼女の目線の先まで、視界全体を覆う肖像。聖母マリア。

 美しい女神は、その手に生まれたばかりの赤子を抱き、すべてのものに慈しみの瞳を向けていた。

 昼の光に照らされた聖母マリアはきらきらと輝き、その美しさを何倍にも何十倍にも増していた。

 牡丹はその絵に惹かれるままに魅入られて、魅入られるままにゆっくりゆっくりと足を進めていった。

「うわぁ……」

 上座に上がる一歩前。神父が昇るべきその場所は、なぜか聖域として守られたこの場所の中でも更に神聖な場所であるような気がしてしまい、そこから進むことができなかった。

 紅色の羽織と紺色の袴を着込んだ少女は、異国の美に感性を委ね、見知らぬ芸術に全身を委ねていた。


――ロミオはジュリエットに恋をして、ジュリエットもまたロミオに恋をした


――叶わぬ恋に身を焦がしてしまった二人は、現実に絶望し、自ら毒を飲み剣を射し死を選ぶ


 ロミオとジュリエットが恋をして、死を選ぶまで、その期間たった五日間だ。

 その、たった五日間の間に、どうして二人の若者はそれほどまでに誰かに渇望し切望することができたのだろうか。

 

 それほどまでに深く愛し、別れることを拒み、死を選びとも共にあることを選んだのか?


『どうしてでしょう。ねぇ、どうしてだと思う?』

『わからないよ!だって、理解できないもん!』

『そう。それじゃあ、アーサー。アーサーだったらどうするの?』


 ステンドグラスの女神に照らされ、彼女が霞む。

 黒い髪と黒い目を持った少女は、いつの日か異国に帰ってしまう。

 それこそ、あの時自分が拒んだ月の姫のようにして。

 

『アーサーだったらどうするの?』


 わからない。

 シェイクスピアの青年は、彼女を愛しすぎたために選択肢を間違えた。

 竹から生まれたお姫様は、満月の夜に帰ってしまう。


『どうするの?』


「――きゃ!」

 アーサーはいてもたってもいられなくなり、駆けだして、牡丹の細い肩を掴んだ。黒い髪が風になびいて影を作る。

 消えてしまうと思った。目の前のこの少女が、月の使者のようにして忽然と。

「ど……」

 それまで女神の美しさに酔いしれていた少女は、胸元に手を当ててどきどきと高鳴る胸を抑えつける。

「どうしたんですか? アーサーさん」

 帰りたくなったんですか?と瞳を覗いて問いかける。

 アーサーは下を向いたまま「違う」と首を左右に振った。

「それでは、お腹が空いたんですか?」

「違う」

「他に行きたい場所があるんですか?」

「そうじゃない」

「じゃあ、なんで……」

「お前が」

 下を向いて、金色の髪の間から覗くようにしてこういった。

「今にも、どっかに行くような、気がしたから……」

 時間と共に呼吸が止まる――

 瞳孔を開き、ようやくのこと息をのみ、言葉を発する。

「なんで……」

「だって!」

 一時だけ間を置いて、震えた声でこういった。

「……帰っちゃうじゃないか、お前……」

 空気が凍るかのような気がした。

 アーサーの手は、華奢な牡丹の手を先ほどからずっと掴み続けていた。

 消えることを拒むかのように、その存在を確かめるかのようにして。

 牡丹は黒い瞳を静かに揺らし、手を伸ばし、それを引いて、自分の手首を掴み続けるアーサーの手の上にそっと重ねた。

 そうですね、と呟いて。

「私は、いずれこの土地を離れてしまいます」

「だからっ!」

「けれど私は、勝手にここを出て行きはしません――今は、アーサーさんと共にあります」

 腕を掴んだままのアーサーの手をゆっくりと離し、それと代わりに少年の掌を握りしめる。

 アーサーは空色の瞳に不安の色を浮かべ、少女の瞳をじっと見つめた。

 それから金色の頭を下げて、唇を噛み、握った掌に力を込める。

「約束、が、欲しい」

「約束?」

「そうだ。牡丹。俺は、お前と一緒にいたい」


――病める時も 健やかなる時も


「アーサーさん、それは……」

 求婚の言葉でしょうか? と言う彼女の言葉に「うるせぇ、ばーか」と暴言を吐く。


――喜びを共に分かち合い 悲しみや苦しみを共に乗り越え

 

「なんだよお前、俺じゃあそんなに不満なのかよ」

 今更顔を紅潮させて視線を逸らす少年に、「そんなことありません」と苦笑する。


――永遠に愛することを誓います


(死が二人を分かつとも?)


(死が二人を分かつまで)



永遠に君を愛することを、ここに誓おう!






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