第一章 太陽の少年と異国の姫君 6

 日本の童歌で、「手毬歌」というものがある。

 お手玉をする際に歌われる童謡だ。

「あんたがたどこさ ひごさ ひごどこさ……」

 ぽん、ぽん、ぽん。

 お手玉のやり方は、母国で一人待つ、母親に教えてもらったものだ。金髪でも青い瞳でもない、自分と同じ、黒い髪と黒い瞳をもつ母親だ。

 牡丹の母親は、体の弱い女性だった。若いころから床に伏せることが多く、牡丹を身に宿したその時さえも、半ば決死の状況だった。

「牡丹を英国に連れて行こうと思う」

 そういったのは父親だった。

 牡丹の父である友雄は、公家の出身であり今現在外交官として欧州各地を飛び回っている。

 明治という新時代が開けて数十年。

 世界に開いた日本は短い時間で驚くほど急激に発展を遂げ様々な文化を取り入れたわけなのだが、それでもまだまだ、海外に対する理解と知識が少なかった。 

 遅れているのだ。文化も、文明も、政治でさえも、何もかも。

 明治維新以降、いくらめまぐるしく変化を遂げてきたといえど、やはり知識だけではどうにもならない。

 海に囲まれて狭い世界を見てきた人間が更に発展を目指すならば、外の世界に飛び出て、それを直に体験せねばならない。

 友雄の主張に、祖母も、祖父も、親類も皆反対をした。

 なぜ、たった一人の大事な娘を大人のエゴのために、英国などに連れて行かねばならないのか。

 海外留学ならば、政府の人間がやってのけているだろう。

 牡丹は母の恋しい幼い子供だ。そんなもの、もっと後でもいいだろう。

 親類どもが口をそろえて言う中で、牡丹の母は夫である友雄の言葉を肯定し、賛成をした。

「いってらっしゃい、牡丹。この日本は、とても狭いの。もっと大きな世界を見てきなさい」

 牡丹とて、日本を離れたいわけではなかった。

 母と共にいたかったし、見知らぬ国と見知らぬ人が怖かった。

 けれど、母と父の言葉に首を左右に振ることができなかった。

 

 「くまもとさ……せんばやまにはたぬきがおってさ……」

 

 正直、初めてあの青い目と金色の髪を見た時は驚いた。日本にいた時は、あり得ないことだった。

「牡丹ちゃん、気をつけなさい。英国人は、日本人をとってくっちゃうのよ」

「血も青いのよ」

 そう言ったのは隣の家のおばちゃんだ。そんなことはありえないよ、と父は言った。

 それでもやはり、見知らぬ世界と見知らぬ人間の間では、不安を拭うことができなかった。 

 

「にてさ…… やいてさ…… くってさ……」


 ぽん、ぽん、ぽん。

 

 その時だった。

 細かい細工の施された重い扉が、ギィィィ……という音を立てて開かれた。

 瞬間的に止まる心臓――

 連続的に手毬を受け止めていた牡丹の掌は動きを止めて、手毬がぽとんと草色のカーペットに転がった。

 扉を開けたその人間、それは、金色の髪と青い瞳を持つ同じ年の英国人。

 アーサー・ドナルドだった。

 目と目がかち合う、空白の時間。

 暖炉の上に置かれた時計が、かち、かち、かち、と厳かに時を刻んでいる。

 牡丹はアーサーのことが怖かった。

 アーサーの父であるエドワード氏は、いつも朗らかに、優しく彼女に接してくれた。日本国外にも欧州にも慣れているはずもない牡丹に対し、とても紳士的だった。

 しかし、息子であるアーサーは違っていた。

 初めて会ったときから今の今まで、アーサーはずっと怒っているような、不機嫌そうな表情を作っている。言葉使いも少々荒く、早口過ぎて何を言っているのかわからない。

 思い出しても見れば、あの庭園で会ったとき、とんでもない形相でなにやら怒られた。

 牡丹の中でのアーサーは、ただただ只管に怖い人間だった。

 手毬をカーペットに沈めたまま、空中で手を持てあまし、そのまま時間を持て余す。

 どうしたものか――アーサーは一体、なんの用事でやってきたのか。

 先日の庭園での出来事を、更に追求しに来たのか。もしくは、時代遅れの島国の人間がここにいることを馬鹿にしにきたのか。自分自身がなにか粗相をしてしまったのか――

 カチカチカチ、という針の音と共に、一瞬で脳みそに思考を巡らす。

 アーサーはその青い瞳に何やら不機嫌そうな色を称え、ゆっくりと部屋に踏み込んだ。

 ぎしり、と空間が軋む音がする。

 牡丹は宙に止めたままであった手を引っ込めて、胸の前に抱きこんだ。

 アーサーはカーペットに手毬が落ちていることを確認すると、ふいにそれを拾い上げ、牡丹に差し出した。

 びくり――と彼女の体が跳ねる。

『受け取れよ』

 ぼそりと発せられたその言葉を、彼女が聞き取ることができなかった。けれど、彼の顔と、差し出された手毬を受け取り、ほんの少しだけ距離を縮める。

 彼女がおずおずと手を伸ばすと、不機嫌なだけだったアーサーの瞳にほんの少しだけ違う感情が宿る。

 半ズボンのポケットをがさがさと漁り、再び腕を突き出した。大分乱暴で、がさつだった。その白い手の中にあったものは、くしゃくしゃになったビスケットだった。

 大きな目を更に大きく見開いて、ビスケットの包装紙とアーサーの顔を交互に見る。

 アーサーの顔は、緊張しているのがひどく不細工な顔になっていた。

『……やるよ』 

「……え?」

『うるせぇな! 早く受け取れよ!』

“やるよ”

 アーサーの言葉はいつも早口でうまく聞き取ることができない。かろうじて「やるよ」の一言だけを聞き取ることに成功して、白い頬を真っ赤に紅潮させるアーサーから、くしゃくしゃになったビスケットの包み紙を受け取った。

 ほっ、というのはアーサーの表情が和らぐ音だ。

 そこまで緊張で強張っていた顔から抜けて、眉も目元も一気に下がる。

 手毬とビスケットを両手に抱えた牡丹は、こういうときどうすればいいのか一気に頭を働かせた。

 挨拶の言葉。お礼の言葉。最低限の生活に必要なものは、一通り教わり覚えてきたはずだ。

 牡丹は小さく息を吸い込んで、アーサーの目をまっすぐに見た。怖くはなかった。晴れた空の色をした、とても奇麗な瞳だった。

『……ありがとうございます』

 アーサー・ドナルドは、その時初めて斉藤牡丹の笑顔を見る。

 とても控えめで可愛らしい、それこそ花のようなものだった。


 これがアーサー・ドナルドと斉藤牡丹の出会いであり、また、アーサー・ドナルド少年が初恋に落ちた瞬間だ。

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