第一章 太陽の少年と異国の姫君 2
教諭の叫びは、館の外を歩き回るアーサーの耳にも届いていた。
(うっわ。相変わらず声でっけぇな、バッカス先生)
教師ではなくオペラ歌手になった方がよかったのではないかと思うが、容姿の問題でそれは無理だということを気がついて、それらの思考は胸中へ追い払う。
簡単なことだった。話に夢中になっている教師の目を盗み、こっそりと外へ出る。靴はいつも袋に入れて、机の中にいれてある。
黒い靴の先で石を蹴飛ばして、それと同時に空を見上げる。青い青い空には、白い絵の具を垂らしたような白い雲が浮かんでいた。
(なんだよなんだよ、バッカス先生なんて。毎日毎日勉強勉強って。まるでそれしか考えてないみたいじゃん)
バッカス教諭のことは嫌いではなかった。幼いころから知っていたし、嫌うどころかむしろ彼自身も第二の母親のように思っていた。口ではなんと言おうとも、きちんと大事に思っていた。
だがしかし、忙しい両親を持ってしまった少年は、少しばかり反抗心の強い、自己主張の強い子供だった。
(俺だって遊びたいのに。勉強ばっかりしてても、いいことなんて絶対ないのに)
こつん、ともう一度小石を弾く。転がった小石はとんとんとんと緑に茂みの奥に隠れた。
屋敷の裏は、というか裏のみならず、この館は緑に恵まれたところだった。
ドナルド家はイングランド有数の名家のひとつだった。広大な敷地に並ぶ二つの館とその周りを囲む城壁。豊かな草花は両親の趣味と使用人たちが施したものだ。職人に頼んでもよかったのだが、そこは両親たちのこだわりだった。
一体何種類あるのかわからないような植物たちは、年中四季折々の花々を咲かせ、見る者を楽しませる。春先になるとそれらが一斉に咲き乱れ、何とも言えない甘い香りが屋敷全体を包み込む。
『どうだアーサー、綺麗だろう?』
自分の肩を抱いてそういったのは、自分にその名を与えた父親だった。
満足げに胸を張る父に対し、「うん」とアーサーは頷いた。曖昧な答えだったと思う。けれど、小さなアーサーにはその良さがまったくわからなかったのだ。
先ほどアーサーが放った小石が飛び込んだその先が、ごそりという音を立てて動き出した。黒い猫だった。にゃあ、という声を出すその猫に、アーサーは名前を付けていた。
「ガウェイン!」
ガウェインもまた、円卓の騎士のひとりであった。
ガウェインと呼ばれたその猫は、飼い主に対しその黒い瞳を向け一瞥すると、さっと尻尾を翻し、明後日の方向へ走りだした。
「あっ!」
遠くなる黒い猫。それを追い、アーサーも駆けだした。
『あんたがた どこさ ひごさ……』
猫は足が速い。アーサーとて足にそれなりに自身はあったが、動物には到底勝てなということを実感する。
黒猫はあっという間に走り去り、どこかへ消えた。
「ガウェインー」
気が遠くなるほど広い敷地内を駆け抜けて、両手で口に輪を作り、飼い猫の名を叫ぶ。
耳を澄まして返事を待つが、物音ひとつ聞こえない。
ガウェインはアーサーの猫だった。
以前、外へ出た時に足を怪我して道の端に座り込んでいた黒猫を保護して連れ帰ったのがアーサーだった。
『くまもとどこさ せんばさ……』
「ガウェインー」
息を吸い込みもう一度声を張り、愛猫の名を叫ぶ。
そうして再び耳を澄ます。すると、どこからか「にゃあ」という鳴き声が聞こえてきた。
その声に反応し、きょろきょろと周囲を見渡すと、つやつやと毛並みのいい黒色が芝生の上を歩いていた。
ぱっ、と目を輝かせて再三名前を呼べば、再び猫は走り出す。
「待てよ!」
脱兎のごとく駆けだした愛猫を追いかけて、彼も地面を蹴りあげた。
『せんばやまには たぬきがおってさ……』
ここまでくれば、もういい加減学習をするべきである。
追いかけられれば逃げたくなる。しかし、逃げられればまた追いかけたくなるのも習性だ。
屋敷の角を曲がったところで、再度愛猫を見失ったアーサーは、流れる汗をぬぐいながら、きょろきょろと首を動かしていた。膝に泥がついているのは、先ほど石に躓き転んだせいだ。服についた砂ぼこりをぱんぱんと落とし、顔をあげると、追い求めていた黒猫がちょこんと緑の海の上に座っていた。その真っ黒い瞳は、どこか面白がっているかのようにも見える。
「くっそぉー」
憎々しげに奥歯を噛みしめる、アーサー。
騎士の名を持った猫は、馬鹿にするようにして「にゃあ」という声をあげた。それから挑発するかのように長い尻尾を振り振りさせて、緑の茂みに飛び込んだ。
――ぎりっ
アーサーは自己主張の強い子供だった。
なおかつ負けず嫌いで、気の短い子供ですらあった。
「このやろーっ!」
アーサーはそう叫ぶと、服が汚れることなど気にもせず――もっとも、少年がそれを気にしたことなどなかったが――緑の茂みに突っ込んだ。
『それをりょうしが てっぽうでうってさ……』
「よっしゃ! 捕まえた!」
茂みから顔を突き出すと、アーサーは悠長に座り込んでいた黒猫を両手でぎゅ、と握りしめた。にゃあ! というのは猫の叫び。
ガウェインは全身でそれを拒否するかのように、耳と尻尾と全身を大きく動かして、暴れ、抵抗した。
「いてっ! いててっ!」
犬ならずとも、ペットというものは飼い主に似るものなのだろうか。
ガウェインは思い切りアーサーの手を引っ掻くと、力が緩んだその瞬間に飼い主の手を抜けだして、走り出した。もう一体何度目になるのだろう。
遠くなる黒猫を見つめ、アーサーは「いてぇー」と呟いた。じんわりと滲む瞳を引っ掻かれた手に向けると、見事なまでに血が出ている。
散々な目にあった。バッカス先生には説教されて、ガウェインには逃げられて、追っかけて、捕まえても、逃げられた。しかも爪で引っ掻かれた。痛い。早く処置をしてほしいけど、屋敷に戻ってもバッカス先生ならずヨハンにまでも説教をされてしまうかもしれない。
どうしよう。
そう心の中で呟いて、目を閉じ、ため息をつき、顔を上げる。
そして彼は驚いた。
そこにいたのは、見たこともない、黒い髪と黒い目を持つ、見たこともない少女だったからだ。
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