第一章 太陽の少年と異国の姫君

第一章 太陽の少年と異国の姫君 1

 千年以上昔の話だ。

ゴルロイスの妻イグレインに恋をした当時のイングランド王は、魔法使いの魔術によりゴルロイスに姿を変え、イグレインと寝床を共にする。

 のちにイグレインは身ごもり男子を出産するが、契約により男児は騎士エクターの息子として育てられる。

 その男児の名はアーサー。

 のちに全世界に名を馳せ、ヨーロッパ最大の伝説の王となる騎士の名だ。

「アーサー王はすごいんだぞ」

 そう語ったのは同じ名を持つ少年だった。

「台座に刺さっていた誰も抜くことができなかった剣を、アーサー王はあっさりと引き抜いたんだ。そこになんて書かれていたと思う?『これを引き抜いたものは王となるだろう』って。アーサー王がそれを引き抜いたのはたまたまだと思う?それは違うよ。偶然なんかじゃない。アーサー王が剣を引き抜いたわけじゃない。剣がアーサー王を選んだんだ」

 同じ名を持つ騎士の名を、まるで自身のことのように語る少年。細い指の上で、器用にくるくるペンを回している。

 手元にあるのは、なにも書かれていない白いノート。数字の書かれた教科書。ほとんど使われた形跡のないインク。机に備え付けられている本棚には、折り目どころか指紋のひとつもついていないような真新しい辞典がいくつも綺麗に並んでいた。

 そうですね、と首を縦に振ったのは、毎日毎日やってくる家庭教師の女だった。彼女の名前はマルグリット・バッカスという。しかし、この今目の前で腕を組み、教科書を持ち硬い表情で眼鏡を光らせる中年女性は、マルグリット真珠よりもマティルダ名高い戦士の方がよく似合っている――という思いはペンから落ちるインクと共に胸の奥に隠しておく。

「坊ちゃま、アーサー王は素晴らしい人物です。まさしく、伝説というべきにふさわしい」

「そう思うだろう?」

「思いますとも。ですが坊ちゃま、いくら伝説と名高いアーサー王と同じ名前を持つあなたとも、お勉強もせずに立派な人間にはなれませんよ。そろそろ、問題をお問きなさい」

 そういってぺちん、と少年の手を叩き、インクの乾きかけたペンを叩き落とす。いてっ! というのは少年の小さな叫びだ。

「いてーよバッカスセンせー。暴力はんたーい」

「お黙りなさい。『少し休憩』といって一体どれほど経つとお思いですか? もう、十分以上も経ちますよ!」

 元々よく膨らんだパンのような顔を更にぱんぱんに膨らませ、憤慨する。

「せんせーあと五分」

「ダメです」

「じゃあ一分」

「もう過ぎました」

「なんだよ!」

 アーサーはそう大げさに叫んで、机の上に突っ伏した。白紙のノートに寝そべる金髪にため息をつき、バッカス教師は頭を抱えた。

「まったく、毎日毎日アーサー王アーサー王と。私はあなたにお勉強を教えにきているわけであり、あなたのお話を聞きにきているわけではありませんよ」

 嘆息と共に吐かれたその言葉に、アーサー少年は金色の毛先を少し動かし突っ伏したまま無言の返答を教師に返した。

 はぁ、というのは再度吐かれた彼女のため息。

 バッカス教師は優秀な家庭教師だった。アーサー少年のことは今よりも更に幼いころから、それこそおしめを付けてハイハイをして床を這っているような時から知っていた。少年の母が不在の時はおしゃぶりを付けて泣きわめく彼を抱き上げて、時におしめを交換し、ミルクを飲ませてやっていた。不在の多い彼の両親の、第二の母親のようなものだった。

 彼女は呆れた表情で少年のつむじの辺りを見つめ、それから名前を呼んだ。

「坊ちゃま。一体、いつまでふてくされているのですか。そんなことでは、アーサー王のように立派な人間にはなれませんよ」

 無言の返答。

 揺らしもしない金色に大きく息を吐き、贅肉の付きかけた腰に手を当てる。

「今日は、海外に出ていた旦那様が帰宅するのではなかったのですか?」

「……」

「そんなことでは、旦那様に叱られてしまいますよ」

「……」

「ほら、坊ちゃま!」

 ピクリともしない体に手をかけようと、揺さぶろうとしたその時だ。

 背後にあるドアから、トントン、というノック音が聞こえてきた。

「バッカス先生。今、少しよろしいですか?」

 落ち着きのある、男の声。この家の使用人であるヨハンのものだ。

 はい、と短く返事をして、さっとスカートを翻す。金色のドアノブの向こうには、穏やかな顔を浮かべたタキシード姿の男が立っていた。ヨハン・ウォルガンは大きな茶色い封筒をバッカスに渡し、簡単な説明を施す。会話の流れは次第に本来の話題から逸れていき、違う話題へ移り変わる。

 ヨハンもまた、長い間この屋敷に努めるベテラン使用人だった。バッカスと年齢が近いこともあり、話題がとめどなく流れてくる。それを咎める相手がいなくとも、よくないことだとわかっていた。それでもそれを止められないのは、自分も年を取ったということか。

 何人もいる使用人を束ねる使用人長を務めるヨハンは気のいい人間で、そして気のきく、空気の読める人間だった。

「――で、――なのですが。そういえば、お勉強の方はいかがですか?」

「え?」

 それまでバッカスと目を合わせ、目を細めていたヨハンが不意に目を逸らし、話題を変えた。ヨハンの穏やかな視線の先。

 間抜けな声とともにバッカス教諭が振り返ると――

 開かれた窓と、入り込む風で青いカーテンがひらひらと揺れていた。残されていたのはインクの乾ききってしまったペンと、まっ白いノート。

 目を点にして風に吹かれてぱらぱらぱらと捲られるノートを見つめること数秒後。

「――っつ! アァァァァサァァァァ!」

 子息の名を叫ぶ甲高い女の声が、昼の空へと響き渡った。


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