道経20 道者の孤独   

様々な決めごと、

ルールから自由となれば、

思い煩うことは減る。


はいと返事をするか、

おうと返事をするか。

そこを区別して、何になろうか。


限りある人の身で、

善悪を評価したところで、何になろうか。


……と、胸を張りたいところではある。

しかし、所詮は人の身である。

人が憂えるようなことから、

自由でい続けることは叶わぬ。



パリピがわいわいとBBQに興じ、

笑顔でいる。


一方の、我は体育座り。

産まれたての赤ん坊のように動き回れず、

また橋桁の下でミーミー泣いている

捨て猫のごとく、ただ佇まう。


笑い合う人々には、余裕が伺える。

我はなんの思いも発さぬ。

おぉ、さも愚者のごときではないか!


時折、心がグラグラとする。

奴らはピカピカ、我どんより。

奴らはハキハキ、我もんもん。



凪いだ海のように、静かであらんことを。

風のように、とどまらざらんことを。

祈りのごとく、自らに、

かく呼びかけねばならぬときも、ある。


それが、偽りなきところである。



人々のように社会にはまらず、

我はただ、片隅で、在る。


このあり様が、人と違うと呼ばれるのは

もはややむなきことである。


だが、それでも道とのつながりは感じる。


大いなる母に養われている、実感。

それはいま感じる孤独感と引き換えにし、

なお余りあるものである。



○道経20


絕學無憂

唯之與阿 相去幾何

善之與惡 相去若何

 學を絕たば憂い無し

 唯と阿と 相去るは幾何ぞ

 善と惡と 相去るは若何ぞ


人之所畏

不可不畏 荒兮其未央哉

 人の畏る所

 畏るべかざるも

 荒として其れ未だ央きざるかな


衆人熙熙 如享太牢

如春登臺

 衆人は熙熙として

 太牢を享くるが如し

 春に臺に登りたるが如し


我獨怕兮其未兆

如嬰兒之未孩

儽儽兮若無所歸

 我れ獨り怕とし其れ未だ兆さず

 嬰兒の未だ孩ならざるが如し

 儽儽として歸す所無きが若し


衆人皆有餘 而我獨若遺

我愚人之心也哉!

 衆人は皆な餘有れど

 我れ獨り遺える若し

 我れ愚人の心也かな!


沌沌兮

俗人昭昭 我獨若昏

俗人察察 我獨悶悶

 沌沌かな

 俗人は昭昭 我れ獨り昏なるが若し

 俗人は察察 我れ獨り悶悶


澹兮其若海 飂兮若無止

衆人皆有以 而我獨頑似鄙

 澹たるは其れ海の若く

 飂なるは止む無きが若し

 衆人は皆な以うる有れど

 我れ獨り頑として鄙なるに似る


我獨異於人 而貴食母

 我れ獨り人に異なりたり

 而して母に食わるを貴ぶ



○蜂屋邦夫釈 概要


さまざまな学びを断てば、憂いはなくなる、と説いた。だが、それでも他の人々が送るきらびやかな暮らし向きに心動かされることも少なくはない。そして彼らに比べ、なんと自分は沈み込んでいるのだろうか、とも。だが、これこそが道に、すべての大本につながっている証であることを、忘れはならないのだ。



○0516 おぼえがき


道者、痩せ我慢するの章。


結局のところ、道者というのは理論値的存在なんですよって話なのでしょうね。そしたらあなた、達しようのない理論値的存在にすべての人間が到達した世の中になれば世の中は良くなる、って話になるし、この本そのものが壮大な皮肉であるとか当てこすりになってくるじゃないですか。いいよ道家、まぁ原著者はさておき後継者たちは明らかに道の境地に至れてないしね、仕方ないね。


もしくは、どんなに道に接続したと確信しても、ひとたび一章の言う「欲」を得れば、たちまち道の境地から離れてしまうのだよ、という警句にも読めますね。


悟りを得たところで、そこはゴールではない、か。なんか手塚治虫「ブッダ」を読まされてる気分になってきた。そういやまだ仏典全然読めてないんだよなあ。難しくて頭フットーしちゃうからなぁ、あれ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る