道経19 回帰すべき境地 

崇め奉るような対象をなげうつ。

人々の生活は潤おう。


細々とした煩瑣なルールを忘れる。

人々は思いやりを思い出そう。


匠のわざ、財貨を捨てる。

ここに盗賊は成り立つまい。



上記はこれまでにも何度となく

語ってきたことである。


しかしながら、これらのみでは、

道への到達には未だ届かぬ。


故に、更にこの句を

続けるものとしたい。


模様無き布を服となし、

切り出したばかりの枝のような、

素朴なる心持を抱くのである。


かくてエゴは小さくなり、

欲望も抑えられよう。



○道経19


絕聖棄智 民利百倍

絕仁棄義 民復孝慈

絕巧棄利 盜賊無有

 聖を絕ち智を棄つ

 民が利は百倍す

 仁を絕ち義を棄つ

 民は復た孝慈す

 巧を絕ち利を棄つ

 盜賊の有りたる無し


此三者以為文不足

故令有所屬

 此の三者は以て

 文足らざると為さん

 故に屬きたる所有らしむ


見素抱樸 少私寡欲

 素なるを見樸なるを抱く

 私少なくして欲寡なし



○蜂屋邦夫釈 概要


聖なる教え、さかしらな考え、仁愛や正義、技巧や理屈。そういったものから切り離されれば、世の中は良くなる。しかしこれらをルールとするには足りない。そこで拠り所を作るのだ。素朴なる心持ちと、私利私欲の少ないことと。



○ 0516 おぼえがき


センセーがたの見解も盛大に割れている。特に「文」「屬」の二文字がヤバい。そう言うのを見ていると、やっぱり「ただしい解釈」なんてこだわり過ぎたら負けだな、という感じにもなる。とりあえず自分が紹介している蜂屋氏釈とは全く違う方向の見解に落ち着きました。


たださぁ、この章もさぁ。「こうすればより素朴な生活が手に入るよ! やったねたえちゃん!」とか言われてもさぁ、既に持てる人民に再び持たずに済む境地へとたどり着かせんのって無理&無茶やぜって思うのよね。衆としての人類は液体のようなもの、流体のようなものだと思ってる。そしてそこはもはや「文明の利器、様々な財貨によって完全に染め上げられている」。流れるべきところに流れているし、注ぐべきところに注がれている。言い方を変えれば、どんな状態にあろうとも、「人間は既にして道の境地に到達している」とは言えるのかもしれない。


一方で、この書が説く無為自然の境地には、それはそれで憧れる所もある。やっぱり為政者としての言葉ではなく、自己を整えるための言葉として見るのが至当のような気がする。

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