道経18 大道廢れ仁義有り

理念について考えてみよう。


理念、すなわち

「かくあるべきである」という思いは、

人々がかくあらざるがゆえに生じる。


目指すべき境地に至っておらぬ、

ゆえにこそ、その境地を目指すべき、

となるのである。


誰もが道の境地に至っておれば、

ことさらに道について

語る必要性も生じるまい。


だが、至っておらぬ。

ゆえに、我々は道を語らねばならぬ。

それが無謀な試みであると知りながら。



この辺りを、

世俗になぞらえて語ってみようか。


世の中にてモラルが問われるのは、

モラルの大元である原則が

蔑ろにされているからである。


小賢しい知恵がはびこるにより、

「騙す」「騙される」関係が生じる。


親族が睦み合えぬからこそ、

睦み合えるものを

「孝行もの」「慈しむもの」

と褒めやそす。


忠義とは、そもそも人に仕える者が

抱くべき観念であろう。

だがどうだ、そんな基本すら

見失っておるものの、なんと多い事か。

ゆえにこそ忠義者は讃えられる。



違うだろう。


戦うものを尊んでおる場合ではない。

戦うものが戦わねばならぬ環境をこそ、

憎まねばならぬのだ。


そもそも戦う必要がない世界。

それこそが、道の境地に

合致した世界なのであるから。




○道経18


大道廢 有仁義

智慧出 有大偽

 大道廢れ 仁義有り

 智慧の出づるに 大偽有り


六親不和 有孝慈

國家昏亂 有忠臣 

 六親和さずば 孝慈有り

 國家昏亂せば 忠臣有り



○蜂屋邦夫釈 概要


(十七章からの接続とする)

……そのため、大いなる道が廃れてから仁義が語られるようになった。知恵が働きだしてから虚偽が横行した。親族が不和となって孝行息子や慈父がもてはやされた。国が混乱したら忠臣が現れた。



○0516 おぼえがき


儒に対する激烈なアンチテーゼとして成り立っている、みたいな感じで認識されている章。つーかこの辺って、いわゆる炎上マーケティング的アレなんじゃねえの、とか思っちゃいますよね。儒への批判というより、この当時の常識に対して逆張りしましたよ、的な。


ただその辺は、儒墨道の、この当時における力関係に基づかなきゃ検討のしようがないんだろうなあ。その辺を占える材料、どんくらいそろってるんでしょうね?


とりあえずこの章を読むと、この章のテキストを最初に思いついたやつのマーケティング能力異常だよな、と思えてしかたありません。なんだよこの端的にして扇情的、且つ、ぱっと読んだそばからすぐさま理解させてくる感じのアレ。





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