道経17 道と人     

道と、人とのかかわり方についてである。


道者にとりては、

道はただあるだけのもの、である。


そこに至ろうとするまでには、

道を素晴らしいと思い、讃える段階、

道が底知れず、恐ろしく思う段階、

道の存在を疑い、侮る段階、

が、存在する。


存在を疑う者に、

道は姿を現さぬのだ。


言葉でどうにかなるものではない。

故に道者は言葉を発さず、

最低限の言葉にして、

実践のみを積み重ねる。


そして人々は、道者のなしたことを

「これが我々が自然と成し遂げたのだ」

と感じることであろう。



○道経17


太上 下知有之

其次 親而譽之

其次 畏之

其次 侮之

 太上は 下は之の有るを知る

 其の次は 親しみ之を譽れとす

 其の次は 之を畏る

 其の次は 之を侮る


信不足焉

有不信焉

悠兮 其貴言 功成事遂

 信の足らざらば

 信ざらざる有り

 悠なるかな

 其れ言を貴とし

 功は成り事を遂ぐ


百姓皆謂我自然

 百姓は皆な我れ自ら然りと謂わん



○蜂屋邦夫釈 概要


政治は民に「それがある」とだけ認識されているのがよく、次いで敬い讃えられ、次いで恐れられ、最悪が侮られる、となる。信義無き政治を民は信じない。為政者が殊更に言葉を発さず、黙々と施政をすることで、民は彼らの地力によって暮らしていけているのだ、と認識する。それが最良のありようである。



○0516 おぼえがき


通説に大人しく従いたいな、とは思いながらも、世説新語における王禎之のリアクション

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054889269493

から考えるに、上記の認識にした方が、より自分の中で繋がりやすそうだ、と思った。というか学者センセーがたの所説を読むと、そもそも訓読の段階で諸説紛々だから、いいじゃん自分の気持ちに従えー、と。


ちなみにこの考え方の弱点はラスト一行です。「民」までは道者の対比的存在として見なせるけど、百姓として書かれると多くの人、となってしまう。まぁこれも「道と一致していないほとんどの人たち」と認識することも可能かな! まぁ苦しいよな!

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