道経8 上善は水の若し
道のありようがよくわからぬ、
とは語ったが、幾分近いものならばある。
水である。
水はあらゆるものの活動の助けとなる。
かと言って誰かと争いはせぬ。
衆人が避けたいと思うところ、
即ち、低所に常にあろうとする。
これらのありようは、
道のありようと近似している。
具体的に、水のありようから
検討してみよう。
前述したとおり、低地にある。
深々と湛えられており、みだりに揺らがぬ。
そばにあり、寄り添っている。
その言葉は、実直である。
ひとびとを、よく治めている。
ものごとの処理が、適切である。
行動が、時宜に適っている。
争わぬ、争わぬのだ。
故に、それは咎められぬ。
○道経8
上善若水
上善は水の若し
水善利萬物
而不爭處衆人之所惡
故幾於道
水は善く萬物を利す
而して爭わず
衆人の惡みたる所に處す
故に道に幾し
居善地 心善淵
與善仁 言善信
正善治 事善能
動善時
居すは地が善し 心は淵きが善し
與すは仁が善し 言うは信が善し
正すは治が善し 事うは能が善し
善き時に動く
夫唯不爭 故無尤
夫れ唯だ爭わず 故に尤無し
○蜂屋邦夫釈 概要
道のありようは水に似ている。分け隔てなく与え続け、争わず、低くに居場所を定め、静かにたたずまい、人に思いやりを持って接し、実直に語り、事態は成り行きに任せる。水のように振る舞えば、トラブルはない。
○0516 おぼえがき
夫唯不爭を結論として語るにあたっては、居善地心善淵與善仁言善信正善治事善能動善時のうち、仁言善以下がクソすぎる。いや、水はしゃべんねえし治めねえよ。「水のように振る舞いましょうね」についての補足(蛇足)を、原テキストの押韻になぞらえて後世人がぶっこんできたんではないか、と、思わざるを得ない。わかるよ、真似したくなるよな、リスペクト半端ねぇ人の物言い。けどよ、頼むから差別化してくれ。
あと、いまさっき天は仁ならずっつっといて、なんで直後の条でいきなり矛盾してんの? みたいなところも考えないといけない。ただ、このへんは案外すとんと腑に落ちる。天、すなわち道は「仁」を基調には動かない。しかし、その表象だけで言えば「仁」っぽく映る。無為自然の有り様からすれば他者には寄り添っているように見えるのだが、それは自然の成り行き故にそうなるのであって、ことさらに「仁」と儒教で呼ばれるメンタリティに由来するものではない、となるだろうか。
老子のどこが原著で、どこが後世注か、みたいな研究、どっかにないかなあ。ありそうなもんだけど。
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